帰り道ゆえ、真吾の屋敷まで同行してやることにしたが、辻駕籠の代金もないらしく、外神田から本所南割下水の屋敷まで歩かねばならなかった。
駕籠の代金を出してやると言っても固辞されるに決まっていた。
真吾との押し問答が面倒で、崎十郎はあえて申し出なかった。
由蔵を伴っての道行きは歩みが遅い。
真吾は過剰と思えるほど、祖父をいたわりながら歩いている。
ふらふらと提灯を揺らしながら、ゆっくりゆっくりと本所へと戻った。
「拙者ひとりで大丈夫です。崎十郎殿はどこぞに向かわれるところではなかったのですか」
真吾は気遣いの言葉を口にした。
「由蔵殿は己を失うておられるご様子。先ほども大勢の屈強な火消人足どもをてこずららせておられたではないか。途中で急に錯乱でもなされれば、真吾ひとりの手に負えまい」
「祖父はいつも物静かで落ち着いております。あのように暴れたことは初めてなのですが、先ほどのいまなので、ないとはいえませぬ。まことに助かります」
由蔵の歩行に気を配りながら、真吾は丁寧に頭を下げた。
「ところで善次郎殿の手伝いは頻繁にしておるのか」
「お恥ずかしいしだいですが、わたくしには他に取り得がございませぬゆえ、英泉先生のご厚意に甘えております」
「善次郎殿にせいぜい駄賃を弾んでもらうことだな」
「いえ、わたくしなどまだまだ未熟者ゆえ……」
真吾の言葉を遮って由蔵が突然、言葉を挟んだ。
「なにを申しておる、真吾、そなたは知らぬだろうが、蔵地家の蔵の隠し扉の奥には、使い切れぬ金銀が隠されておるのだ。先ほども危うく鍵を奪われるところであった」
由蔵は自慢げに鼻を鳴らした。
「鍵は、これじゃ。加瀬の小倅にも見せてつかわす」
懐から古びた蔵の鍵を取り出して崎十郎の鼻先に突き出した。
鍵には古びて色褪せた紅い紐が通され、首から吊されていた。
「それはそれは、危ういところでしたな。大事な鍵が奪われず、まことに祝着至極」
話を合わせた崎十郎に向かって由蔵は鷹揚に頷いた。
(蔵地家は三河以来の譜代で、名家として知られておったそうだが……)
外から見ただけでも築地の崩れや屋根の傷み具合は明らかだった。
金銀財宝などあろうはずもなく、蔵の奥に隠し扉があるとは、さらさら思えなかった。
ちなみに、崎十郎が加瀬家へ養子に入った頃は、由蔵の息子が当主で、傍目にも内福と察せられた。
子供心にも、旗本と御家人とではずいぶん暮らしぶりが違うと、羨ましく思っていたものだった。
十年ほど前に先代夫婦が相次いで亡くなり、長男の隼人助が当主におさまって以来、蔵地家の身代は、にわかに傾き始めた。
大勢いた奉公人や女中は、しだいに減って、ひとりも見かけなくなって久しかった。
いまは広い屋敷に、由蔵と隼人助と真吾の三人しか住んでいない。
「祖父は、この通り、遠い昔の記憶やら夢想やら、夢の中に生きておるようです」
童のような祖父を微笑ましく思うと同時に情けなくもあるらしく、真吾はなんともいえぬ半笑いを浮かべた。
「誰しも歳をとれば記憶違いも多くなり、童に戻ると申すからな」
我が家で待っている園絵の白い顔を思い浮かべた。
「蔵に残っているといえば、先祖伝来の宝刀、備前長船景光だけというありさまなのですが、鍵だけは肌身離さず、いつも身につけておるのです。さきほどは、大事な鍵を奪われると誤解したゆえ大暴れしたものでしょう」
「櫛の一件は、火消どもの見間違いだったのであろうな」
崎十郎は火消人足たちと惚けた老人との齟齬を知って苦笑した。
「崎十郎、先ほどはご苦労であった。屋敷に戻ったら褒美を取らす」
由蔵がおごそかに告げた。
表情は往事の堂々たる風貌を彷彿とさせたが、目の奥の光は虚ろだった。
(うちの養母上も近いうちに、こうなられるのではないか。現に先ほどもおかしな言動だった)
にわかに心配になったが、
(来年、七十になる父は、いまもって目も衰えず、意欲もますます増しておる。同じ老人でも雲泥の差があるではないか。養母上がこうなられるとは限らぬ)と思い直すことにした。
外神田から本所までそれほど遠くないのだが、遅々として先に進まなかった。
柳原通りを浅草御門の方向に向かっていたとき、
「ほれ、あそこに奥がおるではないか、真吾、呼んでまいれ」
由蔵は突然、柳原土手を見上げて一本の柳の木を指さした。
土手は黒々と闇に沈んで、柳の枝が寒々と身を震わせている。
由蔵の妻女はとっくの昔に亡くなっていて、崎十郎は会ったこともなかった。
「真吾、奥が行ってしまうではないか。早く行って『わしはここじゃ』と申してまいれ。奥は道に迷うておるのじゃ」
「はい、ただいま参ります」
真吾は由蔵の指し示した闇に近づいた。
「お祖父さま、お祖母さまは、のちほど屋敷に戻られるそうにございます。先に帰って待つことにいたしましょう」
「おお、そうか、そうか」
由蔵は嬉しげに何度も頷くと、両国西広小路方向へ歩を進め始めた。
足取りも軽くなって速度が早まった。
背筋もしゃんと伸びている。
両国橋の橋番所の前を通り過ぎた。
番所の中の灯りが揺れて人の気配を感じさせた。
「他に望みとてありませぬが、思うように絵に打ち込めぬことが、心底、辛いです」
真吾は小声で、ぽつりとつぶやいた。
「英泉先生ではなく、北斎先生や応為先生に私淑して画の道に精進いたしたいのです」
見れば、涙ぐんでいる。
真吾がお栄を尊敬し、姉のように慕っていることを崎十郎も知っていた。
「絵など描く気さえあれば、いくらでも描けるではないか」
「むろん自身で研鑽することも大事ですが、やはり優れた技を直に目にすることが一番です。心を揺さぶられて、画に向かう気持ちも高まるのです」
「ふむ」
気のない返事をしたものの、ふと胸を突かれた気がした。
(そういえば、あのように汚い〝鼠の住み処〟に拙者がわざわざ足を運ぶ理由は……)
早くから養子に出されているから、肉親の情などないも同然だった。
加えて、あの奇矯な親父と顔を合わせても苛立ちしか感じない。
理由はなにかと問われれば、北斎やお栄の描く画そのものや画を描く課程を間近で見られるからにほかならなかった。
画を描くどころか、目利きですらない崎十郎でもなにかを感じるのだから、真吾なら得るものは途方もなく大きく、宝物のごとき貴重な刻に違いなかった。
「おお、話すうちに、もう到着だ」
蔵地家の築地塀が、手にした提灯の灯りに黒々とした姿を現した。