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第13話 真吾と痴呆の祖父

 まだ宵の口である。園絵が寝入ってしまうまでにはまだまだ間があった。


 両国橋をずんずん渡ったところで、はたと足を止めた。


 いける口なら、安い煮売り酒屋でひとり酒をしてねばる手があるが、崎十郎は呑めぬため、刻を潰すことが難しい。


「ついつい屋敷を出てきたものの……」


 ぶつくさ愚痴りながら、両国西広小路を通り過ぎてぷらぷら歩いていると、浅草御門前で善次郎に声をかけられた。


「池之端に馴染みの小料理屋があるのだが美味くて安い店なのだ。いまからどうだ」


 まさに渡りに舟だった。


「喜んでお供します」

 崎十郎は即答した。



 長く続く柳原土手を右手に見ながら、神田川沿いを西に向かった。


「実は、女将があだっぽい女子でな。なんでも昔は永代寺の巫女だったらしい。なかなかおもしろい素性だろ。で、女将の腹違いの妹ってえのがまた……」


 女の話題ばかりでうんざりするものの、ひとりでうろつくよりは、よほどましだった。



 神田川に架かる和泉橋を渡った。


 渡ってすぐ左手の川沿いには、材木問屋が多い神田佐久間河岸が長く続いていた。 

 火除け広道を挟んで右側は町人地が広がっている。 


 橋を渡って北にまっすぐ向かいかけたのだが……。


「ありゃあなんだ」

 善次郎が道の先を指差した。


 神田佐久間町と麹町平河町に挟まれた通りの彼方でなにやら騒動が起きていた。


「行ってみるか、崎十郎」


 善次郎は野次馬根性丸出しで近づいていった。


 北斎やお栄と同じく、善次郎も好奇心が人一倍強かった。

 見たものをなんでも貪欲に目に焼き付けて画に取り込むのだ。



 崎十郎もゆっくりと騒ぎの渦に向かったが、もとよりかかわり合いになるつもりはなかった。

 他人前ひとまえで裏剣客としての実力を発揮できないから君子危うきに近寄らずである。


 人垣の後ろから頭越しに様子を窺った。


 小間物屋の店先で、数人の男たちが、ひとりの老人を取り囲んでいた。

 男たちは町火消らしく、も組と染め抜かれたそろいの半纏を着ている。


 白髪で貧弱な髷を結った老人は、武家の隠居といった風体で、小袖や羽織はひどく古ぼけていたが、かつては良い品だったと思われた。

 叫びながら脇差を抜いて振りまわしている。


(老人は常軌を逸しておるようだな)


 着崩しかたが尋常ではなかった。

 奇声を発しながら、むやみやたらに脇差を振り回す奇矯な動きから見て惚けているように思えた。


 火消人足たちが刃をさして恐れていない様子から察するに、刀は竹光か刃引きのようだった。


 小間物屋の主が、憮然とした表情で成り行きを見守っている。


「も組といえば仏の忠兵衛親分の子分たちだ。おかしな爺さんが誰かは知らんが」


 善次郎は崎十郎を振り返った。


「あの老人には見覚えがある気がするのですが……」


 喉元まで出てきて、どうにも思い出せない。

 崎十郎は首を捻った。


「なんでも、あの爺さんが店先の櫛を黙って持ち去ろうとしたんだそうだよ」


 隣の青物屋の小僧が、訳知り顔で、お使いの途中といった小女と話をしている。


 老人が息切れしてきた。


 老人を取り巻く火消人足たちの輪が縮まる。


「刃引きなんぞ怖くねえや」


 ひとりが暴れる老人の背後にまわって背中に蹴りを入れた。


 枯れ木のように痩せこけた老人の身体は前に吹っ飛んで、へしゃげた蛙のように地面に突っ伏した。


 盗んだ櫛がよほど大事なのか、背中を丸めて両腕で胸のあたりを抱きながら地面にうずくまった。


「ふてえやつだ」


「老いぼれでも、盗人は容赦しねえぞ」


 火消人足たちが老人に殴る蹴るの乱暴を働き始めた。


「老人相手に、やり過ぎだ。取り押さえるだけでよいではないか」


 崎十郎と善次郎が顔を見合わせたときだった。


「お待ちください。祖父を許してやってください」


 画から抜け出したような美少年が、老人と火消人足たちの間に割って入った。


 蔵地真吾だった。


「夜中のうちに行方知れずとなり、一日中、市中を探しまわっておりました。なにをいたしたか存じませぬが、この通り、ことの是非もわからぬありさまです。わたくしが償わせていただきますゆえ、どうかどうか、ひらにご容赦を」


 真吾は必死の形相で火消人足たちに詫びた。


「老人は、蔵地家の先々代の当主、由蔵殿であったか」


 近頃、とんと見かけることもなかった。


 かくしゃくとした由蔵しか記憶になかったため、どろんと濁った目をして、だらしなく口を半開きにした老人が由蔵であるとは思いもしなかった。


「真吾から、病がちの祖父の世話で苦労していると聞かされていたが、こういうわけだったのかい」


 善次郎が気の毒そうに大きく息を吐き出した。


「祖父の監督不行届は、わたくしの責。祖父を許せぬと仰せなら、このわたくしを存分になさってください」


 真吾は、火消人足たちに土下座して謝った。


火消風情ふぜいに、ここまで卑屈にならずともよかろうに)


 崎十郎には不可解だった。


 火消人足――鳶の者は気が荒い。


「おう、この小僧を叩きのめしちまえ」


 図に乗った火消人足どもは、無抵抗な真吾に殴る蹴るの狼藉を働きだした。  


「やめぬか」


 たまらなくなった崎十郎は、腹に力を籠めて大声で制した。


 一瞬、場が止まって皆が崎十郎に顔を向けた。


「崎十郎殿。英泉先生も……」

 真吾の顔に生気が蘇った。


 だが、すぐに頬から血の気が引いていった。


「お恥ずかしいところをお見せいたしました。すべてわたくしが悪いのです。祖父が屋敷の外に出ぬよう、兄からきつく申し渡されておりましたものを……。つい油断しておりましたゆえの騒動……。どうか、お忘れください」


 真吾の卑屈さに、崎十郎は驚いた。


「お武家さん、関係ねえことに首を突っ込むと巻き添えを食いますぜ」


 一番、大柄な火消人足が、つかつかと歩み寄ってきた。


「わっちは、も組の梯子持ちで孫一ってんだ。悪いことは言わねえ。口出しは無用に願いますぜ。へへへ」


 孫一は崎十郎の頭のてっぺんから爪先まで値踏みしながら凄んだ。


 武士は町人より身分が上だが、身分で喧嘩には勝てない。


 衆人環視のなかで、無腰の庶民相手に刀を抜けないと舐められているのだ。


 無礼討ちなる言葉はあれど、実際に行われたのは遠い昔で、いまはとんと聞かない。

 町人を斬り殺せば、よほどの理由がない限り、武士とて重い罪に問われてしまう。


 素手でやりあうしかなかった。

 相手が脇差や匕首あいくちを取り出せば大刀の出番だが、大刀対匕首では武士側が有利なだけに上手くあしらわねばならない。

 戦い方が難しい。


 喧嘩慣れした輩は、武士など恐れていなかった。


「おい、崎十郎、悶着は困る。ここは堪えてくれ」


 気まずそうな顔をした善次郎が、崎十郎の背中をつついた。


「忠兵衛親分さんにはなにかと世話になってるもんで、悶着はまずいんだ」


 崎十郎が裏剣客の実力を発揮せぬかと案じているらしい。


「わかっております。大勢の前でそのような真似はいたしませぬ」


 笑顔で応じた崎十郎は、ひとつ大きく息を吸い込んだあと、猛り立った火消人足に向き直って、へらへら笑いをしてみせた。


「いやなに、拙者は穏やかに話し合えぬかと申しておるだけだ」


 腰抜け侍を装って、おどおどした素振りで、


「銭は、さしてもってはおらぬ。だが、ご老人が店に迷惑をかけたと申すなら、その損料を弁償しよう。なあ、孫一とやら」


 なけなしの銭が入った財布を懐から取り出そうとした。


「銭の問題じゃねえや」


 孫一がいきなり殴りかかってきた。


「わわっ」

 崎十郎は頓狂な悲鳴を上げながら間一髪でかわした。


 まぐれでかわしたとみられねばならない。

 かわしたあと、わざとくさくよろけてみせた。


「無関係な崎十郎殿になにをいたす」


 立ち上がった真吾が、崎十郎をかばって孫一との間に割って入った。


「やっちまえ」

 火消人足たちが真吾と崎十郎に襲いかかってきた。


「こいつも連れだぞ」


 ついでに善次郎も巻き込まれた。


「だから言わねえこっちゃねえ」


 善次郎は、棒切れで殴りかかってきた火消人足を体さばきでかわすや、


「降りかかる火の粉でえ。もうやけくそだ」


 火消人足のみぞおちに蹴りを入れた。



 とうとう大乱闘が始まった。


 先ほどまで無抵抗だった真吾も加わった。

 なにごとにも真面目な真吾は武芸にも励んでいるから腕が立つ。


「いいぞ、どちらも頑張れ」


 気づけば、野次馬の数は途方もなく膨れ上がっていた。


「背の高けえお武家さまだけ見かけ倒しかよ」


「町人とお稚児さんは凄げえのによ」


 拳や蹴りから無様に逃げ回る崎十郎を揶揄し、嘲笑する声が、あちこちから聞こえてくる。


(むふふふ、拙者が本気を出せば……。くくく、拙者は裏剣客なのだ)


 崎十郎は、むずむずするような心地よさを覚えながら、ひょいひょいと身軽に逃げ回った。


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