(おふくろが亡くなってから、もう三月あまりか)
塵を避けながら家に上がると、棚の上に置かれたちっぽけな位牌に向かって手を合わせた。
お栄がいつも着ている黒襟のかかった古い着物は、母、お琴が着ていた古びた格子柄の
北斎とお栄がその気になれば、いくらでも稼げる。
いや、現に実入りはかなりあるはずだったが、好きこのんでの極貧生活だった。
(画狂と所帯をもったおふくろは、どのように思っていたのであろうか)
北斎の画に魅せられて所帯をもったならば金の苦労も苦にならなかっただろうが、名声に釣られ、気づけば子をなして、やむなく所帯をもったとすれば、崎十郎のせいで不幸になったのだ。
あれこれ考えると憂鬱になり、周りの者を不幸にする身勝手な北斎が憎く思えた。
(もう来るまいと思っていても、また来てしまう。自分でもわからぬところだ)
安らぐ気分になれない家だったが、堅苦しい加瀬家より気楽さがありがたかった。
崎十郎は、散らかったものを押し分けてどっかと腰をおろした。
(親父は、あいかわらずだな)
北斎は一晩中、厠に立つこともなく、次々に画を描き続け、崎十郎の来訪に気づいたのは、翌日も午近くなってからだった。
お栄が「食うか」と手渡してくれた握り飯を頬張っていると北斎が厠に立った。
こちらをちらりと見たものの、まるで調度のひとつででもあるかのようになんの表情も浮かべなかった。
「鉄蔵も食うか」
厠から戻った北斎に、お栄が固くなった昨日の握り飯を手渡したときだった。
「もうし」
表の腰高障子をとんとんと叩く音がした。
「おい、どうするんだ、お栄」
「放っておきなよ、兄貴、大事な用があるやつなら裏から廻ってくるさ」
北斎はもちろん、お栄も戸口に向かいそうになかった。
「津軽出羽守家中の者でござる。戸を開けてくだされ」
大名家の家中を名乗られて黙っていられなくなった。
「おい、お栄、応対に出ぬか」
まだ握り飯を黙々と食っているお栄に声をかけた。
「屏風絵を頼むって話だろ。しつこいったらねえんだ。放っておけば帰っちまうさ」
お栄は、にべもなかった。
「お頼み申す。津軽出羽守家側用人を務めます、
北斎が在宅だと知っているらしく、意地になって戸を叩き続け、大声で案内を乞うている。
ちなみに、津軽出羽守の上屋敷は本所二ッ目、南割下水の南にあるから、ここ本所相生町とは目と鼻の先だった。
「なんとかお頼み申す。会うてくだされ。少しでよいのじゃ」
生真面目そうな声は、しだいに憐れ味を帯びてきた。
「いくらなんでも失礼ではないか」
たまらなくなった崎十郎は、立ち上がって戸口に向かった。