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第9話 ネズミの住処な葛飾北斎宅

 北斎宅の路地に面した腰高障子は閉ざされていた。


 夜になったから戸締まりされたのではなく、昼間から締め切ったままなのだ。


 長屋だが端家である。

 裏手の枝折り戸を開けて猫の額ほどの庭に足を踏み入れた。


 伸び放題になった雑草をかき分けて踏みしだくと、脛に草がこすれて痒い。

 袴をはかずに来た短慮をいまになって後悔した。


 今宵は冷え込みが緩いため、庭に面した障子は開け放たれていた。


 食べ物が腐った悪臭に混じって、何日も風呂に入らぬためと老齢ゆえの臭いが鼻を突く。


 たちまち後悔し始めた。


 居酒屋でも行って、呑めぬ酒でもあおってから家に戻り、さっさと寝てしまえば良かった。


「相変わらずひどいありさまだな」


 聞こえよがしにつぶやいたが、聞こえてくるのは隣家の住人のいびきばかりだった。

 長屋の住人は油を始末するために早々と寝入っている。


「人の住居というより、鼠の住み処だな」


 改めて嫌味を言った。



 北斎はもちろん、お栄も家事をいっさいしない。

 食べ物は、近所の煮売り酒屋から届けさせている。


 食べ物を包んであった竹の皮が畳の上に散らかり、誰かが差し入れしてくれた重箱が空になったまま放置されていたが、それもひとつやふたつではなかった。


「そろそろ、この家から引っ越すころだな」


 ひとりで言ってひとりで頷いた。



 引っ越し魔な北斎は、いままでに五十回近く引っ越ししていた。


 占星術、ことに四柱推命に凝っているからだったが、星の運行に合わせて良い方位をとるために転居するなど、崎十郎からすれば正気の沙汰ではなかった。

 とはいえ、家財がほぼ皆無で、大八車に載せれば事足りるから気楽な引っ越しには違いなかった。


 家の中にごみが溜まり過ぎてどうにもならなくなったら、掃除をする代わりに引っ越しするといったところが本音ではないかと崎十郎は考えていた。


 北斎とお栄は散らかった家の中で一心不乱に絵を描き続けていた。

 火影のもとで、ふたつの影がゆらゆらと揺れている。


 黒ずんだ柱には蜜柑箱が釘付けされていた。

 箱の中には妙見菩薩が祀られている。


 北斎は、天空でただひとつ動かぬ北斗星を信仰していた。

 北斗星の守り神は妙見菩薩で、妙見菩薩は長寿の象徴だった。


 毎年、九月下旬から四月上旬まで炬燵を愛用している北斎は、早々と出した炬燵にもぐり込んで、かたつむりのような姿で絵筆を動かしている。


 目下、描きためている画は、絵手本として出版するための画だろう。


 文化十一年に版下絵を集めて出版された『北斎漫画』が好評を博して以来、北斎は次々に絵手本を世に送り出していた。


 絵手本は、元来、習画のために用いられる肉筆の手本だが、門人が多くなり過ぎていちいち肉筆の手本を与えられなくなったという事情があった。



 お栄は、目を釣り上げて必死の形相で筆を走らせているかと思えば、描いたものをめつすがめつしながら、次の一筆を描きあぐねていたりする。


 真剣での勝負と同じなのだろう。


 剣を筆に持ち代えて、紙を相手に死闘を繰り広げている。


 崎十郎が入り込む余地はなかった。


 狭い庭のくさむらを晩秋の冷たい風が吹き抜けた。


 お栄は顎がほんの少ししゃくれているので北斎に「顎」などと呼ばれている。


「おい顎、精が出るな」


 できるだけ軽い口調で、お栄に向かって呼びかけた。


「能面男が来たか」


 崎十郎の来訪にようやく気づいたお栄が仏頂面でつぶやき、またも描きかけの画に視線を戻した。


 お栄はときおり崎十郎を能面呼ばわりする。


 崎十郎は表情に乏しい顔なので画にしにくい。

 わじるしの中に登場させられるなど、とんでもないので、もっけの幸いだと思っていた。


 近づいて見れば、お栄は関羽の画を描いていた。

 関羽が碁を打ちながら、医者に右腕の手術をさせている。

 滴る鮮血が目を惹く、女と思えぬ力強い構図だった。


「わじるしか美人画ばかり描いておると思うておったが……」


 いまにも動き出しそうな関羽に息を吞んだ。


 崎十郎の目からすれば、画は完璧にできあがっていたが……。


「どうもいけねえ。目が死んでらあ」


 口の中でぶつぶつつぶやいたかと思うと、お栄は、仕上がった画を惜しげもなくびりびりと引き裂いて反古紙ほごがみ入れに放り込んだ。

 紙は駕籠に入らずに畳の上に落ちたが、拾う素振りはなかった。



 おおらかで男性的な気性のお栄は、北斎をしのぐ才能の持ち主と目されていた。


 堤等琳の門人、南沢等明に嫁したが出戻って、妻を失ったばかりの北斎とふたりで暮らしていた。れていた。

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