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第8話 崎十郎とやたら気丈な養母

 崎十郎は、町木戸が閉まる前の市中を抜けて、本所南割下水北にある屋敷に戻った。


 下級武士にふさわしい慎ましやかな住まいは、道幅三間(約五・五メートル)ほどの通りに面していて、通り側は板塀、隣家と接する境は生け垣になっていた。


 通りに面した側に、ぐるりに板塀を巡らせた貸家かしやを建てて医者に貸している。


 家の奥は広い畑地になっていて、養母と小者兼下男の六助がこまめに手入れしていた。

 さまざまな葉物や根菜がすくすくと育って、ささやかな農家の風情である。


 六助は一日の仕事を終え、別棟になった小屋に戻っているはずなので、家のうちには園絵しかいない。


 木戸門を開けて静かに敷地内に足を踏み入れた。

 台所口から上がろうと庭に入る枝折戸しおりどに手をかけたときだった。


「お帰りなさい、崎十郎殿」


 養母、園絵の棘を含んだ声が響いた。

 心ノ臓が、びくりと跳ねる。


養母はは上、遅くなりましたが、ただいま戻りましてございます」


 背筋を伸ばして胸元を整えてから丁寧に挨拶した。


 庶民の生まれである崎十郎は、いまもって堅苦しい暮らしが苦手だった。

 いや、暮らしというより園絵が苦手なのだ。


 園絵は、どこにも隙のない女子の鑑のようなご新造さまだった。


 いかに体調が悪かろうと、床に伏す姿を見せたことがなかった。


 毎朝、一番先に起き出し、一分の隙もなく身なりを整えて台所に立っている。


 夜も文内や崎十郎が寝つくまで、夜なべ仕事で繕い物などをしていた。


 いついかなるときも常に背筋をしゃんと伸ばして端然としている。


 誇り高き武士の妻から見れば、崎十郎はいまなお、だらしない半人前だった。


「なぜ盗人のように入ってまいるのです。崎十郎殿は、この家の主ではありませぬか。いつまでも貰われ子の性根が抜けないおひとですね」


 園絵は青々と剃った眉のあたりに深々と皺を寄せた。


「お言葉を返すようですが……。養母上にわざわざお出迎えの労をとっていただかずともよいと存じましたゆえです。日が落ちてからの庭先は肌寒うございます。もしもお風邪など召されてはと思いました」


 くどくどと言い訳をしてしまった。


 園絵は、もう七十二で、二十九の崎十郎とは祖母と孫ほどの隔たりがあった。


 十九年前に養子に入ったとき、園絵はすでに五十を過ぎていた。

 文内に至っては六十半ばの老人で、老夫婦に、武家の作法をやかましく仕込まれた。


 何度か逃げ出したものの北斎の家には戻れなかった。


 苦労してやりくりしている実母お琴の負担になりたくなかったからだ。


 北斎は、まるで金が仇であるかのように、手元にわずかの金を残すことさえ嫌う変人だったから、お琴は常に食うや食わずの生活を余儀なくされていた。


 崎十郎に画の才が皆無だと見限り、手元に置かずに養子に出した北斎に対しての意地もあった。


養父ちち上、ただいま戻りました」


 奥の八畳の間で、文内の位牌に手を合わせてから自室に戻った。


 おもむろに大小を刀掛けにかけてから羽織袴を脱ぐ。

 園絵が慣れた手つきで手伝ってくれる。


「池田さまのところでなにかあったのですか」


 袴の折り目をこれ以上ぴしりと合わせられぬほど几帳面に畳みながら、鋭い眼差しで崎十郎を見上げた。


 得意の詮索が始まったと崎十郎はうんざりした。


 園絵は、むろん文内のような武芸者ではない。


 だが、超一流の武芸者だった文内と長く暮らすうちに妙な勘だけ鋭くなったようで、崎十郎の放つ微細な剣気の名残を敏感に感じ取ってしまう。


 誤魔化しても「外で、なにかあったのでしょう。白状なさい」と、しつこく追及してくる。

 近頃では、執拗さの度が過ぎるようになった。


「若い崎十郎殿は力をもてあましておるゆえ、いつなにをしでかすやら心配でなりませぬ。亡き旦那さまがご存命であれば、このように、わたくしが心を砕かずともよいものを……。我が加瀬家を絶やすような振る舞いだけは厳に謹んでもらわねばなりませぬ。いえ、それどころか、加瀬家をさらに盛り立てていただかねばならぬ身ですよ。それでこそ、下賤な絵師の子を心ならずも継嗣にした甲斐があるというもの」


 園絵は膝を崎十郎に向け直して、ぴしりと正対した。

 鋭い視線が痛い。


「旦那さまは武芸の力量を固く秘しておられたゆえ、武門で名を上げる機会もないまま亡くなられました。世が世であればと口惜くちおしゅうてなりませぬ。とはいえ、武功で名を上げられる世でないことは、わたくしとて百も承知です。崎十郎殿も旦那さまのようにそつなくお勤めをこなしたうえで、上司の方々のお覚えがめでたくなるよう努めねばなりませぬ。些細な揉め事であっても、それを針小棒大に触れ散らかされて足下をすくわれぬとも限らぬのですよ。行いを慎んでも慎み過ぎることはありませぬ」


 園絵は、くどくどと言い募った。


 崎十郎の腕がどれくらいか、同じ屋根の下で暮らしてきたのだから、おおよその見当はついている。

 だから困る。


「承知しております。ご心配なく」


 目が泳いでいないか気になって、気を入れて園絵の目をじっと見詰め返した。


「し、しかと相違ありませぬな」


 崎十郎の無表情さが効を奏した。

 ただ見詰めただけだったが、睨み付けられたと感じたのだろう。

 園絵はようやく矛先を納めてくれた。


「もう子供ではございませぬ。ご安心ください」


「ですが、崎十郎殿……」


 納まったはずの矛先をまたも突きつけられそうになった。


(近頃は、くどさが尋常ではない)


 しだいに腹立たしくなってきた。

 だが、面と向かって逆らうなどとんでもなかった。


「養母上、父の家に昨日、忘れ物をしたことを思い出しました。大事なものゆえ、いまから取りに行ってまいります。もうすぐ町木戸も閉まりますゆえ、今宵は実家に泊まります」


 園絵の返事を待たずに、着流しの上に大小を落とし差しにした。


「れっきとした武士が袴もはかずに出かけるのですか。傍目がありますよ。加瀬家の恥です。羽織はともかく袴だけは……」


 咎める園絵の言葉も耳に入らぬふりで提灯に灯を入れると玄関から外に出た。


「待ちなさい、崎十郎殿」


 園絵の叫び声を背に、逃げるように木戸門を出て通りに足を踏み出した。


(近頃、養母上は、どうも少しおかしいような……)


 園絵がもうろくし始めたのではないかと気がかりになった。

 だが、気丈な養母がそのようなはずがないと瞬時に打ち消した。


 似たような年齢の北斎は、これからまだまだ上達する気でいるではないか。


 崎十郎は腕組みして歩きながら苦笑した。

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