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第6話 裏剣客と自称している崎十郎 

 闇に沈んだ屋敷地を、がに股でどたどたと駆け抜けた。


 幸い月夜である。

 道はほの白く光っていて走るには不都合なかった。


 境内には小丘をはじめ池泉があって水に恵まれた地だった。

 総門前の水路の水は、町中を流れて不忍池に注いでいる。


 丘の斜面にはつつじが植えられてつつじヶ岡の名称で親しまれているが、晩秋なので花の影はまったくなかった。

 門前町の町灯りが夜空を薄赤く染めている。


(このあたりでいいか)


 人気ひとけのない広い境内に出てから、ぴたりと足を止めて振り返った。


「ほうれ、受け取れ」


 追って来た浪人たちに、抱えてきた大刀を一本ずつ放り投げた。


「わわわわ」


「それは拙者の愛刀じゃ」


「やや、違った」


 浪人たちは、薄闇の中を右往左往しながら己の差料を見つけ、慌てて腰に帯びた。


「刀を返すとは殊勝だが、どういうつもりじゃ」


「おのれは馬鹿か」


なますに刻んでみせる」


 腰の大小を取り戻した浪人たちはとたんに強気になった。


 居合いのひとりを除いて、三人がほぼ同時に抜刀した。


「けけけ、腰のものがなければ、この俺さまと勝負にならぬと思うたからじゃよ」


 声で正体を気取られぬように、またも甲高い声で答えた。


「なにをっ」


 月代がむさ苦しく伸びた浪人の一刀が翻った。


 崎十郎が、ひょいと後方に跳ぶ。


 切っ先は崎十郎の身体には届かず空を切った。


「逃げるな」


 背が低くずんぐりした浪人が、刀身を右肩に担ぐようにしながら、何度も素振りをして威嚇してきた。


「来てみろってんだ」


 崎十郎は鯉口を切るでもなく、左脇構えを取った。


 きええええぇ。

 敵の袈裟斬りが襲ってくる。


 体をさばいた。

 同時に踏み込んで敵の懐に入った。

 掌突きで敵の顎を突く。


 突きはおもしろいように決まった。


「げっ」

 短い悲鳴とともに敵が吹っ飛んだ。


「な、なんだと」


 居合い遣いが左脇構えから横一文字に抜刀した。

 光る刃が崎十郎の左の胴を切断せんと迫ってくる。


 崎十郎は抜刀せぬまま、相手の鍔元を己の鍔元に当てて押さえ込んだ。

 体勢を立て直される前に、右手の人差し指と中指で敵の目を突いた。


 ぐえぇっ。

 敵は目を押さえてたたらを踏んだ。


 闇雲に剣を振りまわすが、もはや崎十郎の敵ではなかった。


「危ない。我らを斬る気か」


 大男が後ろから肩をつかんだため、居合い遣いは、ようやく動きを止めた。


「これに懲りたら、身を慎むことだな。さもなくば、また俺さまがお相手するぞ。そのおりは容赦せぬから、そのつもりでおれ。わかったな、馬鹿者どもめら」


 できるだけ甲高いふざけた声で煽った。


「逃げろ」


 大男の叫びとともに、四人はもと来た道を一目散に逃げ出し、ばたばたという間の抜けた足音がたちまち遠ざかっていった。


 おおいに溜飲を下げた崎十郎は、


「くくく、能ある鷹は爪を隠すってな」


 もとの声音に戻って小さくつぶやいた。



 崎十郎は裏剣客と自称している。


 なにも知らずに腰抜け具合を嘲る輩を、心のうちで「馬鹿めら」と北叟ほくそ笑む心地よさがたまらない。


 肉親である北斎やお栄さえも崎十郎の腕を知らなかった。


 唯一の例外が善次郎である。


(思えば、こういう楽しみをもたらしてもらった恩人というわけだ)


 善次郎のにやけた顔を思い浮かべて苦笑した。



 崎十郎は、幼い頃、養子先の雑穀屋で理不尽に殴られたり蹴られたりしていた。


「殴られてばかりは嫌だ。強くなりたい」


 ふと漏らした言葉を善次郎が聞きつけ、武芸馬鹿にもほどがある加瀬文内との縁を結びつけてくれた。


 いまは亡き文内は、代々、加瀬家に伝えられてきた、熊野九鬼水軍伝来の総合武術九鬼神伝流の達人で、善次郎は子供の頃から武芸の手ほどきを受けていた。


 養子に入った崎十郎は善次郎とともに、剣だけでなく、棒術や柔術も厳しく鍛えられた。


 善次郎に一目置くわけは、当時、こてんぱんにされた記憶が、どうしても頭から拭えないからだった。


「さてと……。若竹屋にもう一度、戻るか」


 顛末を報告せねばなるまいと考えながら袴についた埃を払った。

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