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第5話 愛刀〝関の兼常〟を帯びた崎十郎

「どうした、萩の月、大丈夫か」


 善次郎は、階下にうずくまって、ひいひい泣く萩の月に駆け寄ると急いで抱き起こした。


 萩の月は鼻のあたりを押さえて鼻血を出していた。

 打ち身どころか骨を折っているかもしれない。


「ひえええ」


「助けて! あいつらが……」


「ひどいんだよう」


 続いて、残る女郎三人が転げ落ちそうな勢いで駆け下りてきた。


「萩の月さんが生意気だって急に暴れだしたんだよ」


「里助さん、なんとかしてくんなまし」


 半裸の女郎たちは、萩の月を介抱している善次郎の肩にしがみついた。


 岡場所では、こういう揉め事や喧嘩は日常茶飯事だからだろう。

 腰を浮かせかけた崎十郎を、善次郎は目だけで制した。


「これ以上、飛ばっちりを食うといけねえ。おめえらは外に出て隠れてな」


 善次郎は女たちを家の裏手から逃がした。


「代わりの女をよこせ」


「主はおらぬか」


「親父、上がってこぬか」


 二階から怒鳴り声や、柱を蹴る物音が聞こえ、床が抜けそうなほど踏み鳴らされた。


「二階の糞どもめ、下りてきやがれ。見世で暴れられちゃ、こちとらが迷惑でえ。表で相手になってやらあ」


 善次郎は階下から凄みを利かせた声で怒鳴った。


「女郎のくせに無礼ゆえ、こらしめてやったまでのことだ」

 二階から低い声がした。


 粗末な造りの階段をぎしぎしと踏み鳴らしながら、男がひとり、ゆっくりと下りてきた。

 聞き覚えのある、ねちっこい声音に、崎十郎は戸障子の陰にさっと身を隠して男の姿を窺った。


(先日は、覆面をしておったから顔を見なかったが、拙者とお栄を襲った浪人に違いない)


 ひときわ大柄な姿を見て確信した。


 大男に続いて、わめきながら下りてきた残る三人の声にも聞き覚えがあった。


「亡八(楼主のこと)、えらく威勢が良いではないか。わしらに文句があると申すか」


「躾の悪い女ばかりで難儀いたした。揚げ代を倍返しにしてもらおうか」


「吉原の高妓が聞いて呆れるぞ。高慢な鼻っ柱をへし折ってやったわ」


 浪人たちは言いたい放題である。


「俺を、ただの亡八だと思ったら大間違いだぞ」


 善次郎は、奥の部屋との境の板の間に仁王立ちになって浪人たちと睨み合った。


「善次郎殿、拙者に任せてくれ。四人とも、お栄と拙者を襲った一味に相違ないのだ」


 戸障子の裏に身を隠したまま小声で告げた。


「なんだと、よし、わかった。俺は大事な萩の月に早く医者を呼んでやりてえ。崎十郎、この場はおめえに任せたぜ」


 善次郎はにやりと笑った。


「では」


 愛刀〝関の兼常〟を帯びた崎十郎は、懐から手拭いを取り出して手早く覆面をすると袴の股立ももだちを取った。


 争い事や危険を避けるため、吉原の楼閣ならずとも、見世側が客から刀を預かる慣わしである。

 崎十郎は、浪人たちの大刀を、奥の部屋に置かれた刀箪笥から取り出して小脇に抱えた。

 かさばり過ぎて脇差までは持てないので放置した。


 正体がばれてはまずい。思い切り黄色い頓狂な声音で、


「ほれほれ、阿呆どもめ、来てみい」


 叫ぶや、脱兎のごとく裏木戸から外に飛び出した。


「誰か裏から逃げ出しおったぞ」


「いかん、大刀を持ち逃げされた」


 慌てふためいた四人は、脇差だけ差して裸足で飛び出してきた。


 崎十郎は無言のまま小役人の家が立ち並ぶ通りを抜け、根津権現の別当、昌仙院の境内に向かった。


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