二階から客たちの馬鹿笑いと女たちの耳障りな嬌声が降ってくる。
崎十郎は耳を塞ぎたくなった。
淡泊でおつな味の豆腐が不味くなる。
「今日は明るいうちから四人も客がついたんだ。
「繁盛で、なによりです」
小腹が空いていた崎十郎は、適当に愛想を言いながら残りの豆腐に箸を伸ばした。
「せっかくだから、泊まっていけ、崎十郎」
善次郎は、にやにや笑いを浮かべながら酒を注いだ茶碗を勧めた。
茶碗は、かけつぎされているうえに縁が欠けていた。
やはり角樽など不似合いな場所柄だったと思えば豆腐の苦みが増した。
「拙者は下戸なもので……」
早々に切り上げたい崎十郎は、顔の前で手を振って茶碗の酒を断った。
「十日ほど前にうちに来た萩の月は、吉原で座敷持ちだった高妓でな。二十七で年季が明けてからゆえ少々、
無料でないところが商売人である。
崎十郎を萩の月の馴染みにして通わせようとの魂胆が見えた。
「震いつきたくなるのは善次郎殿が好き者ゆえでしょう。真に良い女なら年季が明ける前に身請けされたでしょうし、気の利いた女なら年季が明けてから岡場所勤めのはずもないでしょう」とからかいたかったが、口にはできなかった。
善次郎は、どこまで善意でどこからが商いなのか、腹蔵がなさそうな笑顔が曲者だった。
「ところで、お栄から聞いたんだが、先日は大変だったそうだな」
善次郎は意味ありげに横目で見ながら、ふふふと笑い、
「当時、俺は二十歳だったっけな」
懐かしげに遠い目をした。
遠い目とはいえ狭い部屋の天井を見上げただけだったが……。
「養子に出された崎十郎が、あのまま
善次郎はいきなり恩着せがましい口調になった。
「それもこれも、善次郎殿のおかげです」
もやもやした心持ちで調子を合わせた。
最初に養子に出された、本郷竹町の雑穀屋で育っていれば、まったく別の生き方があったはずだった。
善次郎のように気楽に生きられたのではないかと思えば、恩人でもなんでもないと思えた。
善次郎は新橋に居を構えて仕事場にしていたが、ここでも絵を描いているらしく、広くもない部屋には、硯や筆、絵の具のほかに描きかけの絵が無造作に散らばっていた。
「上手いものですね」
目を細め、感心したふりで一枚の美人画を手に取った。
ごてごてと着飾った花魁が描かれた画には、遊女の名が書き込まれている。
「この画はな、吉原の花魁で文里ってえ座敷持ちだ。文里にぞっこんな馴染み客から『英泉先生ならいくらでも出しますから、ぜひに』と頼まれたんだぜ」
善次郎は得意げに、角張った顎をしゃくってみせた。
花魁は、頭がむやみに大きく胴長で、しかも猫背気味に描かれていた。
下唇が厚いうえに下顎が出た顔にも、際だった特異さがあった。
「文里という花魁は、こんなふうに描かれて喜びますかね。善次郎殿の描かれる女は、みな同じで代わり映えしませんな」
突っ込みを入れたかったが、心のうちでとどめた。
「俺は女の奥にひそむほの暗い情念を描いているつもりだ。写実の技じゃ師匠にとても及ばねえが、女の真の姿を写すことにかけちゃ俺のほうが勝ってる。女修行では師匠よりも、この俺のほうが一枚上手だ。はは、女の情念やら恐ろしさを肌身に染みてわかってるってえわけだ」
善次郎は得意げに品のない笑みを浮かべた。
「そうそう、この絵の背景やら着物の柄も真吾が描いたんだぜ」
善次郎は一枚の〝わじるし〟を示した。
針仕事の最中に密夫が忍んできた図で、俯せになった女の髪の乱れが見事だった。
針箱の様子、衝立に貼られた菊花の絵、男の帯の模様など、細部にまで息が吹き込まれていたが、丁寧な筆遣いで控えめに描かれているため、男女の顔の部分を上手く引き立たせている。
女の下唇に塗られた玉虫色が目を惹いた。
「ひょっとして善次郎殿が描き入れたのは、顔や〝一番、大事な箇所〟だけなのではないですか。いつになく動きなどが自然なような」
冗談交じりで、善次郎の痛いところを突いてやった。
「そりゃあまあ合作というわけだから、どちらがどこを描いたか見る側にお任せというわけでえ。案外、真吾が交接の部分を描いてたりしてな、あはははは」
善次郎も大笑いで応じた。
そのとき、二階から女の悲鳴や大きな物音が聞こえ、なにかが階段を転がり落ちてきた。