数日が経った夕刻、崎十郎は灘の下り酒が入った樽を手にして、根津にある女郎屋若竹屋に向かっていた。
羽織袴姿だったが、ごく私用なので小者は連れていない。
前日、善次郎(文筆家・絵師として名高い渓斎英泉)にばったり出会って、根津に見世を開いたと聞かされたゆえだった。
店開き祝いの手土産ゆえ慶事に供される角樽を奮発した。樽は上部が朱で下部には黒漆が塗られている。
「
崎十郎は、ぶつくさつぶやきながら若竹屋を目指した。
不忍池の西端を巡って宮永町を抜け、水路沿いに根津権現社の方角に向かった。
社殿は、元禄の世の粋を集めた豪壮な権現造りで、造営に際して諸大名が動員されたため《天下普請》と謳われたという。
宝永三年(一七〇六)に、千駄木から移された当初は、料理茶屋だけが立ち並んでいたが、雨後の筍のように次々と遊女屋が増えた。
表通りは遊廓や料理茶屋が軒を連ねて独特の
『根津の客 まあ腹掛けを 取ンなまし』という川柳があるほど大工の客が目立ち、女たちの妙に媚びた声に混じって、男たちの野卑な笑い声が飛び交っている。
汚らわしい
(この見世だな)
善次郎が営む若竹屋は、根津門前町の表通りを一筋入った小体な見世だった。
いわゆる四六見世と呼ばれる昼が六百文、夜が四百文の安価な女郎屋なので、置いている女郎も中程度だろう。
それでも長屋形式の安価な女郎屋――局見世よりは、よほどましな部類だった。
塀越しには、伸び放題になった松の枝が見えた。
お上の取り締まりを避けるために、表に面した二階には窓がなく、裏側に明かりとりがある家作である。
ちなみに善次郎は、女郎屋稼業では若竹屋里助と名乗っている。
屋号の若竹屋とのみ記された長暖簾をくぐろうとしたとき、中から出てきた若い武士と鉢合わせした。
「なんだ、真吾ではないか。これはまた異なところで出くわしたものだな」
蔵地真吾だった。
貧乏旗本蔵地家の当主の弟で、まだ部屋住みの身である。
お栄の弟子で、先日、お栄が訪ねた相手でもあった。
「さ、崎十郎殿……」
真吾は顔を赤らめて、どぎまぎした表情を見せた。
旗本家の若さまだけあって、さすがに品がある。
御家人で、しかも庶民出の俄侍、崎十郎とは大違いだった。
色白で端正な顔立ちをした真吾は、体つきも、青年というより少年の名残を感じさせ、まるで色子のように男女を超越した色気があった。
誰もが振り向く美形だったが、残念なことに、相当な変人らしく、十八にもなっていまだに元服せず、前髪を保っていることが、崎十郎には解せなかった。
「ははは、真吾も女郎屋通いするようになったか。めでたいことだ」
「滅相もございませぬ。わたくしは女遊びなどいたしませぬ」
からかいを真に受けた真吾は、真剣な眼差しで打ち消した。
「では、師匠を、お栄から善次郎殿に鞍替えしたと申すのか」
今度は少しばかり意地悪く訊ねた。
真吾を見ると、からかいたくなる。
「いえ、決して、そのようなことはございませぬ。少し届け物がございましたゆえ……。あ、あの……、ここでお目にかかったことは、応為先生や北斎先生には内密に願います」
生真面目な真吾は、ますますおどおどした。
「おいおい、崎十郎、俺の大事な〝愛弟子〟を
善次郎が長暖簾を押しわけて、ひょいと顔を出した。
「画の手伝いを頼んでいるんだ。注文が多過ぎて、ひとりじゃ、とてもじゃないがさばききれねえ。着物の図柄やら人物まわりの調度やらを描かせているんだ」
「では、これにて……。屋敷では祖父がひとりで待っておりまするゆえ」
長居は無用とばかりに、真吾は通りを足早に歩み去った。
「お栄や師匠が見込んだだけあって真吾は描ける男でえ。お栄が『真吾はまだ画が固まってねえ。英泉流の妙な癖が移っちゃ困らあ』と良い顔をしねえもんだからな。内緒で手伝いをさせてるんだ」
善次郎は真吾の後ろ姿を見送りながら、首の後ろをぼりぼりとかいた。
注文が引きも切らぬ画といえば〝わじるし〟なのだろう。
「あの堅物な真吾が、男女の濡れ場を描く手伝いとは気の毒なことですな」
難儀しているさまを思い浮かべると噴き出しそうになった。
「真吾がおめえと同じ石部金吉金冑とは限らんぞ。女を好かぬ男などおらん。真吾も心の内では喜んでいるに違いあるめえよ」
女好きがこうじて女郎屋になった善次郎の我田引水に呆れながら、手に提げてきた祝いの酒樽を手渡した。
「おっ、これは上酒じゃねえか。ありがてえ。いま酒の肴を用意するから俺の部屋で待っててくんな」
目を細めた善次郎は一階の奥を指し示すと、
「おかまいなく、すぐおいとましますゆえ」という崎十郎の言葉を無視して右手奥へ引っ込んでしまった。
土間に続く板張りの左奥には、二階に上るための階段が
「深川でもそうだが、門前町には遊廓がつきもの、というところが気に食わぬ」
家財がほとんど置かれていない、がらんとした部屋にひとりで待たされながら小さくつぶやいた。
もう帰ってやろうかと痺れを切らせかけたとき、
「待たせたな。まあ、これで一杯やろう」
善次郎が、白く湯気の上がる小鍋を手にして部屋に入ってきた。
背中を猫背気味にして体をふらふら動かしながら歩くさまに、崎十郎は思わず苦笑した。
武士と町人とでは、歩き方ひとつにしても、まったく異なる。
善次郎は長年の市井暮らしで言葉遣いも身のこなしも、すっかり一介の庶民だった。