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第3話 美少年蔵地真吾は貧乏旗本の若さま

 数日が経った夕刻、崎十郎は灘の下り酒が入った樽を手にして、根津にある女郎屋若竹屋に向かっていた。


 羽織袴姿だったが、ごく私用なので小者は連れていない。


 前日、善次郎(文筆家・絵師として名高い渓斎英泉)にばったり出会って、根津に見世を開いたと聞かされたゆえだった。


 店開き祝いの手土産ゆえ慶事に供される角樽を奮発した。樽は上部が朱で下部には黒漆が塗られている。 


養母はは上がおっしゃった通りに角樽まで買うたが、貸し樽に地廻り酒でも良かった。無駄な銭を使うてしもうた。『養母上のお言葉通り、角樽に入った上酒を贈りました』と偽りの報告をすれば事足りた。養母上は加瀬家の台所事情を一番よく御存知のはずなのに、あの見栄っ張りぶりは、なんとかならぬものか」


 崎十郎は、ぶつくさつぶやきながら若竹屋を目指した。


 不忍池の西端を巡って宮永町を抜け、水路沿いに根津権現社の方角に向かった。


 社殿は、元禄の世の粋を集めた豪壮な権現造りで、造営に際して諸大名が動員されたため《天下普請》と謳われたという。


 宝永三年(一七〇六)に、千駄木から移された当初は、料理茶屋だけが立ち並んでいたが、雨後の筍のように次々と遊女屋が増えた。


 表通りは遊廓や料理茶屋が軒を連ねて独特の喧噪けんそうに満ちている。


『根津の客 まあ腹掛けを 取ンなまし』という川柳があるほど大工の客が目立ち、女たちの妙に媚びた声に混じって、男たちの野卑な笑い声が飛び交っている。

 汚らわしい脂粉しふんの臭いがむっと鼻を突いた。


(この見世だな)


 善次郎が営む若竹屋は、根津門前町の表通りを一筋入った小体な見世だった。


 いわゆる四六見世と呼ばれる昼が六百文、夜が四百文の安価な女郎屋なので、置いている女郎も中程度だろう。


 それでも長屋形式の安価な女郎屋――局見世よりは、よほどましな部類だった。


 塀越しには、伸び放題になった松の枝が見えた。

 お上の取り締まりを避けるために、表に面した二階には窓がなく、裏側に明かりとりがある家作である。


 ちなみに善次郎は、女郎屋稼業では若竹屋里助と名乗っている。


 屋号の若竹屋とのみ記された長暖簾をくぐろうとしたとき、中から出てきた若い武士と鉢合わせした。


「なんだ、真吾ではないか。これはまた異なところで出くわしたものだな」


 蔵地真吾だった。


 貧乏旗本蔵地家の当主の弟で、まだ部屋住みの身である。

 お栄の弟子で、先日、お栄が訪ねた相手でもあった。


「さ、崎十郎殿……」


 真吾は顔を赤らめて、どぎまぎした表情を見せた。


 旗本家の若さまだけあって、さすがに品がある。

 御家人で、しかも庶民出の俄侍、崎十郎とは大違いだった。


 色白で端正な顔立ちをした真吾は、体つきも、青年というより少年の名残を感じさせ、まるで色子のように男女を超越した色気があった。


 誰もが振り向く美形だったが、残念なことに、相当な変人らしく、十八にもなっていまだに元服せず、前髪を保っていることが、崎十郎には解せなかった。


「ははは、真吾も女郎屋通いするようになったか。めでたいことだ」


「滅相もございませぬ。わたくしは女遊びなどいたしませぬ」


 からかいを真に受けた真吾は、真剣な眼差しで打ち消した。


「では、師匠を、お栄から善次郎殿に鞍替えしたと申すのか」


 今度は少しばかり意地悪く訊ねた。

 真吾を見ると、からかいたくなる。


「いえ、決して、そのようなことはございませぬ。少し届け物がございましたゆえ……。あ、あの……、ここでお目にかかったことは、応為先生や北斎先生には内密に願います」


 生真面目な真吾は、ますますおどおどした。


「おいおい、崎十郎、俺の大事な〝愛弟子〟をいじめるな」


 善次郎が長暖簾を押しわけて、ひょいと顔を出した。


「画の手伝いを頼んでいるんだ。注文が多過ぎて、ひとりじゃ、とてもじゃないがさばききれねえ。着物の図柄やら人物まわりの調度やらを描かせているんだ」


「では、これにて……。屋敷では祖父がひとりで待っておりまするゆえ」


 長居は無用とばかりに、真吾は通りを足早に歩み去った。


「お栄や師匠が見込んだだけあって真吾は描ける男でえ。お栄が『真吾はまだ画が固まってねえ。英泉流の妙な癖が移っちゃ困らあ』と良い顔をしねえもんだからな。内緒で手伝いをさせてるんだ」


 善次郎は真吾の後ろ姿を見送りながら、首の後ろをぼりぼりとかいた。


 注文が引きも切らぬ画といえば〝わじるし〟なのだろう。


「あの堅物な真吾が、男女の濡れ場を描く手伝いとは気の毒なことですな」


 難儀しているさまを思い浮かべると噴き出しそうになった。


「真吾がおめえと同じ石部金吉金冑とは限らんぞ。女を好かぬ男などおらん。真吾も心の内では喜んでいるに違いあるめえよ」


 女好きがこうじて女郎屋になった善次郎の我田引水に呆れながら、手に提げてきた祝いの酒樽を手渡した。


「おっ、これは上酒じゃねえか。ありがてえ。いま酒の肴を用意するから俺の部屋で待っててくんな」


 目を細めた善次郎は一階の奥を指し示すと、


「おかまいなく、すぐおいとましますゆえ」という崎十郎の言葉を無視して右手奥へ引っ込んでしまった。



 土間に続く板張りの左奥には、二階に上るための階段がしつらえられていて、板間の奥には、楼主である善次郎が起居する部屋があった。


「深川でもそうだが、門前町には遊廓がつきもの、というところが気に食わぬ」


 家財がほとんど置かれていない、がらんとした部屋にひとりで待たされながら小さくつぶやいた。


 もう帰ってやろうかと痺れを切らせかけたとき、


「待たせたな。まあ、これで一杯やろう」


 善次郎が、白く湯気の上がる小鍋を手にして部屋に入ってきた。



 背中を猫背気味にして体をふらふら動かしながら歩くさまに、崎十郎は思わず苦笑した。


 武士と町人とでは、歩き方ひとつにしても、まったく異なる。

 善次郎は長年の市井暮らしで言葉遣いも身のこなしも、すっかり一介の庶民だった。


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