「待てい」
日差しがすっかり陰った通りに、重々しい声が響き渡った。
大勢の足音がはたはたと近づいてくる。
目に飛び込んできたのは、火付盗賊改方与力、雨宮右膳の勇姿だった。
火事羽織に野袴、陣笠姿で、侍、槍持ち、草履取りを従えている。
三人の同心のほかに、付き従う者たちの姿も見えた。
「火盗改だ」
役方(文官)である町奉行と違って、番方(武官)である火盗改の荒っぽさはよく知られている。
浪人たちに、たちまち激しい動揺が走った。
「これは右膳殿、良きところに来てくださいました」
崎十郎は、いまにも切ろうとしていた鯉口から左手の指を離した。
「火付盗賊改方である。神妙にいたさねば斬り捨てる」
文武両道に優れた右膳は、凛とした口調で言い放つと、懐から十手を取り出した。
火盗改方の持つ十手は角形で長い。
円筒形の握柄が付いていて、町奉行所の与力や同心の十手よりも実戦的な仕様だった。
「逃げろ。相手が悪い」
浮き足立った浪人たちは尻に帆をかけて逃げていく。
「追え」
右膳の命で、同心や小者たちが、ばらばらと後を追った。
「間に合うて良かった。近頃、凶悪な辻斬りが横行しておるゆえ、今宵も市中を見廻っておったのだ」
崎十郎とお栄のほうに身体の向きを変えた右膳は、白い歯を、きらりと光らせた。
「危ういところでした。助かりました」
崎十郎は丁寧に頭を垂れた。
「なに、これも役目ゆえ気になさるな。崎十郎殿のお役に立てて嬉しく思うておるのじゃ」
四つ年上の右膳は、同じ北辰一刀流道場に通う剣友でもあり句会仲間でもあった。
周りにいつも涼やかな風が吹いているような、穏やかで冷静沈着な真の武士である。
市井の人々は、町奉行や勘定奉行を檜舞台になぞらえる一方で、荒っぽい捕物が身上の火付盗賊改を乞食芝居と
崎十郎は右膳と親しく友好を保つ己を誇らしく思っていた。
「お栄殿、怪我はござらぬか」
役者絵から抜け出したような右膳は、お栄にいたわりの眼差しを向けた。
「ありがとうございます。兄はこの通り、いっこうに頼りにならぬものでございますから、困っちまいますでございますよ」
お栄は裾の埃を払って襟元を直しながら、ぎこちなく返答した。
あたりは薄暗いながらも日の光の名残が感じられた。
お栄の化粧気のない頬に、夕日のせいだけではない赤みが生じていた。
右膳はとうに三十を超していたが、いまだ若々しく、しかも年齢以上の貫録を兼ね備えていた。
ひとり身のお栄が年甲斐もなく頬を赤らめても無理はなかった。
「お栄殿、それは言い過ぎであろう。人には得手不得手がござるゆえ……」
言いかけてから、崎十郎にはなんら取り得がないと気づいたのか言葉を濁した。
「お栄の申す通りです。右膳殿と拙者では月とすっぽん。拙者が右膳殿より勝るのは背丈だけですが《大男、総身に知恵が廻りかね》で、
崎十郎はすねたようにつけ加えた。
「ところで、お栄殿」
右膳は聞こえぬふりで、さらりと話題を変え、
「葛飾応為の名は、ますます高まっておるようじゃな。北斎殿をすでに追い抜いておるとの評判も聞く。つまらぬ意地を張らずに、我が身を大切にすることじゃ」
さりげなくお栄の侠気をたしなめてくれた。
「恐れ入ります。わっち、いえ、あたしも、わかっちゃいるんですけどね」
お栄は良い年をして、童女のようにはにかんだ。
「な、お栄、威勢が良いのは結構だが、その前に少しは身なりに気をつけちゃどうだ。まるで
右膳の尻馬に乗って、ここぞとばかりに苦言を呈すると、お栄は頬をぷうっと膨らませた。
右膳がいなければ、またも兄妹喧嘩が始まっていたろう。
「ははは、山姥とはひどいではないか、崎十郎殿」
右膳は快活に笑い飛ばし、
「お栄殿はもともとの〝地〟が良いのだから、少々、身なりを構いさえすれば、昨年亡くなった笹森お仙の若かりし頃にも負けぬぞ」ともち上げた。
「右膳殿、ご冗談もほどほどに……」
一笑にふそうとした崎十郎だったが、婚礼の夜、化粧して着飾ったお栄を、馬子にも衣装ではないかとからかった記憶が、ふと脳裏に蘇った。
「お言葉ですがね、右膳さま、わっちはもう男は、こりごりなんですよ。着飾る間がありゃあ、画を描くほうが、よっぽど性に合ってまさあ」
お栄の口調は次第にはすっぱさを取り戻した。
「画業の忙しさと、あの変わり者の親父殿の世話では手一杯であろうから無理もない」
右膳は同情したような眼差しで大きく頷いてから、
「ところで御母堂は、お元気かな」
流れるような動きで、崎十郎に身体を向けた。
「
急に話の矛先を向けられた崎十郎は言葉を濁した。
襖の閉め方が乱暴だという些細な理由でこっぴどく叱責され、飯も食わずに屋敷を逃げ出してきたばかりだったのだ。
ばたばたという騒がしい足音とともに同心たちが戻ってきた。
「右膳さま、申し訳ございませぬ。逃げ足の速い奴らで、まんまと逃げられました」
年嵩の同心が、肩で大きく息をしながら報告した。
「狙うは、世情を騒がす辻斬りじゃ。あやつらが例の辻斬りのはずもない。雑魚は町方に任せればよい」
右膳は鷹揚に頷いた。
いつの間にやらあたりはすっかり暗くなっていた。
風も冷ややかに変わった。
彼方の辻番所にはやばやと灯が点る。
小者が提灯を膨らませて火を入れた。
「拙者はお頭にご報告してくるゆえ、これにて」
右膳は、同心たちを従えてさっそうと立ち去っていった。
「世間さまじゃ、八丁堀は粋で、火盗改といやあ野暮天の極みで通ってるけど、あのお方だけは光ってるねえ」
お栄は右膳の後ろ姿が辻を曲がって見えなくなるまで見送った。
お栄の眼差しは睨み付けるように鋭かった。
惚れた腫れたではなく画の材として心が動いたのだ。
「ふふふ、右膳殿も気の毒に」
わじるしの画中に描き込まれた右膳の姿を思い浮かべて崎十郎は小さく笑った。