小体な武家屋敷が立ち並んだ通りは、人影もなくひっそりとしていた。日差しは夕暮れを告げている。
屋敷を出た加瀬崎十郎は、凝った筋をほぐすように肩を交互に上下させた。大きく伸びをしてからすたすたと歩き出す。
南割下水沿いの道に出たとき、五間(約九メートル)ほど先を大股で歩く女の姿が目に入った。
「おお、その後ろ姿は本所で有名な雑巾女お栄ではないか」
崎十郎の声に、くるりと振り向いたお栄は「なんだ、クソ兄貴か。驚かすんじゃねえやい」
男顔負けの乱暴な物言いを返してきた。
「もう日が落ちるというに、
崎十郎は、兄貴風を吹かせて問い詰めた。
「絵草紙屋まで画を納めに行った帰りに真吾を訪ねたんだけどよ。画について話し込んでたら、ついつい長居しちまったんだ」
黒襟に古びた格子の着物をだらしなく着崩したお栄は、額の生え際をばつ悪そうにぼりぼりとかいた。
お栄は、崎十郎の実父、葛飾北斎の三女で、出戻って以来、北斎宅で暮らしていた。
「拙者は、一ッ目之橋近くの鰻屋へ向かうところだ。面白くもない道行きだが家まで送ってやろう」
「はは~ん。……ってことは、あのくそ婆ぁに、夕餉も食わせてもらえねえまま、放り出されたんだな」
「ば、馬鹿を申すな。
図星を指された崎十郎は口ごもった。
「どうだか怪しいもんだ」
お栄は、表情をうかがうように崎十郎の顔をのぞき込んだ。
突然、腹の虫が大声でぐうと鳴き、崎十郎は慌ててひとつ咳払いをした。
「と、ともかく、送ってやると申すのだ。兄の申し出をありがたく思わぬか」
「ありがたくもなんともねえよ。兄貴がいたって、いざというときにゃちっとも……」
お栄が減らず口を叩きかけたときだった。
「待て!」
突如、辻の角からふたりの浪人者が現れて、目の前に立ち塞がった。
「なに用だ。そこをどかぬか」
崎十郎はお栄を背後にかばいながら声高に叫んだ。
「なあに、手間は取らさぬ」
「ちと、用立ててもらいたいだけじゃ」
さらにふたつの黒い影が背後に現れて崎十郎らの退路を断った。
全員が手拭いなどで面体を隠しており、薄闇のなかで目だけが、ぎらぎらとした光を放っている。
大刀を閂差しにした物騒な連中だった。
刀を身体と直角に差しているため戸の閂を外すように真横に刀が抜ける――即座に抜刀できる臨戦態勢である。
ちなみに崎十郎は、刀の鞘が身体に沿う、落とし差しにしていた。
「人心を惑わす〝わじるし〟で大枚の金子を得るとは不届き千万。不浄な稼ぎで得た金を我らが使うてやろうと申すのだ」
浪人たちの品のない含み笑いが崎十郎の耳をなぶった。
「ふん、わっちが名高い葛飾北斎大先生の娘と知っての脅しかい」
芝居がかった大げさな動作で、お栄が、ずいっと歩を進めた。
微かな汗の臭いが崎十郎の鼻先をかすめた。
〝わじるし〟とは春本や春画のことである。
ものがものだけに正式な
北斎作『
余白の書き入れの文章も微に入り細をうがつ描写や会話文で、崎十郎からみれば、北斎がわじるしを好きこのんで描いているとしか思えなかった。
「長屋から風呂敷包みを大事そうに抱いて出かけるところを見かけたものでな」
浪人のひとりが覆面をした顎に手をやりながら得意げに語った。
「てめえら品性が下劣なんだよ。納めた画はわじるしなんかじゃねえや。ありがた~い弁天さまの図さ。おあいにくさまだったな」
お栄は上目遣いに睨みながら、
「女郎を買うことしか頭にないからだろが。永の浪人暮らしで、武家の矜持なんざどっかへ綺麗さっぱり捨てちまったんだな。あ~あ、落ちぶれたくねえもんだ」
自らもわじるしを手がけているくせに、己を棚に上げて口汚く罵った。
「おい、女、弁天さまってえのが怪しいではないか」
裾のすり切れた袴をはいた浪人が、からかい口調で茶々を入れた。
「え、そりゃあ……」
お栄は口ごもった。
絵草紙屋に納めた品は、やはりわじるしだった。
「しかしまあ、ご浪人さんがたも暇じゃねえか。あはは。わっちが真吾の家に寄り道しているあいだも、我慢強く待っていなさったのかい」
お栄は、ほつれ毛だらけで見苦しい鬢を指で撫でつけた。
「あーあ、兄貴が一緒ったって、まるで頼りにならねえんだからな」
崎十郎を横目でじろりと睨んで、
「加瀬さまの養子になって、いまじゃれっきとしたお侍さまだけどよ。生まれは絵師の次男坊だから仕方ないっちゃあ仕方ないけど、日頃から、やっとうを真面目に習ってりゃあ、こんなときに頼りになるんだがな」
恨みがましくこき下ろしたが、崎十郎の耳にはたこができていた。
「はは、そう申すな、お栄。みだりに斬りあうなど愚の骨頂、金で済むならたやすいことではないか」
崎十郎は
お栄が見ているから暴力沙汰はまずい。
「画の注文なら断るほどあるだろ。今日の稼ぎなど、すぐに取り戻せるではないか」
「兄貴は画なんて、さらさらと筆を走らせるだけの簡単な遊びだと思ってるんだろ。小さい頃に養子に出されてっから、鉄蔵(北斎の本名)の苦労も凄さもわかってねえくせによぉ」
仁王立ちになったお栄は目の端を釣り上げた。
お栄は可愛げがない。
ようやく縁づいたものの、すぐに離縁されて出戻ってきたのも無理はなかった。
「なにを! 絵なんてものは、少しばかり修業すりゃあ、それなりに描ける。ありがたがって大枚をはたく馬鹿が多いからと、いい気になるな」
賊をそっちのけで怒鳴り返した。
「おい、内輪もめはいい加減にせい」
ひときわ大柄な浪人が大刀の鯉口を切るや、すらりと抜き放った。
男は上背がある崎十郎よりも、さらに頭ひとつ抜けていた。
「ふはは、貴公、
「近頃の侍の刀は飾りじゃ。我らのごとく実戦で腕を磨いた者との差は歴然よのお」
「出世に汲々とするばかりが武家勤めとは、太平の世でなればこそよ。情けない」
言いたい放題に愚弄しながら、一同は、どっと嘲笑した。
「拙者を御小人目付加瀬崎十郎と知っての所業か。拙者に無体を働けば、ただでは済まぬぞ」
崎十郎は浪人たちを牽制した。
「小人目付と聞いて震え上がると思うたら大間違いだ」
小人目付は
浪人を取り締まる役目は町奉行所なので、浪人たちに動じる気配はなかった。
「小人目付が金を脅し取られたとわかれば切腹ものではないか。ふははは」
「ほれほれ、怪我をせぬうちに、素直に金を渡して立ち去らぬか」
「ふふ、近頃、市中で評判の辻斬りが我らの
浪人どもは、崎十郎らを押し包んだ輪を、じりじりと狭めてきた。
「へん、辻斬りがこんな大勢なもんか」
お栄は、まだまだ威勢が良かった。
「お栄が申すとおりだ。辻斬りは、腕の立つ者ひとりの仕業と聞いておるぞ」
すかさず崎十郎がつけ加えたため、お栄をさらに焚きつけることになった。
「さあ、斬れるものなら斬ってみやがれ。金物が怖いもんかい」
向けられた刃を押し返すように、大男のほうへずいっとまた一歩、踏み出した。
無頼のふうを好むお栄は度胸が据わっているだけに、はたから見れば危なくて困る。
「ええい、面倒だ。辻斬りの仕業ということにしてふたりとも斬ってしまえ」
ふたりが次々に抜刀した。
ひとりは居合いを遣うらしく、鯉口のみ切って腰を落とした。
「面倒になった。足手まといになる女連れで相手が四人となると、こりゃあまずいな」
崎十郎が口中で小さくつぶやいたときだった。