美しい女が血だまりの中で目を見開いている。
桃色の瞳はよくよく見ていれば一色ではなく、ゆっくりと色が変化しているようだった。
ディは言葉に詰まる。
ダンジョンにいたはずだった。モンスターを相手に生き残りを懸けた闘争をしていたはずだった。
だというのに夢中になっている中で、気づけば真っ白い部屋にいて、美しい女に馬乗りになって、刃物を突き立て殺していた。
殺した、はずだった。
だが、その女が生きている。
生きて、頬を染めて、微笑みを浮かべて、自分を真っ直ぐに見上げている。
どういうことなのか、わからない。
女の手が、ディの頬に触れる。
「どうしてやめてしまうの?」
「──は?」
「もっと、わたくしを突き刺してくださらないの? その硬いモノで、わたくしを貫いてくださらないの?」
「…………は? あ、いや、ええと、その……」
「あなたがやめてしまうなら」
女の──『手を届かせる者』『転生の女神』イリスの手が、ディの頬を撫でて、
「次は、わたくしの番ね?」
ディは瞬間的に跳び退いた。
気づいたのだ。
自分は、何か、よからぬモノに魅入られたのだと。
(まずい、まずいまずい!)
ダンジョンの奥に置き去りにされてモンスターの餌にされそうになった。
だが、そんなものは絶望でもなんでもなかった。
今、この背筋を駆け上った根源的恐怖の前にはあんな状況、危機でもなんでもなかった。
怒りではない。殺意でもない。
目の前の、人間のように見えるのに、明らかに人間ではない『何か』は……
子供が羽虫の羽をちぎるような無邪気さで、自分を『ちぎろう』としている──
跳び退いた。
ようやく頭が回り始めたディはこの時、ようやく気付く。
(俺、こんなに速かったか!?)
速くなっている。強くなっている。
だが、唐突にパワーアップしたとか、生存本能が刺激されているせいで火事場の馬鹿力が出ているとか、そういう感じではない。
つい先ほど、ダンジョンの奥で置き去りにされたころの自分とは比べ物にならないほど速く、強い。
だがそれは『いきなり強くなった』感じがまるでないのだ。努力を続け、続け、続け……その果てに得た強さ、とでも言おうか。骨身になじんだ強さだ。指先一本の動きまで寸分たがわず制御できる、『自分の力』にしか思えないものだった。
「ああ、あなた、お待ちになって」
しかし相手も人外のモノ。
どうにも『広さ』の概念がなく、無限に広がるこの空間。かなりの距離を一瞬で跳び退いたディに、『追いすがる』のではなく、『移動先にあらかじめ立っていた』としか思えない動きをする。
瞬間移動? 目にも留まらぬ速さ?
違う。そういう、わかりやすい現象ではないと本能が告げている。
これは、まるで、
「申し遅れました。わたくし、『手を届かせる者』イリス。──人の魂をあちらの世界からこちらの世界へと渡す、女神です」
『かくあれかし』と望んだ。
ゆえに、『かく』あることになった。
すなわちそれ、
権能。
ヒトよりはるか上の
……なら、とディは思う。
(なら、俺がそれに対応できてるのは、いったいどういうことなんだ?)
「わたくし、『殺される』というのは初めての経験でしたの。我ら神は不滅。そもそも、ヒトとは次元が違うので、ヒトに殺されることはないはず。だというのに、あなたは、ヒトの身でわたくしを殺した──初めての人」
ディは逃げる。
だが、逃げた先に女神イリスが『すでにいる』。
無限の広がりを持つ白い空間の中を駆ける。
せわしなく上下左右が切り替わり、一瞬前に大地だった場所が空になり、横に落ち、上を踏みしめ、はるか遠方に走る自分自身の姿が見える。
頭がおかしくなりそうな空間に、女神イリスが点在する。たった一柱の神であるはずが、同時に複数柱となって存在し、ディの体に手を触れさせようとする。
これは直観だが──
──あの手に触れたら、おしまい。
「殺されるというのは、お腹の底から冷たくなって、背筋がぞくぞくして、頭がふぅっと軽くなるような心地で、なんとも……気持ちがいいもの、だったのですね」
目の前に『すでにいる』イリス。
伸ばされる手をすんでのところで回避する。
速くはない動作だ。だけれど、運命を捻じ曲げる神の権能だ。
だというのに対応できる。あらかじめ知ってたかのように、イリスの手をかわせる。
「神を殺すなどと、神にさえできぬこと。だというのに、あなたは、わたくしを殺してみせた。……なんて素敵な体験だったのでしょう。ありがとうございます。ですから、お礼をしたいのです。どうか、わたくしの手を取ってくださいませんか?」
伸ばされる手が首筋に迫る。
真後ろ。完全なる死角。だというのにディはそれを正確に把握してすんでのところで頭を下げて回避する。
駆ける足は止めない。速度はすでにディのこれまでとは比較にならぬほど。たとえ足の速さにまつわる
(いったいなんで、俺は、こんなに速い? それに、なんで、相手の攻撃が来るところを、こんなにも正確に予測できる? 何より、この状況で、なんでこんなに、冷静に考え続けることができる? ……体力だって、そうだ。息切れする気配が、まるでない)
直観。
ぞわりと足の裏から恐ろしい何かが駆け上ってくる。
慌てて背後へ跳ぶ。すさまじい速度で前進していた慣性を完全にぶっちぎるバックステップ。先ほどまで自分がいた場所を見れば、美しい巨大な掌が地面から湧き出て、空間を握りしめていた。
今の未来予知のような直観は果たして──
「『可能性の具現』」
女神イリスがつぶやく。
「……ああ、なるほど。スキル制の世界からいらしたのね? 『
『渡り』。
ディの育った国では、十二歳になると、すべての人がスキルを鑑定される。
そうして鑑定の結果、発覚したスキルは一生変わらない。
国家を挙げて歓迎されるのが『
これを持つ者は英雄となって、いずれ来る危機から世界を救うと言われている。
能力的には戦士の技能も魔法使いの技能も、その他あらゆる才能が修得する技能を修得できる。
また、あらゆる能力が伸びやすい。
一方、レアではあっても無価値なスキルもある。
ディが鑑定の結果備わっているとされた『
魔法の才能はない。
戦士の才能もない。
もちろん、勇者のような才能も、ない。
何ができるのか不明。能力は伸びない。技能は覚えない。
前例が見当たらないからレアなスキルには違いないのだが、鑑定をした司祭や神官が『これは、あまりにも価値がないから、過去にいたけれど、記録されなかったのだろう』と話していたのを聞いてしまった。
実際、これまで、ディはこのスキルのお陰で何かを成せたことは一度もない。
でも、
「よほど努力をなさったのね? あなたのスキル、『
可能性の具現、と女神イリスはつぶやいた。
どういうことなのか、ディは思考する。
そして、直観的に、あるいは──
経験則で、答えにたどり着く。
可能性の具現。
それは、
「未来、あるいは、別な道を選んだ未来。あなたが最終的に至る力をその身に宿す能力。無限に隣り合う世界という線と線の間にある溝を無視し、過去から未来に向かって伸びる線を点に変える力。
たとえば今のまま努力を続けた結果、百年後にたどり着く実力があったとして。
その実力を、今、ディは発揮できる。
つまり、今、能無しのはずのディが、明らかにヒトならざるモノと渡り合うことができている理由。速度、直観、力。そういうものを発揮できる理由。
それこそが、努力の結果目覚めたディの
時空間を渡って結果へと今すぐたどり着くその力は──
「──『
ディはいずれ、努力の果て、神殺しへとたどり着く運命の持ち主であった。
「その運命、まるごと、わたくしのモノにしたい」
女神イリスが
ディがあらゆる努力の結果へと一足飛びで渡ってしまえる能力者なら──
『手を届かせる者』イリスは、あらゆる時間・空間へ介入し、魂に権能を付与して送り込むことのできる神である。
「あなたの可能性を絞りましょう。努力のやり方、あるいは偶然によって、どのようなものにでもなれるあなたを──『わたくしのモノ』という可能性しかない存在にしたい。……あなたを独占したいと、そう思ってしまったのです。殺されるとは、こんなにもときめくものなのですね」
無数に増えるイリスたちが、寸分たがわぬ動作で真っ赤になった頬に手を当て、言葉を紡ぐ。
無数に重なる声に思わず耳をふさぎながら、ディは足を止めて、会話に応じる。
「誤って殺したのはこちらなので、責任をとって言う通りにすべきなのかもしれないが……」
「ふふふ」
「……ようやく、わかってきた。あなたは……
「……」
「これが生命の危機だとようやく実感できたよ。だから、俺はこう答えるしかない。『いつか、どこかにたどり着くために、俺は、生き残る』。そして……」
「……うふ」
「俺がたどり着きたいのは、どこかもわからない『どこか』なんだ。無理やりあなたのモノにされてはたまらない。だから……」
ディは小ぶりなナイフを構えた。
この身に宿る『経験』は、ナイフだろうが、剣だろうが、槍だろうが、弓だろうが……あるいはもっと、知らない世界の兵器だろうが、十全に使えるのを実感する。
「……あなたを殺してでも、あなたから逃げる」
「愛しています。わたくしのお婿さんになってください。わたくしだけの」
「断る!」
無限に増殖した転生女神に、今度は己の意思で斬りかかる。
紛れもなく、生存のための努力が、始まった。