徐々に、しかし確実に眠気が来ている。大あくびをひとつつき、いよいよか、と緩慢に腹を括り始める。目を細めないとあたりもまぶしくて見ていられないし、まわりはやたらとうるさいし、閻魔様も大変なんだね、と仰ぎ見ると
「もがぶ、がっ、ばあ、っぷへ、ひゅうう、ううう」と、浮力の小さくなった浮き輪ごとひっくり返り、足だけ水上に出る体勢になった。パニックになる。そのわたしを何やらものすごく強い力で助け起こす――ダイバー? ダイバーだ、ダイバーがいる。天使ではないが天使よりずっと頼りになるその男性にしがみつく。
「海保です! 海上保安庁です! 話せますか! 痛いところとかないですか!」と耳元で叫ぶ。――海保。頭上の閻魔様は――救難ヘリがホバリングしてサーチライトを当てていたのだ。一気に現実に引き戻される。
「だ――大丈夫、です。トイレも済ませました。いつでも乗れます」
わたしはただちにホイストに引き揚げられ機内に乗り込む。海水を飲みすぎたのか乗り物酔いなのか、機内で少し吐いたが、ヘリは県立病院までまっすぐ飛んだ。
搬送先の病院で、彼女――水泳部の子はICUにいると受持ちの看護師さんに聞いた。様子を尋ねると、
「ええと、ちょっと待ってくださいね――ああ、うーん、うん、搬送時、低体温と低血圧だったけど、今は誤嚥性肺炎で熱が少し出てる。電解質とかを点滴で補正してるだけみたいよ」と返される。
「て、低体温――低血圧――誤嚥性、肺炎」
ああ、だめだ、これは確実にだめなやつだ、これは、これは――わたしのせいだ。海の家に、それも仲間内だけで鍵だけ借りて行こうなんて最後の判断をしたのはわたしだ。あの朝に二人で、誰にもいわずに海に出かけたのもわたしのせいだ。海を舐めていたのだ。天気予報もちゃんと見ておかなかった。少しゲリラ豪雨があるかもしれない、という情報を軽視したのはわたしだ、わたしのせいだ。ぜんぶ、ぜんぶ、
「――たしのせいだ、わたしのせいだ、わたしのせいだ! わたしのせいだ! わたしの」両こぶしで額をがんがんと殴りつける。もうおしまいだ、おしまいだ、おしまい
「――ん――さん! 聞いて!」
はっと目を向けると受持ち看護師がこちらの目を見ている。わたしは腕で自分の顔をかばう。「――うっ、う、あああ!」
看護師はナースコールを押し、「あー、ごめん、四〇一二の子、不穏ー。ひとりー、お願いしまーす」といい、「もう、大丈夫だってば。ICUの友達も寝てる間もずっとあなたの名前、呼んでたんよ?」
「――譫妄、状態?」荒い息と鼓動を何とか鎮めながら問うた。
「ま、それに近いかもだけど――思ってることいっちゃうみたいな側面もあるし、深く受け止める必要はないわ。ふつうに寝てる時だって、夢って変な内容ばっかりじゃない。それとさして変わりはないよ。それより、あしたの二時から三時のあいだで一五分間、向こうのご家族と一緒に面会できるんだけど、どうする?」
わたしは軽症だったので車いすに乗る必要もなく、自分で歩いてICUを訪ねた。ガウンテクニックを行ない、エアーカーテンを通り、なにからなにまで清潔か不潔かだけで峻別された空間へ進む。
彼女のベッドの隣へ行くと、瞑目し酸素マスクを宛がわれた彼女がいた。
「ご、ごめん、ほんとにごめん、わたしってバカだよね、泳げもしないのに海なんか行って、ほんとクズだよね、ごめんな、さい――」
「ちょっと、まだ生きてるんだけど」
帽子とマスクの間のわたしの目が大きく見開かれたのであろう、彼女は「もう、その顔なによ、傑作だわ。写真撮っときてえ、スマホないけど」とからからと笑った。しかし、その声は喀痰でごろごろとしており、わたしにも海水が肺に入ったのだということは分かった。
「でも――ごめん、いやほんとごめん、ひとりで泳げる距離じゃなかったよね」
「なにが?」
「えっ」
「あ、いや――ふつうに海の家行ったんだけど誰もいなかったから、自分のスマホで海保の番号調べて通報したんだけど」
わたしは絶句する。代わりに涙が出てくる。グローブを着けたままなので拭えもしない。
「でも焦ったな。ヘリがすぐに飛べるか微妙だったし、あんたはカナヅチだし場所の目星もつかないし。ちょっと泳げるからって、慢心があったな――だから、ごめん! あの状況ではああするしかなかったとしても、あたしも離岸流ナメてたし、あんたに死ぬほど怖い思いさせた。もしあんたんとこが告訴するなら、全面的に認めて示談にしようってうちでは話し合ってる。でも、謝っても謝り切れないよね」
わたしは下を向いて涙をこらえる。
「そんな、バカなこといわないでよ。立場が逆でもわたし、同じことしたと思う。そんで、同じように謝ったと思う。だから、もういいから、うちでゲームしようよ、ほら、ダウジャス。ザ・ダウテッド・ジャスティス。シーズンパスもまだ間に合うから。今ならログボだけでオリハルコンの双剣が一アカウントで二個作れるんだよ? これさ、普通に作ろうと思ったら一五〇〇円は課金しなくちゃなんないの。だから、ね? 早く退院して、ゲームしようよ、ふたりで。それにわたし、ほんというと海って肌も髪も焼けるから苦手だったんだよね。だから、その、岸まで泳ぎ切れたって聞いて失神しそうだった。だから、もしあれで何かあったらって考えると、もう、生きた心地がしなくて――」
結局、涙はあふれ出てわたしはベッドの柵につかまって膝をつく。
「――でもさ、泳いだっていってもたぶん三〇〇もないと思うよ」
「え」
「たしかにゲリラ豪雨で視界も悪かったけど、実際流されたのは直線距離でせいぜい二〇〇。そこから迂回して泳いだ距離をざっくりルート二しても、二八〇。あたしには大した距離じゃないよ。ま、慌ててたから海水ちょっと飲んじゃったけど」
わたしは立ち上がって彼女の手を取る。顔を少し近づける。
「お、なんか今ひとこといおうとしてるだろ。せーので、合わす?」と酸素マスクを曇らせていう。
ふたりで無言のまま頷きあう。
「ありがとう」「ごめんね」
ふふっ、とふたりで笑うとまた涙が出て来た。「もう、やり直し! せーの」
「ごめんね」「ありがとう」
そこで彼女は咳き込み、「笑いながら咳すると大変だな」と顔を紅潮させた。「ご、ごめん、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、夏季特訓に比べたら数倍マシ、昼寝ができるわ。――週開け、熱が下がったら一般病棟に移れる予定なんよ。スマホも持てるからさっきの合わせるやつ、練習な。宿題にしとくから」
ICUを後にする。
分かってないんだから。わたしたちが「せーの」でいえる言葉はほんのわずかなのに。きっと言葉でいえないし、言葉にできない。
このことは、彼女とわたしの夏休みの宿題。夏が始まって、終わってもなお続く宿題。そう気づいてくれることを、かみさまにお願いをした。