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第二話

 巫子を殺そうとしたのは献栄国の丞相を務める男だった。確か、一度だけ顔を合わせたことがある。野心家の顔をしていて、長いひげを生やしていた男だ。


 「反巫子派」と呼ばれる一派の首謀者だった斉丞相。祭典のあと、神殿として吏安が証拠を提出し、宮廷で糾弾されて失脚したそうだ。証拠を集めたのは夏陀の副官だという男だった。


 そのすべてを夏陀から報告を受けた。


 満砕の養父だということは知っていた。それでも、返事をするのが億劫で、立憐は長椅子に寝そべった状態で聞いた。


 夏陀がどういう顔をしていたのかさえ確認していない。しんみりした空気だけは肌に感じとっていた。


 いつもなら行儀が悪いと諫める吏安さえ、何も言わない。何か言いたそうに口を開けるが、続く言葉はない。哀憐を帯びた瞳で見つめられるだけで、無駄な会話を求められないのは楽だった。


 そうだ、と思いだす。


 以前の吏安は今と同じだったではないか。実務的な事項だけを提示し、巫子として活動する時間以外は、立憐のことを放っておいてくれた。そばにいて見守っていたが、立憐の行動に口出しすることはなかった。だから立憐は、十分に故郷を思って泣いていられたのだ。


 吏安が立憐に干渉するようになったのはいつからか。簡単にその答えを言い当てられる。


 満砕が神殿にやって来てからだ。


 彼が来てから、神殿は変わった。その筆頭が立憐で、次点が吏安だろう。満砕の存在を煩わしく感じていた神官もいたようだが、それらは巫子の恩恵を盗み食いできなくなって不満を感じていた者だけだ。


 立憐は満砕が来てくれて心の安定を感じた。あふれ出ていくばかりだった感情は、外に出ていく分を補給できるようになった。出ていったとしても、新たに増やすことができる。


 だからこそ、再会から二年経っても、立憐は平然と生き永らえられた。本来十年生きられるか否かと言われていた巫子が、十二年経っても生きている点から察せられるだろう。


 当初は満砕という異分子の存在に戸惑ったはずだ。吏安は立憐の安定を身近に感じて、段々と存在の有意義性を認めるようになった。自分のことにはとんと鈍感な満砕は気づいていなかっただろう。吏安が少しずつ心を開いていく変化を、立憐は確かに感じとった。


 満砕が死んでしまって、吏安もまた悲しんだことだろう。彼は優しいから、人並に落ち込んだはずだ。


 立憐と悲哀を共有して、時間をかけて立ち直る選択もできただろうに。吏安は気持ちを押しつけてはこなかった。立憐が共感を求めていないと汲んでくれたのかもしれない。そういうところは昔から本当に察しが良い。


 誠実で、見極めが早くて、本当に吏安は優秀な人だ。


 昔と同じように、今は放っておかれたかったから、その判断は的確だった。


 いつまでも心が落ちつくとは思えない。せめて少しでも心の整理ができる一人の時間が欲しかったのだ。


 反して、巫子の務めだけは真面目にこなした。


 愛国心からではない。存在意義のためでもない。国や民のためだと、このときばかりは言える気がしなかった。


 巫子が祈りをするたびに供物を捧げる。供物は巫子の感情だ。感情がなくなればなくなるほど、気力は損なわれ、廃人同然となっていく。


 立憐は今すぐにでも命の灯を燃やし尽くしたかった。感情をすべて捧げたかった。献栄神に受けとってほしかった。


 乾ききった心は、もうすぐに力がなくなる。ならば、いっそのこと容赦なく奪いとってほしい。儀式のたびにそう願い続けた。


 一日三回の儀式以外の日々はどうでも良かった。生きることにおいて大事なものがすべて疎かになっていっても、それがどうしたと思考を放棄していた。


 食事は喉を通らなくなった。食べることに必要性を感じないというより、食べたいという意欲が湧かない。食べたいと思わないのだから、咀嚼する力が出てこない。


 巫子の私室には立憐が食事に集中できるようにという配慮で、付き人は吏安しかいない。護衛についていた満砕に話を振られながらする食事が、立憐にとって楽しい時間だった。


 食事の主体だった満砕との会話がなくなったのだ。当然、おいしいとも感じなくなる。


 口を開けるのも疲労を感じる。儀式ですでに疲れているのだから、当然と言えば当然だ。


 咀嚼を忘れ、口内に食べ物を入れて固まっていると、吏安に注意される。それが一度の食事の席で何度も何度も起こる。そのたびに吏安は立憐の名を呼んで起こしてくれた。


 食事という作業にさえ疲れを感じるのに、寝台に入っても睡魔は襲ってこない。務めをこなしているため、体は疲労を感じているはずだ。


 脳も前の方が固くしぼまっていて、お願いだから休んでくれと叫んでいる。しかし、目だけが爛々と開いている。力を入れていないのに、眼球が意志を持っているかのように動きをやめない。


 閉じ方を忘れてしまったみたいに。閉じてたまるかと抵抗するように。もしかしたら、閉じたら最後、死んでしまうと体が抵抗をしているのかもしれない。


 立憐はまた「諦める」ことにした。


 食事をしなくても、睡眠を摂らなくても、最低限儀式さえ行っていればいい。儀式で感情を失えば失うほど立憐は――満砕のもとに行けるのだから。


 早く、満砕のところに行きたかった。


 満砕と同じになりたかった。


 その大きな体で、厚い胸板で、暖かな手で、立憐を抱きしめてほしかった。


 ――『立憐』


 もう一度、あの優しい声で名前を呼んでほしい。


 ただそれだけの願いなのに。


 それだけしか望んでいないのに。



「食べなさい」



 ぼうっとしていた。


 思考がかなり遠くの方へ飛んでいた。だから、すぐにその言葉の意味を理解できなかった、誰が発した声なのかさえ、頭はすぐに答えを導きだせない。


 この食事の場に、立憐と吏安しかいないということさえ把握できていなかった。


 吏安は背後に控えていた。立憐のすぐ横まで歩んできて、素早く腕を伸ばした。立憐の両頬は強引に掴まれた。


 いつもの吏安からは遠く離れた乱暴な行動に、驚きさえ湧いてこない。首ががくんっと傾いて、立憐の視界は上向きになる。不敬とも言える、あまりにも無法な行いだった。


 この場に、吏安の不敬行為を咎める者はいない。当事者の立憐は問題として受けとめない。だからと言って、それらを理由に突然暴挙に出たとは考えられない。


 十二年間で、吏安のことを知っているつもりだった。いつも冷静で思慮深く、巫子である立憐を常におもんぱかってくれる。


 ともに過ごす時間が長くなるにつれて、「巫子」という存在だけでなく、「立憐」自身を大切に思ってくれていることも知っていた。


 だから、信心深い彼が、心優しい彼が、満砕との思い出を共有してくれている彼が、――目の前でつらそうに目を揺らす彼が、何をしようとしているのかを知る。


 立憐を心から叱り飛ばそうとしていることを、鮮明になっていく視界と思考の中でじわじわと悟っていく。


「食べなさい!」


 吏安は左手で立憐の顎を掴んだまま、右手を伸ばして箸を手に取った。一口大の温野菜を挟むと、それを立憐の口に運んでくる。顎を掴まれた左手の力で口を開けさせられ、立憐は温野菜を口に入れた。


「噛んで、――噛みなさい!」


 箸を持ったままの手で再び両頬を掴まれる。なかなか歯を噛み合わせない立憐に、吏安は焦れた様子で言葉を強くした。頭の中も外も揺らされる。外側から頬を動かされるため、立憐は苦しみを感じながらも、歯と歯を上下に動かした。


「飲みこんでください。ほら、次も行きますよ」


 吏安の声は震えていた。巫子に働く暴挙に対してからではない。立憐を一人の人間として見ている彼が怯えを感じるはずがない。

吏安は別の料理に腕を伸ばす。またしても口に入れられ、飲みこむことを強要される。


 揺らされる視界の中で、吏安が泣いているのを目にした。あふれるのを止めることもしない。面布が水分を吸って顔に張りついている。泣いていると自覚しているはずなのに、拭う間も惜しいとばかりに箸を動かす手を止めない。


 吏安は手を動かし続け、震える声で立憐に呼びかけ続けた。緩慢だった脳が完全に息を吹き返していく。


 そのあとも、立憐は吏安による甲斐甲斐しい餌付けを受け続けた。


 すっかり小さくなってしまった胃が限界に達するまで、立憐は与えられた料理を食べ続けた。噛みしめる速度が遅くなったのを見て、これ以上は無理だと吏安も悟る。ようやく箸を机に置くと、頬に添えられたままだった左手を下ろした。立憐の頬はきっと指の痕で赤くなっているだろう。


 吏安は勢いよくその場に膝を突いた。そして、額を地面につける。


 最大限の謝罪の姿勢に、立憐は呆然と見つめることしかできない。


 久しぶりにいっぱいになった腹を苦しく思う。この苦しさを上回る思いを、吏安は抱いているに違いない。


「どうぞ罰してください」


 くぐもった声を響かせ、吏安は固い声でそう言った。


 巫子にした暴挙に対して、吏安は反省を態度で示す。


 立憐に吏安を罰する気はない。彼の行動理念を知っている。だが、真意を本人の口から聞いておきたかった。


 尋ねる言葉を探す。少しだけ考えて、出てきた問いは無難に「何で?」の言葉だった。


「御無体を働きました」


「そうじゃなくて……」


「どのような理由があろうと、巫子様に乱暴な態度を取るべきではありませんでした」


 だから「何で?」の問いは必要ないと、彼は言うのだ。それが誠意の見せ方だとでも言うように。


 この真面目な男を、これほどまでに追いつめたのは、ほかでもない立憐だ。切羽詰まって行動を起こすほどに、状況が良くないことに焦りを感じていたのか。


 薄れている感情が痛みを発している。申し訳ないという、「心苦しさ」だ。随分と前に忘れてしまった感情の一つだった。


 吏安が焦りなど感じる必要はなかったのだ。立憐が死んでも、また別の巫子を連れてくれば良い。ただそれだけなのに。次代の巫子の居場所を言い当てる最期の仕事くらい、しっかりこなすつもりだと言うのに。


 ――それでも、吏安は僕に死んでほしくないと思ってくれたんだ。


 今度は立憐が吏安の頭を両手で掴んだ。顔どころか頭ごと持ちあげる。吏安は目を見開いて、綺麗な水色の瞳を揺らした。


「僕のことが心配だったんだよね」


 これ以上食事を摂らなければ死んでしまう。吏安はそう思った。実際、立憐が摂った食事量を自分以上に把握しているのだから、限界値まで来ていたのだろう。


 立憐は餓死して死んだとしても、何も文句はなかった。それこそ本望だった。


 ――死なせてはくれないのか。


 ――満砕のもとに、逝かせてはくれないのか。


 頭では責める言葉を吐きながら、自然と口から責める言葉は湧いて来なかった。


「ごめん」


 吏安の目をまっすぐと見つめ、立憐は静かに謝罪を口にした。


「僕が浅はかだった。巫子の仕事を疎かにするところだった」


 吏安の顔に悲痛さが宿る。そうではないと、叫ぶのを必死に堪えている。


 立憐は首を横に振った。


「うん。分かってる。そういうことじゃないって、分かってるよ」


 続けて言うと、吏安はわずかに呆けたような、安堵の吐息を吐いた。


 すうっと息を吸う。久しぶりに意識的にした呼吸だった。


「僕は満砕の親友だけど、――僕は巫子だから」


 巫子として選ばれてしまったから。巫子として生きることを強制されているから。


 満砕を失った悲しみを持ったまま、巫子として生きなくてはいけない。


 きっと、満砕も立憐に生きてほしいと思っている。



 ――『生きてくれ』



 最期の言葉が脳裏に響く。鮮やかに、美しく、心の中に息吹となって、立憐と一体になり生きている。


 それは祝福であり、呪いだ。


 その呪いを愛おしくも感じるのだから、人の気持ちの変化はおかしい。


「うん、ちゃんと生きるよ」


 大丈夫だよ、と立憐は吏安を胸いっぱいに抱きしめた。満砕がしてくれた抱擁。立憐が心の底から安心できる温度と言葉で。


 吏安は喉を引きつらせ、体を刻むように震える。喉を詰めてしゃくりあげている。恐る恐ると言うように腕を持ちあげ、立憐の背中に手を回した。


 やはり、立憐は泣けない。涙を流すほどの感情は残っていない。


 代わりとばかりに、吏安が涙を流してくれる。


 ――あったかい。


 心に広がっていく、確かな「生きている」という感覚。



 ――僕は、生きている。



 満砕が生かしてくれた命だ。立憐も、吏安も、彼がいなければ今生きていない。


 満砕に与えられた命を、立憐は巫子の責任を全うするために使う。すべての責務を果たして、褒められるまでに成長して、そうしたあとは――


 ――満砕のところに行っても良いよね?


 そのときはきっと満砕は腕を広げて、立憐を迎えいれてくれるはずだ。


 満砕との死後の再会だけを夢見て、立憐は生き続けることを決めた。



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