十二年という短くも長い、巫子の在任期間を祝した祭典が行われようとしていた。十年も経たずに亡くなってしまう巫子が多い中で、さらに二年以上も生きながらえる現状は稀であり、国民の期待値も高くなっている。
――斉丞相は、今の状況が面白くないだろうな。
巫子の力は献栄国を代表するもので、その威信は献栄国を治める大王へと直結する。大王に代わって統治しようなど、おこがましいことこの上ないが、斉丞相の企みがどれほどのものか満砕は図れなかった。
立憐は大王直下の兵によって護送され、王宮に参上していた。神殿から付き従うのは満砕と神官長の吏安のみだ。
王宮内に設けられた豪奢な一室で、立憐は吏安によって飾りたてられていく。
穢れのない純白の絹の衣をまとっただけでも神々しさがいっそう際立つ。いつも以上に念入りに髪をとかされ、光の反射によって星の瞬きのようにきらめいている。小粒の宝石が散った髪飾りでさらに髪を彩り、衣と同じ色の面布によって感情の乏しい顔を覆い隠す。神の使いと言われて申し分のない、作られた美が存在した。
「お披露目は初めてここに来たとき以来だ」
「緊張してるか?」
薄い生地の面布の奥で、立憐はわずかに考えてから「そうかも」と告げた。
「これが緊張か。なんだか落ちつかないね」
手を組み直す立憐に、満砕は頭をなで回してやりたい衝動に駆られた。飾られた宝飾に気づいて、すんでのところで抑えこみ、宙をさ迷った手で立憐の背中をなでた。
「こちらでしばらくお待ちください。今、案内の者を呼んでまいります」
吏安がそう言って部屋を出る。
大王への拝謁まで待たされている間も、満砕は警戒を怠らないでいた。ここは勝手を知っている神殿ではない。斉丞相の手のうちにあると思うと、気が気ではなかった。警護の強化は万全に練ってきた。王宮には、満砕が最も信頼を寄せている夏陀の部隊もある。そう思うことで自分に気負うなと言い聞かせた。
「満砕、隈がある。眠れなかったの?」
立憐の手が伸びて、満砕の目元をなでた。彼の心配を寄せる声にはっとする。
昔から立憐は気配に敏感だ。体調不良を隠そうとしても立憐にはいつだってお見通しだった。満砕の張りついた気配を立憐が感じとれないはずがない。
「大丈夫だ。おまえは何も心配するな」
不安にさせたくない一心で、気にするなと軽い言葉を投げる。
立憐は面布の奥でわずかに顔をしかめた。
「心配するなって、何? 僕が心配するようなことが起きてるの?」
「そうじゃない。そうじゃないよ。ただ、今は式典に集中してほしいってだけで――」
「満砕はいつもそうだ。大事なことは秘密にして、僕には何も相談してくれない」
淡々とした口調は怒気すらも孕んでいて、満砕は痛いところを突かれ胸が痛くなる。弁解のために口を回そうとして、的を射ているため即答できなかった。
「僕は君を心配しちゃいけないの? 僕だって君のことを大事に思ってるのに。僕には何も教えてくれないじゃないか。僕は守られるばかりの人形じゃないよ」
「そうだけど……」
「だけどなんだよ? 僕のためにっていうけど、僕はそれを望んでない。友達だって言ったのは満砕じゃないか。僕なんかのために、危ないことはしないでよ」
「僕なんか」。その台詞に、満砕の血の気が一気に引いた。
「そんなこと言わないでくれ。自分をそんなふうに卑下しないでくれよ」
青い顔ですがり寄り、満砕は立憐の両腕を掴んだ。加減のつかない満砕の握力に、立憐は「痛い」と叫ぶ。反射的に満砕は手を放し、後退すると二人の間に距離ができる。
「僕が僕をどう言おうが、満砕には関係ないでしょう。僕が一番、僕のことを分かってる」
「立憐、違うんだ、話を聞いてくれよ」
「どうせ満砕を置いて早死にする運命なんだ。僕のことより、もっと自分のことを大事にしてよ」
「立憐っ!」
掴みかかった拍子に面布が落ちる。立憐は波紋さえない静かな水面を思わせる、凍てついた顔を浮かべていた。声ほどの感情はなく、寒気を感じさせる雰囲気に満砕の体は硬直した。
――そんな悲しいこと言わないでくれよ。
喉元にせり上がった言葉は、固まった空気となって外に出る。
――違う。言わせたのは、俺だ。
血が上った頭は、一瞬にして冷えきって唇を震わせる。
立憐は自分の運命を、最も理解している。今口に上った言葉が、立憐が溜めこんでいた本音なのだ。満砕は立憐を救う手立てさえも持っていないのに、それを否定するのは無責任だ。立憐を責めたところで、真実として「違う」と覆せる自信はない。
立憐の肩を掴んだまましばらく放心していた満砕は、部屋の外から声がかかったことではっと現実に戻る。
落ちた面布を拾いあげ、立憐に渡す。無言で受けとった立憐は、凍った表情を隠すように面をつけた。二人の間に気まずい空気が流れても、どちらからも言葉は紡がれなかった。
巫子を呼びにやってきた吏安と文官のあとに従い、立憐と満砕は神殿とは異なる厳かな王宮内を進んでいく。
政治を司る閣に参ると、中央の玉座には大王、両端には高級官吏たちがずらりと待ち構えていた。護衛の立憐が立ち入れるのは閣の入り口まで。立憐は満砕を振り返る間もなく歩みを進めた。各々の企みを多分に含んだ官吏たちが見つめる中、子どもの姿の立憐が堂々と中心を歩く姿は、異質と表現する以外になかった。
「献栄国の太陽にご挨拶申しあげます」
大王の前にたたずんだ立憐は深く拝礼をする。大王は片手を上げてそれを受けとめ、側近により祝いの言葉が返された。
立憐は始終、巫子としての威厳を兼ね備えた態度だった。巫子を初めて目にする官吏も多いだろう。ほとんどが畏敬の念で見つめる中で、満砕は斉丞相の視線が気になった。まさか大王の前で何かをしかけるとは思えない。しかし、この式典が無事に終えられる予感がしなかった。
挨拶を終え、立憐と満砕、吏安は文官に先導され、国民への披露の場となる正門の櫓へと向かう。盗み見た立憐は落ちついていて、わずかに感じているだろう緊張をおくびにも出さない。子どもの形をとっていても、そこにいるのは十年以上「巫子」の立場を任されてきた貫禄があった。
「この先でお待ちです」
櫓への入り口に到着し、衛兵二人が両扉を押さえている。外からは巫子の顔を一目見ようと集まった民衆のざわめきが聞こえてくる。十二年前、満砕が琉架に抱えられて見物に来たことが思いだされる。あのときの決意を、忘れた日は一度としてなかった。
――なのに、このていたらくはなんだ? 俺は、立憐のそばにいるだけじゃなくて、立憐の心を守りたかった。今、守れていると言えるのか? 俺はいったいどうしたい。
立憐は、自分は、いったいこの先どうしたいのか。答えは今も昔も変わっていないにもかかわらず、その言葉を口の外にうまく出せない。
再び、立憐を見つめる。凪いだ瞳だけが覗いて、その目はまっすぐと前だけを見ている。希望はなく、報われず、けれども二本の足で立ち、小さな体で人々の命を守っている。
――俺はそんなおまえを守りたいと思ったんだ。
足を踏みだした立憐は、扉の外へ歩みを進める。満砕と吏安はぴったりと立憐の背後についたまま、あとを追う。
櫓には三十名近くの兵士が立ち並び、辺りを警戒している。立憐は堂々とした佇まいで縁まで辿りつくと、城下を満遍なく眺めた。真っ白な衣装を身にまとった巫子の姿に、わあっと国民が沸きたつ。黒い頭の群れが眼下一面を埋め尽くしている。
顔を上げると櫓の上からは、連なった屋根の上から色とりどりの花々が降っている様子が見えた。風によって花が巻きあげられ、甘い香りが王都中を舞っている。これまた染色のされた垂れ布が各所で吊りさげられ、優雅に宙を泳いでいる。その景色は巫子が国を守るために張る結界の色に似ていた。
立憐が手を上げれば、民衆は両手を振って歓声を上げる。「巫子様―‼」と一段と大きく叫ぶ者がいて応えるように立憐は顔を向けた。みな歓喜に震え、熱狂的な声を上げ続けた。
――これが、立憐が守っている人々の姿なんだ。
立憐を守るということは、立憐が守るものも守らねばならない。満砕にはその認識が足りていなかった。立憐の背中が遠くに感じられ、小さくも力強く見えた。
――ずっと、ずっとともにいたい。国民も守りたい。俺は……。
ちりりっと肌が焼けたような気配を感じとる。戦場で幾度なく感じとったそれは、殺気だ。満砕は素早く立憐を抱きこんだ。
「吏安、伏せろ!」
隣に立っていた吏安に叫ぶと、ぴゅううっと王都では聞きなれない異質な音が立った。かと思うと、
民衆の歓声は一瞬だけ止み、次の瞬間には戸惑いの声、のちに悲鳴が上がる。一斉に逃げようとする人々の中から、烽火を上げた犯人を見つけることは不可能に近い。
櫓にいた兵士は鎮火する者、巫子を守るために囲う者に別れ、騒然と動きだした。
「巫子様、怪我はありませんか?」
「……大丈夫、何もないよ」
急いで声をかけると、立憐は押しつぶされた状態でありながらも、くぐもった声で返してきた。
吏安に視線を向けると、彼は頭を抱えながら立憐のそばでうずくまっていた。
急遽運ばれた水をかけても炎はなかなか消えない。満砕は体を縮めた立憐を抱きあげると、すぐさまその場から立ち退こうとした。
すると、視界の端で一人の兵士が懐から異物を取りだすのが見えた。その兵士は燃え立つ火の中に異物を投げいれる。
「貴様っ!」
叫んだ瞬間、燃え移った異物によって、辺り一帯に白い煙幕が張られた。兵士の戸惑いの声が上がっていく中、満砕は立憐を左腕に抱きあげた状態で剣を抜いた。
「満砕、何が起きてるの?」
「敵だ。煙が目に入る。目をつむっていてくれ。」
できるだけ平静を装って声をかける。「吏安!」と叫ぶと、吏安はすぐに立ちあがってそばに従った。
立憐が指示通り目をつむったことを確認し、左腕に担ぎあげたまま駆けだす。扉の位置は把握済みだ。二丈ばかり先の楼閣に入れば、外からの攻撃はある程度防げるだろう。
足音と煙のかすかな動きを読み、他の兵士を避けながら駆けた。怒号に近い上官の命令と、巫子を守れと最優先事項を叫ぶ者。きらりっと反射する光を目の端に捉えると、剣でそれを防いだ。
ガキンッと刃が打ち合わさる音が響く。白い視界の中から兵士に扮した敵が現れ、巫子に向かって剣を振るった。それだけで反逆行為に違いなく、満砕は剣を押し返した動作のまま相手を斬り伏せた。
「ぎゃあぁぁ‼」
汚い声を上げて崩れ落ちる敵を踏み台にして楼閣内に戻る。中もうっすらと煙が漂っているが、外ほど視界は悪くない。
「立憐、俺にしっかり掴まっていろよ」
「分かった」
立憐がいっそう強く満砕の首に抱きついたころ、煙の中から脱した兵士が楼閣に入ってきた。中には傷を負った者もいる。彼らは巫子を担いでいる満砕を見て、巫子を案ずる声を上げた。
「今いる無事な者は?」
「四人です!」
「少ないな。とりあえず今いる者で王宮に向かう。ついてこい!」
満砕は吏安に視線を送り、目だけでしっかりついてくるよう指示した。吏安は固い顔で深く頷いた。
立憐を安全な場所に連れていくことだけを念頭に置いて走りだした。目指すのは大王がいる閣だ。そこには夏陀の部隊もある。騒ぎを聞きつけてこちらに向かっていることを祈りながら駆けた。
「うわっ!」
「ぎゃっ」
悲鳴が背後から上がり、足は動かしたまま顔だけを向けると、複数の敵が追ってきていた。応戦する残った兵士に加勢しようと踏みとどまる。
「先を行ってください! どうか、巫子様を!」
一人の兵士が敵と相対しながら叫んだ。満砕は一瞬だけ迷い、足の向きを素早く変えた。
「満砕、戻って! あの人数では無理だよ!」
「……だめだ。俺はおまえが生き残る道を選ぶ」
「そんなっ!」
立憐の制止を無視して、満砕は楼閣を下りた。回廊を抜け、どこから侵入したのかあふれ出てくる敵を斬り捨てる。
「警備はいったい何をしてるんだ⁉」
苛立ちを込めて叫びながらも、主犯の正体は分かっていた。式典の騒ぎに乗じて、斉丞相が巫子を亡き者にしようと動いたのだ。事前の衛兵の位置を変更することくらい、丞相の権限があれば容易い。
「くそっ!」
敵を斬り伏せ、あふれた血が立憐の白い衣装にかかる。髪にも返り血が付着してまだらの点がかかっていた。
「うっ」
むせ返る血の臭いに立憐は吐き気をもよおす。戦闘とは反する場所の神殿で暮らしていた立憐にとって、人の死に直面して平常でいられるはずはない。
「そのまま吐いていい。もう少しの辛抱だからな」
立憐を抱え直し、走りだそうとしたとき、どこからか弓矢の音が響く。満砕は矢を剣で叩き落とし、正面から迫る敵も続けて斬った。
「吏安、ついてきてるか⁉」
「大丈夫です、おそばにいます!」
荒い息を吐く吏安を支えてやる余裕はない。満砕はあふれて出てくる敵を受け流しながら、立憐と吏安を守りながら戦う。
「満砕殿! 後ろから!」
兵士を斬り捨て、追いかけてきた敵の姿に満砕は舌打ちをした。吏安を壁に寄せ、腕に乗せていた立憐を下ろす。
およそ十人の敵に、満砕は剣を振るう。背中に立憐と吏安を庇いながら、右から左から迫ってくる敵を交互に相手取る。武装の甘い隙を狙って剣を刺し、血に濡れて刃が使い物にならなくなると腕力で叩き斬った。
地面に敵の骸を埋め尽くし、新たな追手が来る前に先を急ごうと、立憐を抱えるために体勢を変えた。
「満砕っ‼」
立憐の叫びに体をひねり、音もなく迫ってきた敵に集中する。目の前の敵の刃が立憐に迫ろうとしていた。相手の剣を力任せにへし折り、敵の心臓を一突きする。
同時に、死角を突いた方角から弓矢が飛んできて、満砕の肩に刺さった。痛みに呻いた瞬間、視界の端で敵が素早く駆け、立憐に向かって剣を突き刺そうとしている姿が見えた。満砕は反射的に立憐の前に立ちふさがると、敵の刃を腹に受けた。
「うぐっ!」
「満砕‼」
正面の敵が剣を抜こうとする。満砕は腹筋に力を入れて防ぐと、剣を持ったままの敵の腕を掴む。動けない敵が慌てる隙に、その首を撥ねとばした。敵は悲鳴を上げることもできず、その場に崩れ落ちる。
腹に刺さった剣の柄。二本の足で踏みとどまると、体から地面にぼたりと血がこぼれる。満砕の腹には敵の剣が突き刺さったまま放置され、鮮血があふれ出ていた。
「満砕、血がっ」
駆け寄った立憐は、満砕の傷口に手を当てる。満砕の血が移っていき、純白の衣が真っ赤に染まっていった。
思考は段々と緩慢になっていく。痛みはなく、全身が熱い。満砕は立憐の声に反応することも忘れていた。立憐の肩を抱えると、足を前に踏みだした。
「止血して! 満砕っ、血が、止まってない!」
立憐の声に感情が乗っていた。立憐が焦りと悲しみを含んだ声を出す。
腹の剣は内臓を荒らし、傷ついてはいけない部位を貫いていた。筋肉に力を入れても血が止まらないのは内臓が傷ついているせいだ。
自分の体を支えるのが限界になっていた。満砕の胸にも届かない小さな体の立憐を押し潰しそうになる。
「吏安、いるか?」
「はい、巫子様のおそばにいます」
立憐と同じように満砕を支えようとする吏安の白装束にも、赤い血が移っていた。出血の量に、満砕は奥歯を噛みしめた。
「悪いが、立憐を抱えて先導してくれ。敵は俺が屠るから」
「はい。はい! 私が必ず、立憐様をお守りしますから」
吏安の泣きそうな声が、いやに耳についた。吏安は立憐を満砕から引きはがすと、肩を抱きこんで支えた。
「満砕、待ってよ。満砕、返事して」
立憐の戸惑いに満砕は微笑みだけを返す。
前方に敵がいないことを確認して、吏安に先を進むよう指差す。吏安は立憐を引きずって駆けだした。満砕も周囲を警戒しながら、二人の殿を務める。
足の先が血で濡れていく。王宮の廊下に血の足跡をつけながら、後ろから追ってきた敵を叩き斬った。満砕の体は軽く、いつも以上の反射速度が出る。
閣はもうすぐそこだ。立憐に今のところ傷はない。追ってきた敵を叩き伏せると、立憐と吏安を守りながら、勢いを止めることなく走り抜けた。
目前から大勢の足音が響いて、立憐たちの前に立ちふさがると満砕は剣を構える。剣は柄まで敵の血に染まり、手の中はぬめりを帯びていた。
「満砕、無事か!」
兵士を引き連れて先頭を走ってくる養父の姿に、満砕はこの上なく安堵した。途端、満砕の体から一気に力が抜ける。膝ががくりと意思をなくし、その場に崩れ落ちた。
「満砕‼」
立憐の悲鳴が遠い。表情をゆがめた顔が目に入り、不思議な心地がした。
夏陀に体を支えられる。満砕は気力を振り絞って一度体を離すと、立憐と吏安を押しつけるように夏陀に受け渡す。かららんっと響く音。剣を手から落としてしまっていた。
――力が入らない。
腹から下の感覚がなかった。
顔を青くした見知った者たちが、満砕たちを囲んだ。夏陀の屋敷で満砕に稽古をつけてくれた者たちばかりだ。彼らがいれば、立憐は無事だ。満砕は心の底からほっとして息を吐いた。
「満砕っ! 満砕、聞こえるか!」
「……聞こえてますよ」
立憐を抱えた夏陀。いつもの余裕に満ちた顔は一変して、血相を変えている。それがどこか面白くて、満砕は口元を上げてみせた。
「満砕、しっかりしろ!」
「満砕っ」
立憐が満砕の服を掴んだ。その手が震えていると分かり、立憐に怪我があったのかと心が穏やかでなくなる。
――立憐を、守らなくちゃ。
満砕は落ちそうになる目蓋をしっかりと見開こうとした。それでも目はゆっくりと閉じていく。
――眠い。すごく、眠い気がする。だけど、守らなくちゃ。俺は守りたい。守れただろうか、俺は。立憐。
「満砕! おい、聞こえてるなら反応しろ!」
焼けるような痛みが、腹から全身に移ろっていく。激しい痛みに反して、体の機能が段々と力をなくしていくのを感じとる。
「……父さん、頼みがあるんだ」
「っ! ……なんだ、言ってみろ」
初めて夏陀を「父」と呼んだ。今呼ばなければ、一生呼べない気がした。
「立憐のこと、頼んでもいいか」
「ああ。ああ、分かった。俺に任せろ」
「ありがとう」
夏陀は目元を赤くして、満砕の肩を強く叩いた。
すぐに気を遣ってしまいそうだ。うごめく痛みに、満砕は眉間に皺を寄せて立憐を見つめた。
立憐は大きな青い瞳から涙を流していた。そういえば、彼は泣き虫だった。昔はよく泣いていたのに、再会したときに泣いて以来、まったく涙を見せなかった。満砕は嬉しくなって、その涙に触れようとしたものの、腕は一向に持ちあがらない。残念だ、という思いがじわじわと広がっていく。
「立憐」
「んっ、……満砕、満砕っ!」
「お願いだ」
きっと立憐なら叶えてくれる。立憐が満砕の願いを無下にしたことは、たったの一度もなかった。
「生きてくれ」
願いを口にした。立憐を想っての願いだった。
足元が温かい。血だまりが広がっていくにつれ、あれほど熱かった体は、徐々に冷たくなっていく。その感覚を味わいながら、満砕の中に心残りが浮かんだ。
――だって、まだ、
「一緒に……丘の向こうに……かえ――」
丘の向こうにある故郷に帰りたかった。満砕と、立憐の願いは、ただそれだけだった。それだけのことを、満砕にも立憐にも許されなかった。
叶えてやれなかった。満砕は、立憐にもう一度、村の景色を見せてやりたかった。
満砕は大きな心残りを抱え、意識が抜けていくまま身を任せる。立憐の顔がゆがむ。笑ってくれ、と思うころには目の前は真っ暗になってしまった。
満砕の命の灯は、音もなく消え去った。
【二章】 完