立憐が役目を果たしているとき、満砕は暇を持て余す。その時間を使って、立憐が興味を引くものを見つけに神殿の外に出ていた。
見た目が幼い立憐よりもさらに年若い少女から、束になった桔梗を買う。桔梗は立憐の母、優蘭が好きだった花だ。夫である亞侘から告白されたときにもらった花なのだと、優蘭は嬉しそうに語っていた。両親の思い出話は歯がゆいと頬を赤くしていた立憐は、今桔梗を見て何を思うだろうか。
「満砕」
背後から呼びとめられ、振り向くと馬にまたがった夏陀の姿があった。
「夏陀様、お久しぶりです」
満砕は今、神殿内で生活している。大王直属部隊にいる夏陀も屋敷に滞在する時間が少なく、連絡は密に交わしているものの、二人が顔を合わせるのはおよそ半年ぶりであった。
「悠都と右南が会いたいと嘆いていた。近いうちに帰ってやれ」
「とはいっても、月一で顔を見せているんですがね。夏陀様の方こそ、右南にもっと構ってやってください。あいつ会うたびに大きくなってる。すぐに『親父』呼ばわりされる日が来ますよ?」
「そういうおまえは、いつになったら『父』と呼んでくれるのか」
まさか言い返されるとは思ってもみなかった満砕は目を瞬く。してやったりと口角を上げる夏陀に口を尖らせた。
「父」と思っていないわけではなかった。むしろ、顔もおぼろげな実の両親よりも、養子に迎えいれてくれた夏陀と悠都を、本当の両親のように思っている。養子になってからしばらくして生まれた待望の子である右南にも、血のつながりなど関係ないとばかりに慕ってもらえている。
「……いまさら、恥ずかしいです」
「おまえの気質は理解しているつもりだ。だから、気長に待つさ」
夏陀は手を伸ばすと、馬上から満砕の頭を乱暴になでた。十年以上の付き合いだというのに、夏陀のなで方は変わらないままだ。俺はもうすぐで二十歳になるんだ、と思う反面、手を払う気になれないのは、口には出さないものの嬉しいことに変わりないからだった。
夏陀と別れ、服の下に桔梗を隠して神殿へ帰る。慣れた順路を進み奥の間へ入ると、立憐は椅子に全身を預け、満砕が持ってきた振り太鼓を手持無沙汰に回していた。
「立憐、ただいま」
心在らずといった様子でぼうっとしていた立憐はゆっくりと顔を上げる。何拍か置いてから「おかえり」と力なく返ってきた。
「土産があるんだ。見てくれ、桔梗だよ」
懐から粗布に包んだ桔梗を開いて見せる。濃い紫色の花は立憐の白い髪に映えていた。
立憐はしばらくじっと桔梗を見つめ、一本だけ持ちあげるが、振り太鼓を手にしていたときと変わらない表情だ。もしかすると、優蘭が好きだった花であると忘れてしまったのだろうか。だとすれば、買ってきたのは失敗だったかもしれない。
無感動に花を眺めている立憐に耐えきれず、満砕は椅子に腰かけた。ふと思いだして、悠都から教えられた歌の一節を音にする。
《 道端に咲く花を
母に届けに帰りましょう
母は喜ぶかしら
笑顔を向けてくれるかしら
日が暮れていく
鳥が巣に帰っていく
優しい温もりに
早く包まれてしまいたい 》
悠都が初めてうたってくれた歌。あのときの感動は十年経った今でもよみがえってくる。
「この歌の花って、桔梗のことを指すんだってさ。なんだか、とっても心が温かくなる歌だろ?」
気持ちを共有したい一心だった満砕は、立憐を見て目を見開いた。
立憐は静かに微笑んでいた。
他人が見れば無表情と変わらない。控えめというにも誇張しすぎなほどの、些細な変化。花でいうならば一分咲きでしかないその笑みを見て、満砕の目に涙が溜まっていく。
「僕も、そんなことを考えながら帰ったことがあったよ」
母さんは元気かな。優しい瞳をしながら桔梗を見つめる立憐に、満砕の目は決壊した。
隣でぼたりぼたりと大粒の涙を流す満砕に、立憐は体を大げさなほど揺らした。どう慰めるべきか分からないのか、さ迷った手が視界に入る。その手を反射的に掴みとり、満砕は自分が思いのほか震えていたのだと悟る。
かつての立憐は、今でも立憐の中にあった。
立憐はまったく変わっていない。感情を失っても、記憶はしっかりと残っている。
なくなってしまった感情を別の感情に上書きすればいい。そう考えていた自分が情けなかった。満砕はどこかで怖気づいていたのだ。神に捧げた感情は、もう二度と返ってこないのだと無自覚に思いこんでいた。
立憐の中の感情は、完全に消えていない。まだ間に合う。記憶を揺さぶることで感情を思いださせることは可能なのだ。
満砕は袖で顔をぬぐい、立憐の両手を大きな手で包みこんだ。
「立憐」
「どうしたの、満砕」
感情の乗らない声。満砕を気遣ってくれていることに変わりはない。なぜ気づかなかったのだろう。立憐は最初から満砕に、かつてと変わらない「立憐」を見せていてくれたのに。
「これからもずっと、俺はおまえのそばにいるよ」
「変な満砕だね。満砕がそばにいてくれるって、僕が一番分かってるよ」
「そうだ、そばにいる。忘れないでくれ。何があっても、俺はおまえを守るからな」
巫子と護衛兵という主従の立場にいる今、友情を語るには出すぎた思いだ。
だが、満砕と立憐の関係は、昔から何一つ変わらない。変わらないことこそが、立憐の感情を取り戻す近道になる。
そして、目を背けていた事案を、満砕は考えなくてはならない。「丘の向こう」の「
「将軍からの伝達だよ」
日課ともなった外出を狙ったのか、露店を見ていた満砕の背後に人が立つ。満砕の後ろに立てる人間はそう多くない。声音ですぐに背後の人間が、夏陀の部下である琉架だと察する。
「ここは人が多い。今夜、神殿の裏手で」
それだけを告げられ、気配はすぐに消えた。満砕は振り返る間もなく、頭の中で琉架からの伝言を反芻する。夏陀からの連絡。それも、おそらく内密の。人の立ち入れない神殿付近での密談を指定してくる辺り、重要事項である可能性が高い。
はあっと深く息を吐き、大げさに頭をかいた。顔を上げると、ちょうど天空は虹色の波のように輝く。真昼の時刻を知らせ、結界が張り直された合図だ。満砕は大急ぎで神殿へと踵を返した。
「満砕殿、お待ちください」
つとめを終えた立憐を迎えに儀式の間に向かって回廊を進んでいたところ、立憐についているはずの吏安が待ち構えていた。
吏安は神官長を務めるほど、真面目を取り柄とした誠実な人間だ。神への信仰心だけで生きているような他の神官と比べて、彼は人の心を忘れていない。敬虔な信徒でありながら、巫子の役割以外の立憐を見てくれる存在に、満砕は陰ながら同士に近い印象を抱いていた。
その吏安がいつも以上に強張った顔をして、真剣な瞳を向けてくる。ぴりついた空気に、満砕は背筋を伸ばした。
「ある神官から、あなたが巫子様に、検閲を通していない物を与えていると報告がありました。異論はありますか?」
いつもより固い口調で問われた言葉に満砕は心当たりしかなかった。すぐには認められず、「あー」と無駄に声を伸ばす。はっきりと否定しない満砕の様子に、吏安は怒るのも疲れるとばかりにため息を吐く。
「私は神官長という立場にあるため、この問題を無視できません。満砕殿が今後も同じ違反を起こすならば、それなりの処罰を考えねばならないのです。お分かりいただけますか?」
台詞の端々から、吏安が本意ではないと伝わってくる。彼には立場があり、満砕を咎めなくてはならない。
おそらく吏安は、満砕の検閲を無視した行為を知っていたのだろう。もし満砕がもっと巧妙に行動し、違反が露呈しなければ、吏安は黙認し続けたはずだ。
満砕は吏安に申し訳ない思いがつのった。
「違反行為は慎みます。申し訳ありません」
普段使わない敬語を使い謝罪すると、吏安は目をつぶった。
「再び発覚したとき、あなたは護衛の任を外される可能性がございます。ただでさえ巫子様と距離の近いあなたに、反感を持つ神官がいます。自覚を持って行動してください」
厳しくも与えられる情報に、満砕は深い頷きを返す。吏安はきつく尖らせた目を閉じたまま背を向ける。そのまま儀式の間の方へ歩きだす吏安のあとを、少しばかり距離を空けて追う。
「あの、今回の罰は?」
大きな図体を縮めながら尋ねると、吏安の横顔だけが見える。緊張した空気は和らいで、吏安は目元を緩めていた。
「立憐様の喜びを望んでいる者は、満砕殿だけではありませんよ」
そう言ってまた前を向いてしまった吏安に、満砕は足元から上に向かって鳥肌が立つような心地を感じた。
おまえのそばにはおまえを想う人がいるのだと、立憐に伝えたくてたまらない。
――俺だけではないと伝えたら、おまえはどんな顔をするだろうな。
自然と足取りは軽やかに感じられた。
神殿の裏手にある糞尿を溜める場所にほど近いそこは、風に乗って鼻をつまみたくなる臭いが運ばれてくる。「穢れ」が最もひどいため、巫子の居室からは一番遠い位置にある。
闇に背を向けて立ちながら、満砕は服についた臭いの処理をどうするか考えていた。
琉架が神殿を訪れたのは、巫子が夜のつとめを終えて二刻が経過してからだった。
「元気だったかい、満砕」
風の流れが変わり、知った気配の方へ顔を向けると、琉架はさも当然といったふうにその場にたたずんでいた。諜報を任されることが多い琉架にとって、神殿への侵入はそう難しいものではない。
「
「これでも警備は見直したんだ。だけど、中に大人数の余所者はいれない方針だって、神殿側が譲らないんだよ」
「そんなので大事な巫子様が死んでしまったら、元も子もないのにね」
琉架は形のいい眉を綺麗にゆがめた。
神殿を囲う外壁に置かれた衛兵の数は、王宮を警備する衛兵の数と大して変わらない。対して、神殿内に衛兵は配備されておらず、巫子についているのは護衛兵の満砕だけだ。この配置は満砕がやってくる前も、先代巫子のときも変わりないという。神殿――神官が潔癖なほどに、外の人間を嫌っているのが要因だ。
本来であれば、護衛兵も中には入れたくないのが本音だろう。満砕に近寄る神官は吏安以外にはいない。神殿側には武力に対応できる者がいないため、最低限の譲歩が一人だけ護衛を許すことだったのだ。
「でも、そうは言ってもいられなくなってきたんだよ」
「どういうことだ?」
意味深な琉架の言葉にぞわりと毛が逆立った。
「きな臭い動きをしている人間がいるんだ。『反巫子派』と私たちは呼んでるけど、巫子のしくみに対して提起しているわけじゃない。現巫子様を亡き者にして、新しく生まれた巫子様を反巫子派が見つけることで自らの手駒にする。……巫子を政治の道具にしようと企んでいるようだ」
顔が恐ろしいほど険しくなっていく。握りしめた両こぶしは力を込めすぎて細かく震える。琉架は静かに殺気を放つ満砕を見遣って片目をつぶった。
「この件に関しては、大王様も困っておいででね。近々王宮側から神殿に警備の増強が依頼されるだろう。まあ、神殿側が受けいれるとは思えないから、こうして護衛の満砕に直接話をしに来たんだけどね」
「……助かる。立憐には髪の毛一本も触れさせない」
「うん。献栄国のためにもそうしてほしい。本当は今度の式典も見直したいんだけど、こちらが勘づいているとばれてもいけないし、国民に巫子様のお披露目があると情報が流れてるから取り返しがつかないんだ」
盛大にため息を吐いてみせる琉架に、満砕の眉間はさらに険しさを増す。満砕は奥歯を噛みしめ、教えられた情報を精査した。
大王は現巫子の味方である。それに付随する直属部隊の夏陀たちも、現巫子を支持している。その大王が簡単に手出しがしにくい相手である反巫子派は、権力を欲している。それこそ巫子、神殿の力さえも欲する存在だ。
そこまで助言が与えられれば、おのずと敵の姿は見えてくる。
「反巫子派が誰か、夏陀たちは分かってるんだろ」
ざあっと不気味な風が吹き、いやな臭いとともに琉架はその名を口にした。
「献栄国、丞相――斉。彼が反巫子派の主導者だよ」