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第三話

 満砕は神殿の衛兵ではなく、巫子専任の護衛兵だ。存在意義の最優先に巫子がいる。誰に邪魔されることなく、満砕は立憐のそばにいても問題ない地位に就いた。


 神官長の吏安は言った。


「前任の護衛兵は、満砕殿のように四六時中おそばについてはいませんでしたよ」


「なぜだ? 巫子の護衛は名誉職と言われているほどだろう? 巫子と懇意にする機会だろうに」


「みな、満砕殿と同じ視野をお持ちではないのですよ」


 皮肉じみた言葉は、ここにはいない前任を非難しているかのようだった。


「巫子様の外見が神々しく変化されるにつれ、そばにいると狂ってしまうとうそぶく者もおりました」


 立憐ほどではないものの、表情の乏しい吏安だったが、目に見えて憐憫を浮かべる。その視線の先には、「おつとめ」をこなす立憐の姿があった。


 朝昼晩の決まった時間。民が一瞬だけ変わる空の色を確認する時間に、巫子は儀式を執り行う。


 巫子しか立ち入れない「儀式の間」に一人進む立憐の背中を、満砕と吏安は見つめる。空洞となった天井は高く、室内の中央には、国が崇める「献栄神」の祭壇がある。立憐は慣れた動作で祭壇前にたたずんでいた。無垢な白に染まった着物の長い袖を払い、音もなく膝をつく。後ろに流れる白髪は禊で清められたせいでわずかにまだ濡れていた。


 立憐は天に高く手を上げ、礼拝を始める。


「天におわす献栄神に、ご挨拶させていただくための一拝」


 目の前の光景を吏安は声を抑えて説明する。


「祭壇にお迎えするための一拝。そしてお祈り」


 深く拝礼をした立憐は、頭を下げたままの体勢で身動きしなくなった。手を前に組み、神に祈りという名の一方的な願い、、を念じる。「どうか献栄国を守ってください」と告げ、国内に張り巡らされた結界を強固なものに変えるのだ。


「その代わりに、供物、、を捧げているんだな」


 それゆえの「祭壇」。吏安は無言で肯定する。


 巫子は唯一、神と交渉できる高位な存在だ。対外的にはそうなっている。


 実際のところ、巫子とは神への捧げものである。神に願いを叶えてもらう代わりに、巫子は感情を吸いとられる。とられた感情は戻らず、巫子は少しずつ感情を失い、果ては心が死んでしまう。十年で巫子が代替わりする絡繰りを、満砕はまさに今目の当たりにしていた。


「巫子は、どうやって神に選ばれるんだ?」


 小さいころ、ともにいた立憐に、巫子となる兆候を感じたことはない。何か特別な力があったとか、人や動物に好かれていたとか、そういった神に愛された「特別」を持っていたわけではなかった。


 なぜ、立憐が。彼はどこにでもいる少年に変わりなかった。幾度となく考え続けた疑問の答えを、教えてくれる人間は今までいなかった。


「私は献栄神ではありませんので、これは私個人の推測になりますが」


 吏安はそう前置きをした。


「過去の記録を振り返ったことがあります。どの巫子様も、おつとめを放棄されたことはありません。毎日、毎回、かかさずおつとめをこなしていらっしゃいました。それは今代の巫子様も変わりありません」


 それを信仰心と言うには気持ちが悪かった。


 中には国に家族を人質に取られた者もいただろう。つとめをこなさなければ、生きていけない強迫観念に駆られた者も。


 結界は巫子が祈らなければ、効力を段々と失って弱まっていく仕組みらしい。ゆえに一度役目を怠ったとしても、結界が完全になくなることはない。


 だが、巫子に選ばれた者は必ず役目をこなしてきた。


「献栄神は、献栄国を絶対に裏切らない者を選んでいるのではないかと思います。献栄国のために、献栄国に住まう、自身の大切な者のために尽くす巫子様を、献栄神は望んでいるのだと、私は考えております」


 その思考が真実ならば。満砕の視界が揺らいだ。


 立憐を神殿に閉じこめているのは、満砕や家族が献栄国にいるからだ。立憐のしがらみは、家族の存在によって生まれた。立憐の心の優しさを、献栄神は何もかも見透かし、手玉に取っている。


 満砕は己の存在に目が眩みそうになった。


 祈りをしたあと、挨拶への感謝と、天にお帰りいただくための二拝で儀式は終わる。立憐は大きく袖を外側に払い、髪飾りを揺らす。しずしずとあとずさりで儀式の間から退出する。満砕と吏安のところまで辿りついた立憐は、小さく息を吐いて振り返った。


「おつとめご苦労様です、巫子様」


 吏安の労いに立憐は頷くと、満砕を見あげた。


 また一つ、彼の中の感情が消えてしまったのだ。沈んでいく気持ちを表には出さないように気をつけて、立憐の小さな手をすくった。


「お疲れ。飯にしよう。腹は減ってないか?」


 変わらない調子で話しかければ、立憐は少しだけ考えるそぶりをしてから「分からない」と答えた。


「飯を前にしたら箸が進むかもな。吏安、今日のあつものはなんだ?」


「羹ですか? たしか……冬瓜と麩を使用していますが?」


「そりゃあいい! 立憐は冬瓜が好きだからな。村では育ててなかったから、商人が持ってくるのを、寒空の下で待ったこともあったよな?」


 奥の間に戻りながら思い出話をすると、単調な声が返ってくる。


「満砕はなぜか風邪をひかなかったね」


「それはおまえの体が弱すぎるせいだ。外で待ち続けた翌日に熱を出すのが、毎年恒例になったよな」


「冬瓜はおいしかった」


 味覚を通じた「おいしい」という「喜」の感情を口にした立憐に、満砕は胸の内からじわじわと嬉しさが広がった。それは満砕だけでなく、二人の会話を聞いていた吏安も同じだったのか、目が合うと柔らかく目を細めた。


 感情を失ったのなら、もう一度感情を知って取り戻せばいい。儀式の回数を上回って感情を取り返していけば、立憐はまた笑えるようになるはずだ。


 それがどれほど困難な道だとしても、満砕にいまさら諦める選択肢はなかった。




 立憐は人並みに感情のある子どもだった。満砕のように「喜」や「楽」に振りきった性格ではなかったが、満砕とともにいるとき、口元には笑みをたたえていた。「怯え」や「恐れ」があまりない好奇心旺盛な満砕に比べると、それらを持っていた立憐の方が感情は豊かだったかもしれない。


 彼がどのようなときに喜んでいたか、悲しんでいたか、怒っていたかを思い起こす。


 村には子どもが遊ぶための玩具は少なかったが、すぐそばにある森や畑は遊びの宝庫だった。林の探検は東や西によって姿を変え、小川にはたくさんの生物が暮らしていた。子どもの発想は尽きず、あれをしようこれをしよう、あれがしたいこれがしたい、とやりたいことは絶えなかった。いつも笑っていたし、楽しかった。それはどの場面にも、立憐が一緒だったからにほかならない。


 満砕には勝算があった。


 自分が楽しんでいれば、必ず立憐も楽しさを思いだすだろう。逆の立場であったなら、満砕は立憐がいるだけで十分楽しかっただろうから。


 自分が笑っている限り、立憐もまた笑ってくれる。そう信じて疑わなかった。


「立憐、新しい玩具を持ってきたぞ! 見ろよ、これ。珍しいだろ!」


「よく検閲通ったね」


 神殿内に入れるものは厳しい取り締まりがある。想定外な事態で巫子が死んでしまった場合、新しく生まれる巫子を探すまでの時間が国の存亡を左右するからだ。危険がないか時間をかけて調べられ、許可が出たものをようやく中に入れられるのだ。


 試しに申請した玩具や書物を立憐の目の前に並べていく。首振り人形や左右に動かすと音が鳴る楽器、色のついた絵が載った書。中には、子ども時代に到底手に入れられなかった高価な品物もあった。


 立憐は満砕に促されるままに、近くに置かれた鳥を模した玩具を手に取る。足のつけ根の紐を引くと、両翼がばさりと左右に開く。開いては閉じてを手持無沙汰に繰り返す立憐に、満砕は他のものを一つ一つ見せては試していった。


 大人になって玩具で遊ぶ羞恥は遠くに置いてきた。そう思っていたが、いつの間にか、満砕は造りの優れた品物の数々を喜々として手に取った。


 しかし、明らかに楽しんでみえるのは満砕一人だけ。


 立憐は玩具に触れる動きは取るものの、興味にはつながっていないように見える。村にはなかった高価な玩具でさえも意欲を示す対象にはないようだ。


 見た目は子どもとはいっても、立憐も精神的には大人である。童心に返ってと玩具を並べたが、そもそも「興味・関心」が欠落した状態ではただ行動に移すだけだ。


 ないものから何かを作れないと証明されてしまった。


 ――これは、想像以上に難しいな。


 感情の増やし方の難題を、満砕は痛感する日々だった。


 すぐに諦める満砕ではない。それならば、と思考を変える。


 かつての立憐の喜怒哀楽だけでなく、新たな感情を生みだす方法。新しい物に触れ、景色を見て、未知の味を知る。そこから育むものが必ずあるはずだ。


 巫子は神殿から出られない。庭園はいくつかあるが、それも何人もの神官が監視のように周りにつく。巫子に自由になれる場所などないに等しい。


 屋上はどうだろう。塀の高い屋上ならば、少ない監視の目で済むのではないか。


 吏安に相談しようと歩きだす。段々と道順を覚えだした神殿の通路を進みながら、中庭に出たところで満砕は足を止めた。


 四方を囲まれ、光源はぽっかりと空いた宙の部分だけ。日差しが入る上空と、陰となった下方の陰影を見つめ、満砕の心に一瞬の懸念が生まれる。


 新たな感情を生みだせたとして、はたしてそれは――


「俺が好きだった立憐なんだろうか……」


 新しい感情を知った立憐は、昔の立憐ではなくなるかもしれない。感情が増えれば死なないで済むかもしれないが、その時点で生きている立憐は、満砕が追い求めていた立憐なのだろうか。


 かつて、麦畑の中で顔をほころばせた立憐が頭に浮かんだ。


「満砕殿」


 中庭を見つめ立ちどまっていた満砕は、反対側から歩いてきた吏安の声によって我に返る。


「そんなところで立ち止まってどうしましたか? 巫子様に、何かございましたか?」


「いや……ただ考え事をしていただけだ。問題ない」


「そうですか。それならよいのです」


 片時も離れず立憐のそばにいる満砕が一人であることが、吏安には不思議に思えたらしい。どこかに用事でもあるのか、と首を傾げる吏安に目的が達せられたと伝える。


「吏安に聞きたいことがあって探していたんだ」


「それはお手数をおかけしました。巫子様のためでしょう? 何でもお聞きください」


 揃って奥の間に戻る道を辿りながら、満砕は屋上で夜空を見ることは可能か、食事の変更はどのくらい融通が利くのかといくつもの質問をする。吏安が答えてはまた別の提案をする。それを繰り返すと、「ふふっ」ととうとう吏安は笑い声をもらした。


「何かおかしい点があったか?」


「いえ。いいえ。……ただ、満砕殿は本当に巫子様のことばかりで、それがとても嬉しくなっただけなのです」


 控えめに笑う吏安に、満砕は困惑した。すぐ顔に出る満砕の表情を読みとって、吏安は切なげに瞳を落とした。


「私は、巫子様――立憐様が神殿に入られたときから、ご奉仕をさせていただいております」


「そんなに長くから」


「ええ。先代巫子様のときはただの神官だった私が、初めて仕える主が立憐様でした。だから、最初から最期まで、思い残すことがないようにお仕えしようと張りきっておりました。――今思うと、なんとひどいことを考えていたんでしょう」


 回廊の吹き抜けに風が通り、二人の間を過ぎさっていく。


「立憐様は故郷を思っては、毎日のように泣いておられました。目を真っ赤にさせて、食事も受けつけず、睡眠も満足に取れない状態で、当時の神官長は苦言を吐いておられました。ただ私たちは巫子様にお仕えするだけで、立憐様の気持ちをおもんぱかるまで至れなかったのです」


 満砕が立憐を追いかけて王都に辿りついたころ、立憐は一人で泣いていたのだ。披露目のときには堂々と立っていた姿は、きっと彼にとっては諦めの表れだったのかもしれない。


「あるときを境に、立憐様はお泣きにならなくなりました。覚悟を決めたのか、そのときにはもう、悲しみや郷愁の思いが抜け落ちていたかは存じあげません。けれど、その姿を見守っているうちに、私はようやく事の重大さを思い知ったのです」


 子ども一人に国の守護を任せている現実。神に仕える神官長の吏安でさえ、現実がどれほど非情なのかと悟る。


 吏安が立憐を「巫子」としてではなく、「立憐」として大切に見守っていると、満砕は気づいていた。新しく就いた護衛兵の満砕にも好意的なのは、吏安も立憐を大事に思っているからだ。


 そこに同情や憐憫がないとは言えない。国の重要事項の責任を押しつけていると自覚しているからか、申し訳ない思いをつのらせた結果なのかもしれない。そこに親愛はあって、立憐もまた吏安に気を許しているようだった。


 吏安は陰を落としていた瞳を開き、高い位置にある満砕を見あげた。目を細め、どこか切なそうな声を出す。


「だから、神殿に、立憐様のそばに、あなたが来てくれてよかった。立憐様が一人にならないでよかった。どのような結末を迎えたとしても、あなたがそばにいてくれたことには変わりませんから」


 そう言って微笑んだ吏安の目元には、うっすらと涙がにじんでいた。


 吏安は神殿に仕えている期間が長いゆえに、「最期」の覚悟をしている。どれほど無視をしたくとも、立憐には万人よりも早い死期が近づいている。


 いつかのための覚悟を決めなくてはならないと分かっていても、満砕はまだその先を考えたくはなかった。



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