目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第二話

 巫子の住まう神殿に迎えられ、神官に案内される道中、満砕はどくどくと脈打つ心臓を抑えながら石畳の上を進んだ。厳かな雰囲気が漂う神殿内は、元平民の地位では決して立ち入れない場所だ。どうしても感慨深くなる心情のせいか、余計に空気を重く感じる。


 謁見の間に通され、一人その場に待たされる。しばらくして、奥から騒がしい音が近づいてきた。耳障りな怒声はけたたましさを増していく。


 巫子に仕えている証である白い服を着た者たち。神官に押されて出てきたのは、でっぷりと肥えた中年の男だった。ごてごてとした厚手の服装と、これでもかというほどつけられた装飾品を見る限り、相当の金持ち貴族のようだ。


「私を誰だと思っている⁉ おまえたちがうまい飯を食えているのは私のおかげだぞ!」


 神殿内に怒鳴り声を響かせる。汚らしく唾を飛ばす男に、面布で顔を隠した神官の一人が淡々と反論する。


「当然の行いです。巫子様に貧相な食事を摂らせるおつもりですか。巫子様はこの国の宝ですよ。貴殿こそ、献栄国が今もなお平和でいられるのはなぜかご存知ですか?」


「お、おまえ、誰に意見している⁉ 私はおまえらよりも地位が高いのだぞ!」


「私どもの主人は神であり、神の使いである巫子様です」


 言い返された貴族の男は顔を真っ赤にさせて、体を震わせた。


「このっ! どうせ余命幾ばくかの巫子のくせに調子に乗りやがって!」


「巫子様への暴言、とくと聞きとりました。このことは必ずや御上に奏上いたします」


 はっきりと言いきった神官の言葉に、真っ赤だった顔は一気に青白くなっていく。貴族の男に二の句を継がせる前に、神官は容赦なく「連れていけ」と命じる。衛兵はためらいなく男を担ぎあげ、神殿の外に追いだした。


「お待たせいたしました」


 一人残った他とは服装が異なる神官が、満砕に拱手の礼をとる。


 巫子と同じ性別の者が従事する決まりのため、彼は男であるはずだ。満砕の胸の位置までしかない小柄で線の細い男である。黒い髪に青い瞳は献栄国の民の特徴が表れており、顔の下半分が面布によって隠されているため、年齢や容貌の判断はつきにくい。


「神官長、吏安りあんでございます。見苦しいところをお見せいたしました」


「護衛の任に就く、瓏満砕だ」


 満砕も礼を返してから、「今の男は?」と尋ねた。


「巫子に目通りしたいと、無許可で神殿に侵入した愚か者です」


 神官はさらりとした口調で言いきった。


「ご案内いたします」


 話はこれで終わりだというように、神殿の奥を指し示す。巫子の余命の話について詳しく聞きたかったが、吏安は無駄のない動きで先に歩きだしてしまった。満砕は携えた剣を押さえ、あとを追った。


 神殿の内部に入るにつれて、全身に圧がかかる。石造りの建物がいっそう空間を圧迫しているのだろう。寒々しい空気が廊下に流れ、肌をしっとりとなでていく。昼にもかかわらず屋内は暗く、等間隔に松明が灯されている。神殿には神官が何人もいるはずだが、人の気配はまったくといってなかった。


 いくつの廊下の角を曲がっただろう。迷路のような神殿の造りに、満砕は目を回しそうになる。一人で最初の謁見の間に帰れる気がしなかった。神殿、それも巫子の住まう部屋が、この国で安全な場所と言われている理由が分かる。


 冷たい床に吸いつくような足底に、緊張も相まって飲みこまれてしまいそうだ。空間の重圧だけではない。もし、立憐が自分のことを忘れてしまっていたら。そう考えるだけで進む足を止めてしまいそうになる。


 それに加えて、さきほどの貴族の男の台詞が気になった。先が長くはない巫子。その噂は軍部にいた満砕の耳にも入ってきていた。「次代の巫子が決まるのも、そう遠い話ではないだろう」と上官が話していた。


 いったい、立憐の身に何が起きているのか。満砕が知っていることは、二人の間に流れている時間は同じでも、立憐の体の成長が遅れていることだけ。


 赤い敷物に覆われた通路に出ると、その奥まった先には閉じられた大きな扉があった。張り詰めた神聖な空気が漂い、おのずと神殿の主の住まう部屋なのだと悟る。


「さきほどの言葉は直接的でしたが、間違いではないのです」


 唐突に、吏安は声を発した。無機質かと思っていた声音には、幾分か感情が込められていた。それは、おそらく憐憫に似ている。


「どういうことだ?」


「あの男が言っていたでしょう。巫子様の余命の話を」


 面布で見えない顔が、しかめられた気がした。吏安は貴族の男の発した言葉に嫌悪感を示した上で、溜まった鬱憤をどこに吐いたらいいか分からないような息を吐いた。


「本当に、巫子様は――」


 せり上がってくる何かを呑んで、満砕は足に力を入れた。もしかしたら、自分は間に合わなかったのではないかと恐怖感に襲われる。


「会っていただければ、いやでも分かるでしょう」


 満砕の心の準備など知らず、吏安は無情にも扉に手をかける。重厚な音を立て、扉は両側に開いていった。縦一線の視界が、段々と広くなっていく。その先は透けた布に遮られている。


 幾重にもなった薄絹の垂れ幕の向こう側。薄暗い室内は数本の燭台による明かりしか頼りがない。吏安の辿る道を進んでいくと、最奥には垂れ幕に隠れるようにして寝台に似た大きな椅子が鎮座していた。


 肘置きにもたれかかり、力なく腰かけている人形があった。十にも届かない、小柄な子どもの人形だ。髪は玻璃のきらめきを持ち、蜘蛛の糸のごとく細長い。流れた一本一本の髪の毛が肩にかかって、椅子の面に広がり落ちている。頭部は数珠繋ぎとなった宝石の髪飾りによって彩られている。


 花糸の細さを持つ睫毛の奥に隠された薄紫色の瞳は、商人が自慢していた紫水晶よりも美しい。感情の一切が込められていない瞳が宝石らしい。肌は白く、陶器のようななめらかさで光を弾いている。


 平民が一生で稼ぐ金よりも高級だと一目で分かる白地の衣服は、燭台の明かりによって七色の輝きに反射している。人形は異質なほどに精巧で、神に捧げる偶像に似合いである。


 だが、満砕はそれをただ「美しい」と拝めなかった。


 その人形を知っている。


 そのあどけない顔を知っている。


 人形――その人を、満砕はずっと追い求めてきた。


 自分を忘れてしまっているかもしれない、という怯えは消えていた。その次元ではないと知ってしまった。


 ――立憐……立憐!


 人形のように硬直し、生気を感じさせない友は――記憶と同じ、、、、、幼い姿のままだった。太陽の陽を溜めた真っ黒だった髪色は、銀糸のような白髪へと変貌し、空の色をした青い目は無感動な紫をしている。あまりにも似つかない容姿だったが、顔形は面影を残したままだ。


 かつての彼は眉を困らせ、怯えのある顔を浮かべていても、満砕を見つけるといつも笑顔を絶やさなかった。満砕の目の奥には今もその笑顔が張りついている。


 目の前の友に一切の表情が見られなくとも、満砕が見間違えるはずはない。


「満砕殿、巫子様にご挨拶を」


 吏安の声にはっと我に返る。念願の立憐との再会に感極まり、抱きしめたい思いを抑えこむ。ぐっと歯を食いしばり、満砕はその場に膝をつき礼を構える。


「献栄国の宝に、お目にかかれて光栄にございます。瓏満砕、身命を尽くして巫子様に忠誠を誓います」


 覚えたままの建前の口上を述べ、巫子からの返答を待つ。しかし一向に待っても、巫子は言葉を発しない。吏安に隠れて目を上げれば、巫子は満砕を視界にさえ入れていなかった。


 どこを見ているのか定かでない目は、焦点が合っていない。吏安が「……巫子様」と促しても返事はない。本当に人形のようにたたずむ彼に、満砕は我慢の限界だった。


「失礼」


 端的に一言だけ告げて立ちあがる。吏安の制止の声と腕を無視して、満砕は立憐のすぐそばにしゃがんだ。間近に迫った満砕にも、立憐は微動もしない。浅い息しかしていないのか、呼吸の音さえ聞こえない。


 満砕は想像よりも小さな手をそっと取る。手入れの行き届いたすべらかな手をぎゅっと握り、立憐を見あげた。


「立憐、久しぶり」


 ずっと、ずっと言いたかった。


 兵士に連れていかれ、悲鳴を上げる立憐が去っていくのを、気を失う寸前まで聞いていた。ようやく、再び立憐と会うことができた。


 姿が変わっていても、年が変わらなくとも、目の前の者が立憐であることには変わりはない。


 ここに来るまで随分と待たせてしまった。一人にしてしまった。悔いがなかったとは言わない。だが今は、会いたかったとただそれだけを伝えたかった。


 立憐の睫毛がにわかに揺れる。一瞬だけ目が見開かれ、かくんっと首が振られると、虚空を見つめていた焦点が満砕に合う。満砕を直視した立憐は、空気を呑んだ。


「……ばん、さい?」


 いったいいつから声を発していなかったのか。見た目に反して嗄(か)れた声音に、満砕は涙が止まらなかった。


 覚えていてくれた。十年も経った今も、かつての親友の名を覚えてくれていた。込みあがる涙を笑顔に変え、握りしめた手をいっそう強くした。


「ああ、おまえの友の満砕だ。巫子の方じゃなくて、『立憐』の唯一無二の友だ。俺を、覚えてくれているか?」


 光の宿らない目、笑い皺の消えた目元、あのころと変わらない容姿のはずが、変わってしまった部分は多い。立憐の当時とは違う点が際立って目立つものの、変わったのは立憐だけではない。満砕も成長して、昔の見た目とはほど遠い。


 二人とも姿は変わってしまったが、お互いが唯一の友にちがいなかった。


 ぎこちない動きで腕を上げた立憐は、片方の手で満砕の顔に触れる。ぺたり、ぺたりと力なく触れる手は、まるで目の前にいる満砕が現実のものか確かめているかのようだった。硬い腕を動かすような拙い動きの手は、段々と確信に至っていく。


「満砕……満砕……」


 何度も何度も名前を呼ばれる。その一つ一つに満砕は呼応した。視界を鮮明にするために涙を頬に落とし、立憐の姿を見つめ続ける。


 すると、立憐の感情のこもらない瞳からも、水晶のような透明な涙がこぼれ落ちた。表情はないものの、その白い頬に涙がつうっと伝う。


 背後で吏安の息を呑む音が聞こえてきた気がしたが、それも立憐の次の動きに頭から抜けていった。


 立憐は満砕の頭を抱えるように抱きしめた。大切なものから、もう二度と離されないように。乱暴とも受けとれるほど余裕なくかき抱かれる。


 小さな子どもの体は冷たく、その胸板の薄さもあって頼りない。だが、息さえも浅かった立憐の鼓動は、息を吹き返したかのようにどっくん、どっくんと強く命を主張していた。


 壊れたように名前を呼び続ける立憐に、満砕も応えて抱きしめ返す。


「立憐、会いたかった。一人にして、ごめんな」


 抱きつく力を強めれば、立憐は自身の腹にいっそう強く満砕を抱えこんだ。頭上で横に首を振った動きを感じとる。立憐が満砕の言葉を否定しているのだ。謝るな、と言葉にしないでも伝わってくる。


 顔を上げ、立憐の頬を節だった手で包みこむ。立憐の頬は涙で濡れていた。しかし、表情は友の再会にも、一切の変化を見せていなかった。体は衝動のまま動くのか、満砕に触れようともがいている。心と体が一致していないのだろう。


 再会は喜ばしいと感じているのに、嬉しいと感じる部分が欠損している。それがもどかしいとばかりに、立憐は満砕の服を強く握りこんだ。




 吏安はいつの間にか姿を消して、奥の間には満砕と立憐の二人だけとなっていた。


 隣り合って椅子に腰かけた満砕は、立憐の護衛になった経緯を話した。口数は少ないものの、立憐は満砕の言葉に必ず反応してくれる。献栄国の将軍の養子になったと告げると、一瞬だけ眉尻をぴくりと動かした。


「武功もたくさん上げたんだ。大王様から直々にお言葉ももらってな。ここに来るまで長い時間をかけちまったけど、おまえに会うために、会いたかったから俺、俺……」


 頑張ったんだ、と言ったところで恩着せがましい。褒めてくれとも違う。満砕は立憐に褒めてほしくてここに来たわけではない。


 昂った気持ちをゆっくりと落ちつかせ、満砕は最も伝えたかったことを思いだす。


「おじさんとおばさんな……おまえのこと、ずっと待ってる」


 握り合った手がびくりと震える。相変わらず感情の分からない目が揺れている気がした。


「村を出て、夏陀将軍のところに居座ってから、文のやりとりをしてるんだ。神殿に二人を連れてくることは、今の俺にはできないけど、文なら届けられると思う。だから――」


「いらない」


 泣いて喜ぶと思っていた。だからこそ、立憐の拒否は予想外で、満砕は間抜けな顔を晒してしまう。立憐は手を振りほどき、下を向いたまま淡々とした口調で再び拒絶する。


「ど、どうして……」


 目の前が真っ暗になって、前髪をかき上げる。ぐしゃりと潰した前髪の向こうで、立憐は視点を合わせてくれなくなった。


「……文を交わしたとして、なんと言えばいい」


 発し慣れてない声は震え、ときおり裏返りながらも言葉を紡いでいった。


「なんと言えばいいんだ。神殿で幸せに暮らしている。お役目をこなせている。国のために生きられて嬉しいとでも? そんな見え透いた嘘を吐けと?」


 力強く白髪を握り、下に引っ張る。立憐は手入れのされた髪を握りしめながら、声変わりのしていない声で絞りだすように発する。


「僕の姿を見てよ」


 十年前と姿は変わらないが、髪は真っ白。目の色も違う。年を取らないなんておかしいだろ、と言わんばかりに、自分の姿を自嘲する。


「ここでは誰もおかしいと言わない。でも、誰よりも、鏡を見た僕がおかしいって思ってる。あなたたちの息子は人間じゃなくなったんだと、そう書けというの?」


 悲鳴だと分かっているのに、立憐の声に色はなく、どこまでも単調だった。声に感情が乗っていない点も、立憐が自分を「人間じゃない」と形容している一つだった。


「今ではもう、両親になんと文を書いたらいいか分からない。どんな気持ちで文を読めばいいか、分からないんだ。――だから、いらない」


 きっと、この言葉は本音ではない。喉から手が出るほど、両親との繋がりを欲しているはずだ。


 だが、文を書くとき、筆を持ち、紙を見つめながら、立憐は止まってしまう。何刻も同じ体勢で、文机の前に座ったまま動けなくなってしまう。報告書のような内容を書いて、はたして両親はこの文を喜ぶだろうかと考えて、立憐にはその判断がつかない。


 なぜ落ちこんでいるのか、「落ちこみ」という感覚が体は分かっているのに、心が分かっていない状態に立憐は悩む。苦しむことも許されないまま、疑問だけが残るのだ。


 自分の考えなしの提案で立憐を傷つけてしまった。立憐は傷ついたことも自覚できないというのに。


 立憐は目線を下に落としたまま、「それに」と言葉を続けた。


「それに、僕の方が早く死ぬ。……分かるんだよ。僕の中にはもう、感情がないに等しい。段々と人形に変わっていく恐怖さえ、最近は緩慢だよ。君に会えた喜びの灯だけで、僕は今生きていられてる」


 感情が段々となくなっていく感覚を、満砕は推し量れない。立憐に残った欠片の感情にすがるしかない。


 だったら、と満砕は思いつきのまま立憐の腕を掴んだ。


「それなら感情を育むこともできるんじゃないのか?」


 髪を掴んでいた立憐の手は、ゆっくりと力を失っていった。驚いたような瞬きのあと、立憐は首を傾げる。


「なくなったんなら、最初からやり直せばいい。また思いだせばいいんだ」


 目を閉じて、見開いて、立憐は満砕を見つめた。満砕はなぜか嬉しくなって、力強く声を上げた。


「一緒に、感情を取り戻そう!」


 立憐の腕を掴んだまま、体を引き寄せる。


「俺とおまえなら、どんなことでもできるさ」


 はっきりと宣言して、その通りだと、自分の中で後押しがついてくる。


 立憐は無表情のまま呆け、満砕を見つめ続ける。喜々として感情を取り戻す方法を思案する満砕に、立憐は小さく頷きだけを返した。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?