琉架や夏陀の部下たちは翌日も約束通り、満砕の特訓に付き合ってくれた。素振りは千回から日ごとに数が増えていった。「泣き言をいつ言うか」と兵士らが賭けをしている横で、満砕は懸命に竹刀を振り続けた。
朝のうちに任された雑務をこなし、家僕たちから声援を送られて、武道場に通う。琉架たちが遠征で姿が見えない日もやることは変わらない。彼らが帰ってくるまで一人でも訓練に勤しんだ。
「随分と様になってきたね」
「ほんとか!」
遠征から帰ってくると、剣術においてめったに褒めない琉架が、満砕の乱れのない素振りを見て言った。表情を華やかにすると、さらに極めようと鼻息を荒くして挑む。
「瓏将軍も、前より型がしっかりしてきたなっておっしゃってたよ」
「しょ、将軍が⁉ いつ、どこで⁉」
本来、夏陀の弟子になることを目標としているため、竹刀を下げて詰め寄った。琉架は興奮した様子の満砕を腕で遠ざけながら、武道場の扉に視線を向ける。
「ほら、今も見ていらっしゃるよ」
「え⁉」
驚愕とともに振り向くと、夏陀の後ろ姿が屋敷の奥へ消えていった。せっかくの機会を失って、満砕は唇を尖らせた。舌打ちをすると、琉架はくすくすと笑って肩を叩く。
「満砕のここでの特訓は許されてるんだ。気長にいきなよ」
優しくなぐさめた口調のあと、琉架は「それじゃあ、次は二千回頑張ってね」と、さも簡単そうに告げてきた。唇を前に尖らせる満砕に、琉架も周りの男たちも愉快げに笑うのだった。
型にはまった素振りをひたすら行い、季節が一つ移ろうころに竹刀が木刀へと変化する。その間も夏陀へ接触しようと奮闘した満砕だったが、夏陀はこの国の将軍だ。他国との戦や王族の護衛と忙しく、そもそも屋敷内にとどまる方が少なかった。
剣だこが硬くなったと言えば、「熟練の剣士の手は硬くなるだけで、たこはできない」と兵士たちに笑われる。背が伸びたと言えば、「俺の胸にも届かないだろ」と家僕の男につむじを押される。屋敷では誰よりも年少の満砕は、からかわれながらも兵士や家僕たちに支えられながら、毎日地道に剣の腕を磨いて成長していった。
夏陀と接近する機会をうかがっているうちに、さらにまた季節と年が変わり、満砕は真剣の重さを知る。
「木刀と全然重さが違うだろ? この重さを忘れるなよ、満砕。戦場ではこれを持って駆け回る。最後まで剣を持っていた者が勝者だ」
剣を貸してくれた男は、真剣の重さに顔をゆがめる満砕の頭をなでた。無骨な手は子どものなで方を知らない。満砕はその乱暴な手つきが嫌いではなかった。
その男は、翌年の隣国との争いに赴き、仲間を庇って命を落とした。彼に命を救われた仲間は男の剣を持って帰ると、「形見分けだ」と言って満砕の目の前にかかげた。
「あいつの仇を取れなんて言わない。仇を取るのは俺らの役目だし、そもそも負の連鎖に意味はないんだ。あいつはおまえを気にかけていたからさ、この剣でおまえのしたいことを成し遂げてくれよ」
瞳を揺らす仲間の兵士から、男の訃報を聞いて目を充血させるほど号泣していた満砕は、両手で剣をもらい受けた。その重さを、満砕は生涯忘れないだろう。
素振りだけでなく、体幹を鍛える鍛錬を始めた。どれほど崩れた体勢であっても、素早く起きあがり、敵の急所を狙えるように。兵士の特訓の片手間に、打ちこみの体勢から勢いよく突撃する。兵士の動きは速く、あっという間に地に転がされる。「早く立て!」と怒鳴られ、何度も何度も打ち合って転がされては、すぐに姿勢を立て直す。気づけば体中が痣だらけになっていた。
医療担当の家僕に手当てを受けるたび、「まだやめないのか?」と憐れみの目を向けられる。
「俺が決めたことだから」
決まって答えるたびに、満砕自身がその言葉にはっとさせられる。つらい鍛錬は自分が自分に課したこと。誰かに命令も、強制されてもいない。自分がどれほどの自由にいるかと再確認して前を向き続けた。
前日に打った頭に大きなたんこぶができたため、琉架からその日の鍛錬を禁止された。強く反論したものの、「頭の傷を甘くみるな」と諭される。それ以上、文句は続けられなかった。最初から面倒を見てくれている琉架に、満砕は頭が上がらない。
「他のみんなに仕事をもらいに行ったらだめだからね」と、満砕の行動は琉架に先読みされる。彼の言う通り、家僕らに仕事をもらおうと心の中で考えていた満砕は、強制的に一日の休息を命じられたのだった。
不満を顔に張りつけて、屋敷を歩く。屋敷にいるかもしれない夏陀に会うため、執務室に向かうつもりだった。
中庭を通り抜けようとしたとき、ささやかな音が鼓膜を震わせた。耳を澄まさなければかき消えてしまいそうな、鈴を鳴らすかのような音だ。それは流れるような旋律で、まるで子どもを寝かしつけるための歌だった。
歌に誘われるまま、中庭の奥へ奥へと入りこむ。この柔らかな真綿にくるまれるかのような音に吸い寄せられる。切なくも優しい歌。近づくにつれて聞こえてくる歌詞は、異国の言語であった。透き通る聞き心地のいい音は、満砕の心を刺激した。
今すぐ歌をうたう主にすがりついて、泣きわめいてしまいたかった。
大好きな存在がそばにいないのだと。立憐はもっと心細いだろう。そのことを思うと、心臓をかきむしりたくなるのだと。このあとどうすればいいのか、暗い闇に足をすくわれそうになるのだと。
満砕は拙い足取りで、歌のもとに引きこまれていった。
普段は行くことのない屋敷の南側に面した中庭に、慎ましやかに建てられた
献栄国では見たことのない、金色の長い髪。麦の穂に似た明るい色だ。差しこんだ日が髪に当たると、きらきらと輝きを増す。烏の羽の色をした自分の髪とは大違いだった。
じゃりっ。満砕が砂利道に踏みこんだ足によって、流れるような歌はやんでしまう。ゆっくりと振り向いた顔は、やはり献栄国の民とは雰囲気が異なっていた。
――綺麗な人だ。
呆けたまま、素直な心情でいっぱいになる。
金の髪色を持つ女は、満砕の姿を目に捉えると、薄い桃色の唇を柔らかく上向きにさせた。手に持っていた裁縫道具を机に置くと女は袖を抑えて、おもむろに手招きした。
導かれるままそばに寄り、なぜかひどく悪いことをしているような、居心地の悪さを感じた。
「ここに人が来るのは珍しいわ。どうしたの? 道に迷ってしまったかしら?」
異国の歌を歌っていた女の口から出た言葉は、献栄国の言語だった。歌と変わらない彼女の穏やかな声は、記憶の底に眠らせていた母を思いださせた。すぐにでも膝に飛びついて、甘えてしまいたいような、泣いてしまいたいような思いがふくらむ。
唇を噛んでそれを耐え、大げさに首を横に振った。体は変に緊張していて、ぎゅっと自分の服の裾を掴んだ。
「あなたは、もしかして満砕?」
「……俺を知ってるの?」
女の口から自分の名前が出るとは思いもよらなかった。初対面である大人の女性への礼儀も忘れて、驚きのままに尋ねた。
「そう。あなたが満砕なのね。夏陀から、話は聞いているわ」
屋敷の主人の名にいっそう目を見開いた。
女は座っている横の開いている部分を軽く叩いて、「こちらにいらっしゃい」となおも勧めてきた。誘いを断れる勇気はなく、花の蜜を吸う虫のように大人しく従う。
彼女の隣に腰かけると、ふわりと優しい花の香りが鼻をくすぐった。
「夏陀が会わせてくれなかったから、あなたから会いに来てくれてよかったわ」
目を細めて微笑む女が、満砕にはまぶしくて目を瞬いた。
「あなたは、誰?」
不思議な夢を見ている心地のまま、たくさんの疑問の中から一つを選択した。
女は一瞬だけきょとんとしてから、また優しげに口角を上げた。
「自己紹介がまだだったわね。私は
「将軍の奥さん?」
あの野性味あふれ気骨のある男の、細君。可憐という言葉が似合う悠都は、とても軍人の妻には見えなかった。
悠都の体は細く、肌は透き通るほどに白い。たおやかな芍薬の雰囲気がある彼女の横に、威圧感の強い夏陀が立っている姿が似つかなかった。
「将軍の奥さんが――」
「悠都、って呼んでちょうだい」
「……悠都様が、さっき歌ってたのって、なんて歌?」
「この歌?」
悠都は長い睫毛を下げて、すっと息を吸いこんだ。
《 道端に咲く花を
母に届けに帰りましょう
母は喜ぶかしら
笑顔を向けてくれるかしら
日が暮れていく
鳥が巣に帰っていく
優しい温もりに
早く包まれてしまいたい 》
異国の言葉を献栄国の言語に直して、悠都はのびやかに歌った。帰路を急ぐ子どもの情景が、満砕の頭の中に広がっていく。
一節を歌い終わり、悠都の青い目に見つめられる。「いい歌だ」「素敵だった」とあふれるままに感想を言った。もっと秀でた言葉で伝えたいのに、満砕の持ち合わせる語彙力では形容できない。
悠都は喉をさすって声を落とした。
「私の祖国の子守歌よ」
「祖国の……。俺でも知ってる国?」
特に考えずに尋ねた質問に、悠都は目を伏せた。
「いいえ。今はもう存在しないの」
それは切ない声だったが、悲しみを伴ってはいなかった。悠都の中で整理のついた記憶を呼び起こしてしまったと気づき、満砕の中に罪悪感が広がっていく。
どうにかして悠都を元気づけたい一心で、「じゃあ、俺に教えて!」と弾けるように言った。急に大声を出したからか、悠都は元から大きい目をさらに見開く。
「悠都様以外に覚えている人がいれば、祖国の歌を継いでいけるでしょ!」
満砕は自分が発した提案が、かなりの名案だと思った。
だが、驚きで目を大きくさせた悠都が固まってしまい、とんでもない失態を犯してしまったのではないかと不安になる。
悠都は目をぱちぱちとさせると、やがて眉と目尻をゆるやかに下げた。
「嬉しいことを言ってくれるのね。あなたはいつもそうなの?」
「そうって?」
「誰かのために一生懸命になってしまうみたい。満砕はつらくない?」
案じるような瞳に、満砕は息を呑んだ。膝の上に置いたこぶしを力なく握る。
思い浮かんだのは、立憐のこと。追いかけても、掴めない友の手。こちらを振り返ってくれない友が、今何を考えているのか分からない。それが、今一番恐ろしい。
「つらくないって言ったら、たぶん嘘になる。つらいって思ってる自分も、たしかにいるんだ」
友は、満砕を必要としていないかもしれない。運よくそばにいけたとして、満砕ができることなんてたかが知れている。
自分にできることを探しているが、そのようなものはこの世に存在しない。その事実を突きつけられたら。
満砕はそのとき、本当の意味で足を止めてしまうかもしれない。
「けど、つらいのは俺だけじゃないから」
立憐は、きっと泣いている。
「俺よりももっと、つらいはずだから」
満砕も、父も母もいない神殿で、一人心細さを抱えている。
ずっとそばにいたから、満砕には分かる。
「一緒にいたら、つらくなくなると思うんだ」
つらさを半分ずつ分け合えば、空いたもう半分は優しさで埋まる。満砕は立憐と一緒にいて、村人たちに育てられて、その温かみを知っている。
「夏陀が、あなたに会わせてくれなかった理由が分かったわ」
心臓が飛び跳ねた。こぶしを解いて、服の裾を握って責めの言葉を待つ。
悠都は満砕の頬にそっと手を当てた。恐る恐る開いた目の先に、優しい青い瞳が入りこんだ。
「あなたといると、あなたのことが好きになっちゃうから。きっと夏陀も、近いうちにあなたのことを無視できなくなるわ」
これは予言よ、と含み笑いをする悠都に、ぽかんと呆けてしまう。
そうだったらどれほどいいか。満砕が今まで夏陀に会えずにいるのを、悠都は知らないから言えるのだ。
困ってしまった満砕に、悠都は語りかけるように歌いだす。
《 丘の向こうの宝物
あなたとの出会いを祝福して
一緒に手を握りましょう
同じ道を歩きましょう 》
異国の曲調ながら、歌詞は満砕でも分かる言葉だ。「丘の向こうの宝物……」と、口の中でつぶやく。その一節が、なぜか満砕の胸に響いた。
丘を越えた先に、満砕と立憐の暮らした村がある。「宝物」はまさしく、二人の故郷だ。
悠都の白い手に手をすくわれ、満砕ははっと彼女を見あげた。
「一緒に歌いましょう。覚えてくれるのでしょう?」
あまりにも悠都が嬉しそうに笑うため、満砕も自然と同じ表情になる。
悠都に続いて歌詞を紡ぎ、歌声を合わせて流れるように風に乗せた。二人は時間も忘れて、何曲も何回も歌い続けた。
一人で歌いあげると、悠都は心の底から喜びを表すかのように笑う。その顔が嬉しくて、満砕は「次の歌を教えて!」と促した。
「悠都っ!」
物覚えは悪くない満砕が気にいった歌を完全に習得したとき、悠都の夫である夏陀が砂利石を蹴るようにこちらに駆けてくる。
「あら、夏陀。もうお仕事はいいの?」
いつも威風堂々とたたずんでいる夏陀が、慌てた様子で悠都の前に立った。
「いつから外にいるんだ? また体を壊したら――」
「今日は暖かいから大丈夫よ。それに、今とっても気分がいいの」
言い負かされた夏陀は眉間に三本も皺を寄せて、口をへの字につぐんだ。怒るよりも心配が表にあふれ出ている夏陀の様子に、満砕の焦りも大きくなる。
「どこか具合が悪いの? 俺、長く歌わせちゃって……」
「気にしないで、満砕。ちょっと体が弱いだけなの。夏陀は心配性なのよ」
優しい人でしょう、とさりげなく惚気をする悠都と、さらに眉間に皺を寄せる夏陀を交互に見て、満砕は押し黙った。
「ねえ、夏陀?」
外からまっすぐにこの四阿に来たのか、夏陀は外套を羽織ったままだった。悠都は外套の裾の端を掴むと、夏陀の顔を覗きこむように見あげた。
「お願いがあるの」
ごくっと唾を飲みこんだ夏陀の喉音が、満砕の方にも聞こえてきた。夏陀は奥歯を噛みしめたような声で「……なんだ?」と問う。
「私、満砕をとても気にいったの。この子を私たちの養子にしましょう」
突然の進言に満砕は目を剥いた。悠都と二人きりであれば、彼女にどういうことかと詰め寄っていただろう。
「……こいつはただの家僕だ」
「元食客でしょう? それに、部下との鍛錬も許していると聞いたわ。あなたにしては珍しいほど待遇がいいわね。そうしたくなる気持ち、短い間だけど私も分かるわ」
「それとこれとは……養子なんて、平民の子を瓏家の名に連ねさせるわけには」
「瓏家も元を辿れば、武勲によって名を上げた武家でしかないわ。そう教えてくれたのはあなただったはずだけど?」
「しかしっ!」
「ねえ、夏陀」
声の調子を落とした悠都は、笑みの中に切なさを込めた。
「私はあなたの子を産んであげられるか分からない。だったら、満砕みたいな子を、あなたの跡継ぎにしたいわ」
射貫くような悠都の目が、夏陀に刺さった。その視線を真正面から受けとめる。しばらく見つめ合っていた二人は、夏陀が視線を逸らすことで終わりを告げた。
きつく寄せられた眉を親指で押し、夏陀は沈黙する。心配がふくらみ続ける満砕を安心させるように、悠都が笑いかけてきた。
「――満砕」
夏陀に呼びかけられ、素早く顔を上げる。満砕は今まで自分が座ったままだったことに気がつき、慌てて立ちあがった。背筋を伸ばして見あげる満砕に、夏陀は頬をかきながら、しかし言葉ははっきりと口にした。
「俺たちの子になるか」
夏陀は満砕が弟子になりたい理由を理解しているはずだ。にもかかわらず、弟子よりも、さらに立場のいい養子にしてくれるという。おそらく、満砕の事情を悠都も知っているのだ。だからこそ、願いを叶えられる状況にしてくれようとしている。
夏陀から顔を逸らし、悠都を見つめた。悠都は変わらない優しい笑みを浮かべている。
この雰囲気の異なる夫婦の子になる。そのことに、満砕は少しの不安も感じていなかった。
再び見あげた先の鋭い目に、満砕は大きく声を張った。