二つの月が経過すると、足のひびは完治した。琉架の介助と医者の良薬のおかげもあって、感覚を掴んでしまえば歩行も可能となった。
療養の間、満砕は夏陀の気配を察知するたびに「弟子にしてくれ」と叫んだ。そのためか、夏陀は満砕の周りに姿を見せなくなってしまった。
将軍の弟子という箔をつけることで巫子の護衛に選ばれる道。その方法しか満砕にはなかった。頼みの綱に夏陀を選んだが、夏陀は弟子を取るつもりはまったくないようだった。
――なんで将軍は俺を無下にしないんだろう?
どこの村の子どもかも知れないガキなど、屋敷の外に放ってもいいはずだ。それこそ外城壁で見放したてもよかったのだ。怪我の治療を施され、歩けるようになった今、満砕は夏陀の保護下でいる必要もなくなってしまった。
そう気づいた満砕は、屋敷にいてもいい価値を自分に作らねばと考えた。
琉架からは走るなと注意を受けていたが、つまりは走らなければ何をしてもいいということだろう。屋敷の主からも勝手にしろと言われている。地に足をつけると、まずは家僕の姿を探した。
「仕事を分けてほしいんだ」
主人である夏陀の食客とされていた者に、突然「仕事がほしい」と言われた家僕はたいそう慌てた。発言した当事者である満砕はその様子に、順序を間違えたのだと苦い顔を浮かべる。
家僕は困惑しながらも、満砕の世話と、夏陀への伝令役を務める琉架に確認を取った。琉架は満砕の突飛な行動に頭を抱えた。
「君は今、一応でも瓏将軍の食客なんだよ? 怪我が治っても、将軍の慈悲で庇護下にあるんだ。その意味を分かってるの?」
「分かってる。だからこそ、ただ飯食らいの居候でいたくないんだ」
「主人の客に雑事をさせられるわけないだろう」
「俺は平民だ。身分は元から低いんだから、気負う必要はないはずだろ?」
「そういうことじゃないんだけどなぁ」
さらに頭が痛いとうなる琉架だったが、少しも譲るつもりはないと分かると、最終的に折れてくれた。夏陀に許可をもらいに行くと、「好きにさせろ」と投げやりに言われたと報告する。こうして、満砕は仕事を得たのだった。
子どもにできる仕事など限られている。掃除と洗濯、炊事の下処理など、一つの仕事が終わればまた次の仕事を与えられる。
朝から晩まで働いて、「今日はもう上がっていい」と言われるまで体を動かした。部屋も客用から家僕らが寝泊まりする大部屋に変わり、親しくなった家僕たちからは「なぜ恵まれた待遇を自分から放棄したんだ」と呆れられた。満砕からすれば、雑事をこなしている方が性に合っているのだが。
「それに、ただ意味もなく働いてるわけじゃないんだ」
「ああ? 仕事に意味も何もねえだろ。俺たちは働いて金をもらうだけだぜ。ここはいい。旦那様のおかげで待遇はいいし、飯も寝床も与えられる。それで十分だ」
満砕より二十も年上の家僕は、満足そうに安酒をあおった。彼らのここでの生活を否定するつもりはなく、頷いた上で自分の主張を口にする。
「俺はなりたいものがあるんだ。そのために将軍の弟子になる必要がある。けど、将軍には会えないし、ここにいつまでいられるかも分からねえから」
「食客から家僕になったら、いっそう会えなくなるんじゃねえか?」
壮年の別の家僕にそう言われ、きょとんとすると目を見開いた。
「それもそうだな!」
家僕たちは幼い思考だと笑って、満砕の頭を豪快になで回した。
「そういう考えなしなところもおまえのいいところだぜ。おまえのおかげで俺らはだいぶ楽をさせてもらってる。ちゃんと仕事をこなすし、思った以上の働きをする。おまえがよけりゃ、ずっとここにいてほしいくらいだ」
「おいおい、じぃさん。こいつにはやることがあんだよ。俺らはそれを応援しようぜ」
家僕の大人たちに代わる代わる頭をなでられ、満砕は故郷の集落で可愛がられていたことを思いだす。変わらない人の温かみに触れ、寂しさと心地よさの両方を感じた。
居候でいるわけにはいかないと焦った結果だったが、家僕の仕事自体は悪くない。怪我で弱った体は完全に回復し、家僕たちから請け負う仕事も難易度が上がっていった。言われた以上の仕事ぶりを見せると、彼らは「みんなには内緒だよ」と言って少し長い休憩をくれるのだ。それがどの家僕も同じであるため、一つの仕事を終えると休憩時間、その次もまたといった傾向ができあがっていった。
時間ができると、満砕は周りの大人の優しさに甘え、武道場に向かった。屋敷の表門の近くにある立派な建物からは、男の野太い声が響いていた。木刀を打ち合わせる音、足を踏みこむ音が建物を揺らすほど重なり合う。
瓏将軍の配下が鍛錬する場所なのだと、家僕は言う。武術を習う地位になかった満砕は、惹かれるままに武道場を覗いた。
今まで経験してこなかった世界が広がっていた。血気盛んな命の取り合い。鍛錬と分かっていても、鬼気迫った戦いに目が離せなかった。
――この技術を盗めれば、立憐を守る力を身につけられるかもしれない!
時間が許す限り、満砕は武道場の陰から覗き見た。鍛錬に集中している夏陀の部下たちは気づかれていないのをいいことに、兵士の立ち姿を真似しては、剣を振りあげる動作を再現した。
「ここで何してるの?」
その日も長い休憩をもらい、満砕は兵士たちの打ち合いを観察していた。あまりに熱心に見ていたため、背後からの人の気配にまったく気づいていなかった。「ぴゃっ!」と跳ねあがって、後ろを向くと、そこにはおかしそうに笑いをこらえる琉架が立っていた。
「満砕、こんなところでどうしたの? 仕事は?」
「……今は休憩中」
「仕事を放ってるわけじゃなくて安心したよ」
琉架は楽しそうに頭をなでてきて、他の大人とは違う、からかう手つきに手を振り払った。
「おい、琉架。ひどいじゃねえか。せっかく可愛い猫が秘密の特訓をしてたのに、茶々を入れるなんて」
さらに琉架とは反対方向からの声に、満砕の体は再び跳ねあがった。ばっと振り返ると、今の今まで武道場で鍛錬をしていた兵士たちが、揃って満砕と琉架を見ていた。
「そうだよ、琉架! 俺たちの動きを見て、何度も何度も練習してるんだよ? それがもう可愛くて可愛くて。俺たちがせっかく気づいてない振りしてたのに、琉架のせいで台無しだよ!」
他の兵士が真剣に暴露すると、周りの兵士たちは肩を震わせて笑いだした。
今までこっそりと覗き見していたつもりが、武道場にいた兵士にはすべて見抜かれていたと知り、満砕は顔を真っ赤に染めた。
居たたまれなくなって下を向くと、肩に手を置かれる。見あげると、琉架が微笑んでいた。
「剣術、興味あるの?」
「……立憐を、守れる力だと思ったから」
いたずらがばれたときと同じ気持ちになりながら、嘘偽りなく告げた。すると、肩に置かれた手に力が込められた。
「そう。だったら彼らに指南を受けるといい」
新しい提案に、ぽかんと口を開けた。琉架を見て、そして見守るかのように集結している兵士たちを見た。
「いいのか?」
「家僕の仕事をさせるよりも、許可は下りやすいだろうね。それに将軍は勝手にしろ、としか言ってないでしょ?」
将軍は君のこと気にいっているから、だめとは言わないよ、と真偽が分からないことを告げられる。そのまま背中を押され、満砕は初めて武道場の中に入った。
満砕はまず剣の持ち方、構え、振り方を学んだ。小さな体には竹刀でさえも振るのに力を必要としたが、基礎を習わないまま、真剣を握るのは不可能だと教えこまれた。
「まずはこの竹刀で一日千回。それから毎日数を増やしていこうね」
物腰柔らかく、琉架が優しい口調で酷なことをさらりと言う。
一振りするのさえ、竹刀に重心が持っていかれるほどだ。千回も振ったら、腕がどうなるか分かったものではない。
だが、満砕に初めから「否」と言うつもりはなかった。大きな声を張りあげて、一から数を叫んで、竹刀を振る。体幹が曲がっていれば、その都度、周りから指摘が入った。
まっすぐ前を見定めながら、竹刀を構え、振りあげる。大量の汗が背中を伝っていく。振りおろしては、はじめの構えを取り直す。次第に周りからの指摘も入らなくなり、腕の疲れも感じなくなっていった。
「千!」と声が響いて、はっと息を吐く。「お疲れ様」と琉架から手ぬぐいを渡され、武道場の外が赤く染まっていると気づいた。それほどにも長い時間を無意識下で集中していたのだ。
「今日はこれで終わり。また明日、一から頑張ってね」
琉架がまたしても簡単に言ってのけ、周りはそれを「おっかねえ」とはやし立てる。他の兵士たちから労いの言葉をかけられる。満砕は震える手から竹刀を放そうとしたが、力のこもった手は硬くなって開かない。はぎ取るように竹刀を手から外し、ふらつきながら家僕の大部屋に戻った。
――千回振っただけで腕が震えている。
兵士たちが戦う姿はこの疲労の比ではない。満砕はいまさらながら先の長さを痛感し、麻布の寝床に顔を押しつけた。
今のままでは立憐を守れない。もっと、もっと頑張らなければならない。
――それは、あとどのくらい?
途方もない確定しない未来への絶望と、最初からめげている自分を恥ずかしくなる思いが混在する。
満砕は立憐を思い浮かべた。お披露目に現れた、巫子の姿を思い浮かべる。背けられた顔、すべてを諦めた表情。一人で、神殿に挑む後ろ姿を思いだす。
――一人にしたくない。俺は、立憐のそばに行くんだ。そのためには!
震えて感覚のない手を握りしめた。竹刀の柄を握りすぎて手の皮は向け、血がにじんで赤く変色していた。こすれた手は熱を持っている。この熱を忘れてはいけない。始まったばかりのこのときを忘れてはいけないと頭に刻みつけながら体から力を抜いた。