華藍国。
王都、華城。東西南北を囲むようにそれぞれの区域が存在する王都は、古の時代から穢れが溜まりやすい地のためか、ひとならざる者たちが起こす不可思議な事件に悩まされてきた。
それらに立ち向かえるのは、凡人にはない特別な内功を持ち、厳しい修行をしてある領域以上に達した仙人、もしくはそれを志す道士だけだった。
十五歳で道士見習いの暁玲は、育ての親であり師であり神仙でもある嗚嵐と、王都から離れたとある山でふたり暮らしをしている。時折、嗚嵐宛に届く王宮からの妖退治の依頼を解決しつつ、仙になるための修行に励んでいるのだ。
「師父、ただいま戻りました」
王都の西区で起こっていた【怪異】を鎮め、明け方近くに戻って来た弟子に対し、師である嗚嵐はにこやかな表情で「いつもより随分と時間がかかったようですね」と返す。
片膝を付き簡易的な拱手礼をしている弟子の横には、行儀よく"伏せ"をしている胴の長い白い毛の生き物がいるのだが、なにか後ろめたいことでもあるのか視線が逸らされる。
後ろでゆるく結んでいる長く美しい白髪をゆらし、白い道袍の上に青い衣を羽織りながら嗚嵐がこちらに歩み寄る。
「今回の怪異は少し厄介で手こずってしまい、戻るのが遅くなりました」
目の前にやってきた師を見上げて、暁玲はつい余計なひと言を口にしてしまう。
「·····それで朝帰りですか?」
あはは〜と呑気に笑っている暁玲とは真逆に、嗚嵐の綺麗な眉間に皺が寄り、晴れた空のように穏やかだった表情が一瞬にして曇り出す。
「まさか怪我などしていませんよね? 確認させてください」
と言いながら、片膝を付いて挨拶をしていた暁玲の身体をひょいと抱き上げ立たせると、全体を目視し始める。
それから間髪入れずに、さわさわと頬やら腕やら背中やらを触って、どこか異変がないか確かめ始めた嗚嵐に対し、暁玲は驚いて短い悲鳴を上げた!
「 ひゃっ!? ····な、なにするんですか!? 師父のばかばか! へんたい!」
「暁玲。小さな怪我と甘く考えていると、後々その身に影響を受けてしまったりするんですよ? ほら、ちゃんと私に診せてください」
「ええ!? ちょ、ちょと待っ」
「ここは? 衣が汚れてますけど?」
右足が隠れている裾を容赦なくぺろっと捲り上げられ、暁玲はさすがに動揺して慌てふためき、顔が真っ赤になってしまう。
「し、師父、過保護すぎですって! 確かに色々と大変でしたけど、怪我なんてしてませんから!」
「いえ駄目です。君は少し抜けているところがありますので、自分で気付いていないだけということも、じゅうぶんにあり得ます」
鳶色の瞳はどこまでも真剣で、どこまでも生真面目だった。
うぅ····全然信じてくれない。
「ひゃっ⁉ ど、どこ触ってるんですか!」
腰の辺りを触られ、思わず変な声で飛び上がる。腰と足の裏だけはやめて! と暁玲は堪らず逃げだしていた。その後を白い毛の生き物が慌てて追う。
「まったく····あとで他の場所も確認しなくては、」
暁玲はこの国でも珍しい、亜麻色の黄色がかった薄茶色の髪の毛と、翠眼の持ち主。その少し癖のある柔らかそうな髪の両端を編み込んで、耳から上の部分をまとめて後ろで小さなお団子頭にし、紫菀の花飾りが付いた簪を挿している。
童顔で可愛らしくもあり美しくもあるその整った容姿は、男女問わず良い印象を与えるようで、育ての親としては心配要素しかない。
嗚嵐は暁玲がまだ赤ん坊だった頃に知己の神仙に託されて以来、我が子というよりは孫のように大切に育ててきた。そのため、修行以外の時間は度が過ぎるほどの過保護っぷりなのだ。
ちなみに神仙とは、道士が目指す最終目標であるが、もちろん誰にでもなれるものではない。不老不死であり、神通力を持つ特別な存在。つまりは仙人様なのである。
白髪の嗚嵐がいったい何歳なのかはさておき、見た目は二十代後半くらいの、黙っていれば神秘的で眉目秀麗な青年。まあ実際は孫に激甘なおじいちゃんといってもいいだろう。
「はあ。師父はいつまでも私を小さな子どもだと思っているんです····というか、誰かあのひとに師と弟子の正しい距離感を教えてあげて欲しい」
『きゅ?』
白い道袍の上に纏っている紅梅色の衣を直しながら、暁玲は背中を丸めて落ち込む。確かに嗚嵐の実年齢を考えれば、自分などまだまだ赤子同然なのだろうけど。
だからあんな風に過剰に自分のことを心配してくれるし、擦り傷でもつくって帰って来た日には····いや、あれは思い出すだけでも恐ろしすぎて、眠れなくなるからやめておこう。
とにかく、このままではいつまでも"見習い道士"のままだ。
「雪玉は私のこと、どう思ってます? まだ手のかかる子ども?」
白い毛の生き物もとい、雪玉。幼い頃からずっと一緒で、おそらくかなり年上? 白鼬の姿をした精霊である彼の主は嗚嵐で、守護霊の如く常に傍にいることから、おそらく暁玲のお守り役を命じられているのだろう。
彼は言葉は話せないが、ちゃんと理解できているのだ。精霊なので普段は普通の人間には視えず、道士の中でも視える者と視えない者がいるようだ。もちろん、雪玉が自分の意思で視えるように顕現すれば視えるし、触れることも可能だ。
見た目は鼬に似ており、胴が長く足は短い。尻尾の先だけ黒いが全体的に真っ白な毛。小さな耳にくりくりとしたつぶらな瞳が愛らしい。
赤い首輪は悪さをしないようにと嗚嵐が施した封印具で、元々は前科のあるかなりやんちゃな精霊だったと聞いている。
『きゅ~きゅきゅ!』
「うんうん、そうですよね。私と雪玉は唯一無二の相棒ですよね!」
きゅ~と暁玲の肩の上に飛び上がり、雪玉は左頬に体躯をすり寄せてくる。どうやら彼も同じ気持ちのようだ。細い翡翠の腕輪が飾られた左手で、もふもふな短い毛を撫でもやもやした気持ちを癒す。
「ありがとう、雪玉。では気を取り直して、朝餉の準備をしましょう!」
『きゅ!』
雪玉は眼を輝かせて暁玲を見つめてくる。精霊なのにお腹が空くのかといえば否。しかし霊力を回復するためには必要なのだ。
「あとは、彼のことを忘れてしまわないように、昨夜のことを日記帳に書きましょう。せっかく知り合えたのに、次に逢った時に"はじめまして"なんて言ってしまったら失礼ですし」
『きゅう~』
「ふふ。君が私以外の人間を気に入るなんて珍しいですね、」
『きゅきゅ!』
今回の【怪異】は思っていたよりもいろんな意味で少し厄介で、もしも自分たちだけだったら、あの妖者を再び逃してしまっていたかもしれない。そうならなかったのは、一緒に戦ってくれた彼のおかげといってもいいだろう。
(王宮の首席道士、憂炎。いつかまた、彼に逢えるといいな)
暁玲は道袍の広袖を探って、右の手のひらに乗せた淡い桃色の艶やかな睡蓮の形をした玉佩に視線を落とすと、つい数刻前の出来事をぼんやりと思い出していた――――。