鳥の鳴き声で、ライアンは目を覚ます。
カーテンを開けると、窓の外の世界はまだ白み始めたばかりで、僅かに残る夜の気配を感じながら、欠伸を一つ浮かべる。
「あっ、おはようライ」
「ふわぁ……おはよ、イニ」
眠る必要がないイニは、昨夜は本を夜通し読んでいたようで、蝋燭のすぐそばには二冊の本が積まれていた。
「面白かったか?」
「まあまあね」
「そっか」
そんな短い会話を交わし、ライアンはストレッチを入念した後、軽く日課のトレーニングを始める。
昨夜は夢を見なかった。と言うことは、心についてはどうやら回復し終えたのだろうと判断し、ライアンは傷口が開かない程度に身体へ負荷をかけていく。そんな様子に、イニがやれやれとでも言いたげな表情で口を開いた。
「あんまり無理しないでよ。まだ怪我だって治ってないんだから」
「分かってるって」
ストレッチが終わって風呂場で汗を流し終える。すると、いつの間にか脱衣所に真新しい衣服が置かれていた。
こんなに至れり尽せりだとさすがに申し訳なくなってくるなと考えながら部屋へ戻ると、すでに起きていたフィーが寝巻きのままイニと談笑をしているところだった。
「あっ、ライアンおはよー」
「おはよ。早いな」
「そう言うライアンこそ」
そんな軽口を叩いていると、扉がノックされる音が部屋に響く。
「朝食の準備ができました」
扉を開くと、昨夜潤滑油を持ってきてくれた男性の使用人が、深々と頭を下げて教えてくれた。
「分かった。ほら、フィーさっさと着替えて行くぞ」
「ふぁーい」
欠伸混じりの返事を後ろで聞きながら、ライアンはぺこりと頭を下げた。
◇
「よく眠れたかね?」
ゴーマンの問いかけに、ライアンとフィーはそろって頷いてみせる。
「そりゃもうぐっすりと。な? フィー」
「……うん」
フィーはまだ少し眠そうに目を擦りながら、朝食にと並べられたパンに齧り付く。
「とまあ、こんな感じかな。本当に助かったよ。俺も久々にぐっすり眠れたしさ。それに新しい服まで……。ありがとね、ゴーマンさん」
「ほほっ、サイズが合ったならよかった。紳士たるもの、身なりは整えておかねばな。おっとそんなことよりほれ、どの果物も今朝届いたばかりのものばかりだ。遠慮せずに食べなさい」
ゴーマンの言う通り、テーブルの上に並べられた色とりどりのフルーツは、大きな窓から差し込む陽の光を浴びてどれもキラキラと輝いている。ライアンはその中の一際赤いものを手に取り、勢いよく齧り付く。
瞬間、口の中いっぱいに溢れる甘酸っぱさに、思わず「おお」と声を漏らしてしまう。
「これ美味いな……」
「お目が高い。それは野苺を品種改良したものでね。最近少しずつ市場に流通し始めたものだ」
「へぇ、これ野苺なのか。なんか見た目が俺の知ってるのとは大きさも形も違うから分かんなかったな」
「野苺と言うよりは、野苺の子どもと言ったところかの。何にせよカーライルくんの口に合ったようでよかったわい」
嬉しそうに微笑む彼も、一つ口に含む。
「うむ。美味しい」
そんな談笑を続けながら朝食を食べていると、ようやく脳がはっきりと動き出したらしいフィーが「そう言えばさ」とオレンジジュースで口を潤してから言った。
「どうした? 腹でも痛いのか?」
「んなわけないでしょ。と言うかレディーに対して失礼じゃない?」
「へーへーそうですか。それで? そのレディー様はどうしたんだよ」
フィーは眉根をピクピクとさせながらも、それでも何も言い返さずにゴーマンに向けて笑顔を作る。そんな彼女の様子に、机に座って足をぷらぷらさせていたイニが、ポツリと「フィーの方が大人ね」と呟いた。
「ほっとけ」
「何? またあたしの悪口?」
「ちげーよ。んで、何だよ」
ライアンの言葉に、フィーが「そうだった」と呟く。
「ライアンは何を修理するか訊いたの?」
「いいや、これからだよ。それじゃあ、そろそろ食事も終わりそうだし、何を直したらいいか教えてもらってもいいかな?」
ライアンの言葉に、布巾で口元を拭っていたゴーマンが顔を上げる。深い茶色をした瞳が、フィーを、イニを、そして最後にライアンを順番に見つめる。
「カーライルくん、君に会って欲しい人がいるんだ」
◇
会って欲しい人がいると言われて三人が連れて来られたのは、屋敷の最上階。それも、かなり大きな扉の前だった。それだけで、この部屋がどれだけ大きいかが分かるようだ。
「会って欲しい……ってことはこの中に修理を希望する人がいるってことか?」
「そうなるかの」
ゴーマンはいつになく感情の籠っていない声でそう答えると、ライアンの返事を待たずにそのまま扉を開いてみせた。
「な、何この部屋……?」
ライアンの後ろで、部屋の中を覗き見たフィーがどこか怯えた声で呟く。
部屋に入って真っ先に目に入ってきたのは、部屋を真ん中で区切るかのような巨大な鉄格子だった。その奥にはライアンの部屋にあったものよりも豪勢な天蓋付きのベッドがあって、それ以外にはベッドの側に置かれた小さな机と椅子があるだけ。
ゴーマンは何も言わずにその鉄格子に備え付けられた扉を開くと、後ろを振り向きもせずベッドへと向かう。
「ほ、本当に大丈夫? 実はとんでもないことに巻き込まれようとしてない?」
小声で訴えてくるフィーに、ライアンは緩く首を振って否定する。
「そんな感じはしないけどな。でも、イニ。一応注意だけしといてくれるか。何かあったらすぐに教えてくれ」
「はーい」
フィーの腕の中に収まっている彼女の声を聞き届けてから、ライアンもゴーマンの後を追う。まだ少し不安そうな様子でライアンのジャケットの裾を摘みながら、フィーも恐る恐る着いて来る。
「この人だ」
ベッドの側に立つゴーマンの隣に三人が並んだ時、彼がやけに無機質な声で呟くように言った。
「うわぁ、綺麗な人……」
ベッドの上で静かに眠っている初老の女性を見て、思わずフィーがそんな声を上げてしまう。その様子に、ゴーマンはどこか嬉しそうに表情を和らげた。
「そうだろう。ワシの妻、オルビアだ」
「奥様?」
オルビアはまるで死んでしまっているかのように静かに横たわっている。わずかに上下する胸が、彼女がまだ生きていることを教えてくれる。それでも、不自然なまでに静かだ。
「ゴーマンさん。まさかこの人を起こせってんじゃ……」
「そのまさかじゃよ」
こちらを見ずに言ったゴーマンに、ライアンはなるほどなと頷く。
「悪いけど俺に医学の知識はねえよ。だから、それなら俺じゃなくて医者にでも――」
「どんな医者でもダメなのだ。彼女はどれだけ最新の医療を施しても目を開くことはない。だから、流れの修理屋である君達を頼った」
ライアンはその言葉に眉根を上げたが、それ以上何も言うことはない。ライアンの様子に満足したのか、ゴーマンはこくりと頷く。
「ワシの依頼はただ一つ。オルビアの目を覚させて欲しい」