「いずれ心が壊れるって……ねぇ、そんなことになったら、ライアンはどうなっちゃうの?」
フィーの声が、扉越しでも分かるほど震えている。ライアンはイニを非難するような目で見るが、やがて観念したように目を閉じる。
「気が狂って、最悪死ぬ。死ななくても俺は意思のない廃人になって、もう元には戻らないんだとよ」
あっけらかんと言うライアンに、フィーは言葉を失ってしまう。
「そ、んな……」
「分かった? だから、ライはこの旅を続けなきゃいけないの」
イニはそこで言葉を区切ると、少し考えるような素振りをしてから、言葉を続ける。
「ライは旅に出る前に師匠から記憶を整理する
「……ん? でもなんでライアンの記憶を整理するのにラクリマのカケラが必要なの?」
ライアンは露骨に面倒くさそうな表情を浮かべるが、イニに一睨みされて渋々口を開く。
「俺も詳しいことは知らん。ただ、それが鍵になるって言われたんだよ。師匠は俺なんかよりも長く生きてるし、師匠がそう言うなら間違いねぇから集めようと旅してるってわけ」
「はぁ? 何それ訳分かんない。自分のことなのに、そんなふわふわしてていいの?」
「るっせぇなあ……いーんだよ別に。記憶が二つあるのは事実だし、師匠がラクリマのカケラを集めろって言うんだから集めればいいんだよ」
「……なんか素直に納得しずらいなあ」
「まっ、正直私はフィーに納得だけどね」
肩をすくめながら言うイニに、ライアンは「はぁ!?」と驚いたように声を上げる。
「イニもそう思ってたのかよ!」
「当たり前でしょ? 普段から師匠はどこか曖昧な物言いをするし、深そうで深くないことを言ったりもするけど、本当に大切なことはきっちり話してくれるじゃない。なのに、このことを話してくれた時は、何かを隠してるみたいだった……」
イニの言葉の雰囲気に、フィーはごくりと喉を鳴らす。しかし、当のライアンはハテナと首を捻っている。
「えーそうだったかあ?」
「そうよ。まあ、その話をしてる時、ライはソフィアにボコボコにされてたけど」
「ボコボコ言うな。っつーかそれなら俺が知らなくて当たり前じゃねぇか」
「あらそう?」
そんな二人の会話が面白かったのか、フィーが扉の向こうでふふっと笑ったのが分かった。
「んだよ。今の話に笑えるようなとこってあったか?」
「うん、あったよ。二人といると、楽しくてつい笑っちゃうから困るんだよね」
ふへへと笑う彼女に、ライアンはまた顔を眉根を上げる。
「もしかして、それがさっき言ってたことか?」
「え?」
「さっき楽しいって言ってただろ? 理由は話す前にはぐらかされちまったけどさ」
「はぐっ……!? 別にはぐらかしてないしっ!」
「いーやはぐらかしたね。まっ、別に何だっていいけどさ。とりあえずこれが俺とイニが旅する理由だよ。これで満足か?」
「何だかヤな言い方するなあ……でもそうね。ちょっとは二人のこと知れた気がしたかな」
「何だそれ」
ライアンが小さく笑いながら言うと、扉の向こうからも「えへへ」と楽しげな声が聞こえた。
「そっか……二人が旅をしてるのはそう言う理由なんだね。うん。よし、決めた!」
「決めたって何が?」
ライアンが言いながら眉根を上げた瞬間、すぐ隣の扉が勢いよく開かれて、ライアンとイニは突然のことに思わず飛び上がってしまう。
「あああああああああああ!! だから開けんなって言っただろうがッ!!」
ライアンが扉を閉めようと立ち上がるも、すでに開け放たれた扉の前では、身体にタオルを巻いただけのフィーが、何かを決心かのような晴々とした顔で立っていた。急いで目を逸らしたはずなのに、ライアンの顔が一気に熱くなるのが分かる。まだ水に濡れている黒い髪と、キラキラとした大きく、深い青色をした瞳。それより下のことは極力考えないことにする。
「うん! やっぱりあたしも二人の旅に着いて行く!」
「バカッ! そんなことより扉閉めろって!!」
「バカって何よバカって! ふーんだ。顔赤くさせてるくせに! ライアンのエッチ」
ふふんと何故か得意げになるフィーに、ライアンは必死にそちらへ視線を向けないように叫ぶ。
「誰がだバカ! っつーかこうなってんのは誰のせいだと思ってんだよ! お前には恥じらいってもんはねぇのか!?」
「タオル巻いてるから平気だもーん」
「平気なわけねぇだろ!? なぁイニ!」
「ねぇイニ平気だよね! ライアンが意識しすぎなだけだと思わない!?」
突然二人に名前を呼ばれたイニは、注目を一心に浴びながら、露骨に嫌そうな顔を浮かべる。それから髪と同じオレンジ色の瞳をどこまでも冷たくさせて、淡々と言葉を並べていく。
「これ何回目か分かんないけど、二人とも本当にうるさい。今人の家にお邪魔してるって分かってる? しかもこんな遅い時間に。二人がわーぎゃー騒ぐことがどれだけ迷惑になるかとかって考えたことある?」
「それは……」
「えっと……」
ライアンとフィーは顔を見合わせると、口をもごもごとさせながら、どこか気まずそうに目を逸らす。
「で、でもイニ……」
「でもじゃない。ライアンもそんな顔しない。いい? アンタ達二人とも同罪だから。分かった?」
「……へーい」
「……はーい」
二人がしょぼくれなら返事をするのを確認して、イニは満足そうに頷く。
「分かったならよろしい」
イニがそう言った瞬間、扉の前ですっかり肩を落としたフィーが、くしゅんと可愛らしくくしゃみをした。
「ほらみなさい。お湯に入った後なのに、こんなところでくだらない話してるからよ。さっ、フィーはもう一回お風呂に入って反省する。ライもここに座って反省する」
「ふぁーい」
フィーが鼻をずっと啜りながら扉を閉めるのを見届けてから、ライアンが「なあ」とイニを呼んだ。
「何?」
「俺とフィーで扱いが違くないか?」
「うるさいわよ」
じろりと睨まれたライアンは、そのまま肩を竦めて扉にもたれかかる。
それからしばらくして、遠くで時計がボーンと低く鳴ると、扉の向こうから「ひっ!」というフィーの情けない悲鳴が聞こえた。