「なぁイニ」
「何?」
「そろそろ部屋戻っていいかな?」
入浴場の扉の前で、ベッタリと床に座り込んでいたライアンの周りを、先程からオレンジ色の髪を楽しげに揺らしながらウロウロとしていたイニの足が、ピタリと止まる。
「いいんじゃない? 後から何言われても責任取らないけど」
ライアンはうぐっと言葉を詰まらせると、そのまま大きな溜息を吐く。
相変わらず背後からはこちらの気持ちなど知らない様子の楽しげな鼻歌と、時折り聞こえてくる水の音に気まずそうに頭を掻く。
それからしばらくしてびしゃんと一際大きな音がしたかと思うと、中から「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛生き返るゥ……」と何とも言えない声が聞こえてくる。
「なあ、本当に戻ったらダメか?」
「だっ、だめだめだめだめだめだから!!」
そんな声とともにピタピタと湿りっ気のある軽い音がしたかと思うと、勢いよく扉が開――かないようにライアンは渾身の力でドアノブを引っ張る。
「ちょちょっと開かないんだけど!?」
「開けさせるわけねぇだろ!?」
「何でよ!!」
「何でよじゃねぇからな!? お前今服着てねぇだろうが!」
その一言でようやく我に返ったのか、勢いよく扉をこじ開けようとしていた力が弱まる。
「それは……ごめん……」
その言葉にライアンはほっと息を吐く。
「……分かってもらえてよかったよ」
扉の向こうではまだフィーが立っている気配がして、ライアンはもしかして傷付けてしまったのだろうかと不安になる。
「どうかしたか?」
「……ううん。何でもない」
「何でもないって……ぜってぇなんかある時の言い方じゃねぇか」
ライアンが眉根に皺を寄せながら言うと、扉の向こうからあははと乾いた笑いが聞こえてくる。
「ねぇ、本当にどうかした?」
そんなフィーのことを不安に思ったのか、イニが扉に手を触れながら訊ねる。
「……そのっ、なんて言うか。こんなこと言うのも変かもだけどね。あたし、今すっごく楽しいの」
「楽しい?」
ライアンの疑問に、扉越しのフィーは何も答えない。と言うよりも答えることを迷っているかのようだった。
「フィー?」
何も答えない彼女のことを案じてか、イニが名前を呼ぶ。
「あっ、えーっと……そうだ。二人は前に白の魔女のラクリマを探してるって言ってたよね?」
「え? あ、あぁ。それがどうかしたか?」
「ラクリマがどう言うものかは前教えて貰ったけど、二人がどうして探してるかって教えてもらってないなと思って」
「言ってなかったか?」
ライアンが足元のイニに訊ねると、彼女はこくりと頷く。
「あの時は途中で邪魔が入っちゃったからね」
「……そんな感じだった気もするな」
ライアンはガシガシと頭を掻くと、そのまま扉のすぐ近くの壁にもたれる。
「そんな面白い話じゃねぇよ」
「いいの。教えて?」
ライアンは一瞬イニを見ると、はぁと大きなため息を吐き出して、ずるずるとその場に座り込んだ。
「探してる人がいるんだよ」
「探してる人って? もしかして恋人とか?」
きゃーっ! とどこか楽しそうな声が聞こえた気がするのは無視して、ライアンは冷めた声で「んなわけあるか」と吐き捨てる。
「別に信じてもらわなくて結構だけど、俺には二つ記憶があんだよ。しかも厄介なことにその記憶の中の俺は別人なんかじゃなく、俺そのものの記憶だ。その記憶の中で、俺の一生はすでに終わってる。それなのに、俺は今こうして生きてる。俺はこの記憶が何なのか知りたい。それから、その記憶の中でずっと俺の側にいてくれた人、その人が誰なのか知りたいんだ」
「………………あのっ」
長い沈黙の後、どこか気まずそうにフィーが口を開いた。
「何だよ」
「……そういうのはさすがにそろそろ卒業した方がいいと思うよ?」
「フィーが話せっつったんだからな!?」
ライアンが声を荒らげるも、フィーは疑いのこもった声で「そうだけどさぁ」と呟く。
「まあ、信じてもらわなくていいって言ったのは俺だから別にいいけどよ……とりあえず、俺はその記憶の中にいる人を探してるんだよ。それが俺のためになるって師匠にも言われてるしな」
「ふーん、記憶の中の人ねぇ。じゃあ、一応それが本当だと思って訊くけど、その人は記憶の中のライアンにとってどんな人なの?」
ライアンは「あー」と呟きながらと天井を見上げる。
「記憶の中の俺は、その人のことを義母さんって呼んでたかな」
「お母さん……あっ、だから汽車の中で」
扉越しでもフィーがにやっとした笑みを浮かべているのが容易に想像できる。
「……それは忘れてくれ」
「やだ」
「やだってお前なぁ」
ライアンは、これ以上は何も言うまいと大きなため息を溢す。
「俺の旅の目的は二つ。一つはさっき話した義母さんを探してること、もう一つはこの記憶が何なのかを知ること、だ」
「一つ目は分かったけど、二つ目は叶えなきゃいけない目標なの?」
「俺としては別に――」
「ダメよ。叶えないとダメ。じゃないとライがライでなくなるって師匠にも言われてたでしょ?」
やけに強い声で、イニがライアンをじっと見つめながらピシャリと言い切る。
「……ライアンじゃなくなる?」
「私も詳しいことは知らないんだけどね。ライの師匠が言うには、記憶ってのは基本的に一人一つしかない……と言うか、一人一つしか持てないってのが正しいところかしら。でも、ライみたいに記憶が二つあると、いずれ記憶が混濁して、そのまま心が壊れちゃうの」