遠くから、夕暮れを告げる鐘の音に紛れて、カラスの鳴き声が虚しく辺りに響く。
エリック名物の巨大な石橋から見えるのは雄大な平地。そして、はるか遠くにあるはずなのに、しっかりとその存在を主張している巨大な山が一つ。その山は夕暮れに照らされ、まるで燃えているようだった。
「相変わらずでっけぇ山だよなあ」
「……現実逃避?」
「そうとも言う」
ライアンがそう答えた時、遠くから音程の外れた楽しげな歌声が聞こえてくる。何だと思って顔をそちらに向けると、酒瓶を片手に持った男性が、フラフラとした足取りでこちらへやってくるのが見えた。その男性はライアンと目が合うなり、こちらを指差した。
「おーい兄ちゃん! そんなとこで何やってんだぁ?」
「うげぇ酔っ払いだ……」
イニが嫌そうな声で言いながら、ライアンの後ろに隠れてしまう。
「もしかしてあの山見てんのかぁ?」
男性はライアンの隣に立つと、酒臭い息で問いかけた。
「まあ……そんなとこかな」
「そうかそうか! ここからの景色が一番だからなあ」
「ふーん。他にもよさそうなとこあるけど、ここが一番なんだ?」
「そりゃあそうさ! なんたってあのボルト山が見えるんだからなあ」
男性は嬉しそうに言うと、酒をあおる。
「そんないいもんかぁ? あれ」
「あーん? 兄ちゃん知らねぇのか? あの山はなぁ、大昔はオメガっつーとんでもねぇバケモンだったって話さ。そのバケモンが世界を滅ぼそうとした時、六人の魔女が止めたのよ。そりゃもうすげぇ戦いだったって知らねぇのかぁ?」
「いや、知ってるけど」
「でもまあ〜」
聞いちゃいねぇ。
「こんなのは
「あーあの窪んでるとこ?」
「そう! 兄ちゃん目がいいねぇ」
「どーも」
「んでよ、そこの窪みが口みたいに見えんだろ? あの部分がな? 俺ぁ昔からよぉ、怪物が空見上げてでっけぇ口開けたまま止まってんじゃねえかって睨んでんのさ。まっ、そんなことねぇってのは、ガキの頃にガッコーで勉強したんだけどな」
ワッハッハと楽しげに笑ってライアンの肩をバシバシ叩くと、そのまま男性はまた楽しげに笑いながら立ち去ってしまう。
「なんだあのおっさん……ってか依頼じゃねぇのかよ」
遠くで再び通行人に絡み始めた男性を見ながら、ライアンは大きなため息を吐き出す。
「……やっぱり世の中ではあのおじさんが話してるような認識なのね」
「そりゃあな。誰もあんな話本気で信じちゃいないだろ。ってかあのおっさんも話しかけてくるなら依頼の一つでもして欲しいもんだよ」
石橋の欄干によりかかりながら、ライアンがぼやく。まるで同意するかのように、腹がぐぅと鳴いた。
思い出されるのは、ここに来るまでの出店で売られていた数々の美味しそうな料理たち。
ラム肉の串焼きが一エルと七〇トロイ。ちょっと高い牛の串焼きが三エルちょうど。ここの名物らしい林檎のパイで九〇トロイ。なんなら林檎一個でさえ二〇トロイする。
そのどれもが先程盗まれた六五〇エルがあれば、多少の節約は必要だとしても問題なく買える品々だ。
まさかギャンブルをした訳でもないのに、こんなに突然有り金が全部なくなるなんて思いもしなかった。
「せっかく人通りがある場所に来たのに依頼はゼロ。何なら話しかけて来たのがあの酔っ払い一人だなんて、今日はツイてないわね」
欄干の上で項垂れるライアンの肩を、イニがポンポンと叩いて慰めてくれる。
「イニ、ありがとな。はぁ……それにしても腹は減ったし、財布は盗まれるし、腹は減ったし、石畳で足はいてぇし、依頼も来ねぇし、腹は減ったし……もう散々だ」
「本当にお腹が空いてるってことはしっかりと伝わって来たわ……。でも、人間って本当に不便よね。ご飯食べたり睡眠取ったり。それに付随して必要なことが多いわけでしょ? なんだか同情しちゃう」
「イニからすればそうだよなあ。まっ、イニも関節に油を差したりしなきゃなんねぇわけだろ? 靴は磨かなきゃボロボロになるし、植物だって水をやらなきゃ枯れちまう。そう考えると手のかからない物はないってこったろーな」
ライアンは欠伸混じりに言うと、でもなあと続けた。
「だとしても人間は不便すぎるって思うよ……」
「まあ、アンタの育ってきた環境だとそう思うのも仕方ないわね」
やれやれとでも言いたげに笑うイニに、ライアンもだろ? と笑い返す。
「それにしても腹減ったなあ」
「そうは言ってもお金はないんだし、この雄大な景色でも見たら? とってもいい景色よ」
「どれだけ景色がよくても、景色で腹は膨れねえんだよぉ……」
「じゃあ戻る?」
思っても見なかった問い掛けに、ライアンが苦い表情を浮かべる。その顔があまりにも嫌そうでイニは思わず笑ってしまいそうになる。
「戻……れはしねぇだろ。まだ旅に出てから一年も経ってねえし、もう戻ってきたのかって笑われるのがオチだろ。それに、今戻ったらそれを理由にソフィアにどんな……うぅ、考えたくねえ」
「あっ、そっち?」
「逆にそれ以外ある?」
「あーライはそうよね。私が悪かったわ……」
「? 何だよそんな呆れたみたいな顔して」
「安心して。しっかり呆れてんのよ」
イニはふふっと笑うと、景色に向き直る。夕暮れはそろそろ黄昏時に変わりつつあるようで、眼下に広がる景色に黒が差し込みつつあった。遠くに見えるボルト山も、少しずつ闇に飲み込まれていく。
「そろそろ本格的に夜が来るわね」
「そうだな……。はぁ、マジで考えないとな」
「何をだい?」
「何をってそりゃあ」
口に出してから、先程の声がイニの物ではないことに気が付く。瞬時に顔をそちらへ向けると、驚いた顔をしたジムが立っていた。
「おいおい声掛けただけでそんな怖い顔しないでくれよ」
「なんだジムさんか……」
ライアンは緊張を解くなり、ふぅと小さく息を吐いた。どうやら無意識に身構えてしまっていたらしい。
「なんだとはなんだ。えーっとそれで君は……」
「そういや自己紹介してなかったか。俺の名前はライアン・カーライル。ライアンでもカーライルでも好きに呼んでよ」
言いながら差し出した手を、ジムは嬉しそうに取った。
「分かった。じゃあ、カーライルくん。それと……そこの君は?」
「え?」
ジムの視線の先には不自然な体勢でピタリと動きを止めているイニがいる。見られたと思った瞬間、師匠の言葉が頭の中に響いた。
――いいかい、ライアン。イニが魔法の力で動いていることは、信頼できる人以外に明かしてはいけないよ。
どうして? と問いかけるライアンに、師匠はただ首を振って答えた。
――魔法はかつて人と共にあった。これは何度も話してきたことだね。でも、科学が発展してきた今、魔法の奇跡は人を欺くための手品と位置付けられた。そしていつからか、魔法を使ったと言おうものなら、人として扱われない世の中になったのさ。
それから師匠はその長い緋色の髪を微かに揺らして、薄く笑った。
――ライアン。魔法はもう表立って存在してはならない世の中になったんだ。御伽話の中でしか生きられないものなんだ。君は嫌かもしれないが、魔法のことは隠しなさい。魔法のことについて何か訊ねられても、何も知らないとはぐらかしなさい。そうでなければ、君の旅は苦しいものになるだろう。だからね、イニはただの機械人形だと答えるんだ。君が修理した、特別な機械人形だとね。
「……カーライルくん?」
何も答えないライアンのことを不思議に思ったのか、ジムが心配そうな顔をして言った。その顔に疑いの色はなく、どちらかと言えば何か気に障ったことを言っただろうかと不安になっているように見えた。だが、相手は警察だ。一応警戒はしておいた方がよいだろう。
「あーいや、何でもない。ちょっと考え事をね。で、この機械人形が何だって?」
「機械人形……? あーなるほどね! だから動いてたのか。少し見せてもらってもいいかい?」
ちらっとイニの方を見るもピタリと動きを止めているせいで表情を窺うことはできない。
「もちろん。あっでもここでは中までは見ないでもらえると」
「ん? あぁ、さっきの動きを見るとかなり精密な機械みたいだもんな。もちろんそんなことはしないさ。……うん。確かに機械人形だ」
その一言に内心ほっと息を吐くも、なるべくその様子を出さないように訊ねる。
「機械人形じゃなかったら何かあった?」
「いや、機械人形だったからどうこうって訳じゃないんだ。んー……そうだな、ここじゃあんまり大きな声じゃ話せないし、場所を移そうか」