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第25話 カラオケ③

「あたしね、川崎くんのこと、前から知ってた」


「前から……知ってた?」


 俺の問いかけに、水原は小さく頷いた。


「覚えてないよね。中学の時、一度だけ会ってるの」


 水原の言葉に、俺とリセは思わず顔を見合わせた。中学時代と言えば、母親に見放される前。まだ、色々なものを抱えていた頃だ。


「あの頃のあたし、別の中学に通ってて。でも、塾は一緒だった」


 ドリンクを告げるチャイムが鳴る。けれど、誰も取りに行く素振りは見せない。


「川崎くんは、あたしのことなんて全然覚えてないと思う。だって、たった一度の偶然の出来事だったから」


 水原は遠い目をして、その日のことを思い出すように話し始めた。


「その日、あたし、塾で嫌なことがあって。先生に怒られて、友達にもバカにされて。塾が終わった後、公園のブランコで一人で泣いてた」


 リセが静かに息を呑む。その時期、確かにリセの通っていた塾とは別の塾に、俺は通っていた気がする。


「そしたら、川崎くんが通りかかったの。でも、声をかけてくれたわけじゃない。ただ、あたしの隣のブランコに座っただけ」


 水原は少し照れくさそうに微笑む。


「最初は迷惑だって思った。でも、川崎くんはずっと黙ったまま。何も聞かないし、何も言わない。ただ、そこにいてくれた」


 俺は記憶を探る。けれど、そんな場面が本当にあったのか、確信が持てない。


「しばらくしたら、川崎くんがポケットからキャンディを取り出して。『泣き止んだら食えよ』って、投げるように渡してきた」


 水原の目が、懐かしそうに細まる。


「それまであたしの周りの人って、みんな色々聞いてきたの。『どうしたの?』とか『大丈夫?』とか。でも川崎くんは何も聞かなかった。ただ、あたしが泣き止むまで待ってくれて」


「それが……嘘じゃない?」


 リセが静かに尋ねる。疑っているというよりも、確認するような口調だ。


「本当だよ。そのキャンディ、まだ持ってるもん」


 水原はバッグから財布を取り出し、小さなポケットを開く。そこから出てきたのは、くたびれた包み紙。ピンク色の、いちご味のキャンディの包み紙だった。


「ずっと、大切にとってあった」


 俺は思わず目を見開く。確かに、そんな習慣があった。塾帰りに必ずキャンディを持ち歩いていたのは。気分の落ち込んだ時に、自分用に買っていたものだ。


「泣き止んでから、川崎くんは『じゃな』って言って立ち去った。それっきり、二度と会うことはなかった。でも、あの時のこと、あたしは忘れられなくて」


 水原は包み紙を大切そうに財布に戻す。


「だから、この学校に転校してきた時、川崎くんを見つけた時は、すっごくびっくりした。覚えてないかなって思ったけど、やっぱり全然覚えてなかったみたいで」


「なんで……」


 俺は言葉に詰まる。


「なんで、そのことを言わなかったんだ?」


「言えなかったの」


 水原は少し寂しそうに笑う。


「だって、知らない人のフリして近づいて、お金で彼氏役頼んで。本当のこと話したら、すごく嫌な気持ちになるんじゃないかって」


 リセは黙ったまま、水原の話を聞いている。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。


「でも、もう隠すのはやめようと思って。リセちゃんにも、川崎くんにも、ちゃんと話しておきたくて」


 水原は俺とリセを交互に見る。


「あの日のこと、たぶん川崎くんにとっては何でもない出来事だったと思う。でも、あたしにとっては特別な思い出で。だから……」


 その言葉が途切れた時、リセが口を開いた。


「私にも、似たような思い出があります」


 水原が驚いたように顔を上げる。


「小学校の頃。私が転校してきた時、クラスに馴染めなくて困ってた時、声をかけてくれたのがヒロでした」


 今度は俺が思い出す。確かに、リセが転校してきた時のこと。


「ヒロったら、突然私の机の前に立って。『放課後、公園で鬼ごっこするけど、来るか?』って」


 リセの目が優しく細まる。


「周りのみんなは気を遣って、私に話しかけるのを遠慮してた。でも、ヒロは何の前置きもなく、当たり前のように誘ってくれて」


「ああ」


 そういえば、そんなことがあった。母親に叱られた日で、公園で気を紛らわせようと思っていた時だ。


「だから、水原先輩の気持ち、分かります」


 リセはまっすぐに水原を見つめる。


「ヒロって、自分では気付いてないかもしれないけど、誰かを助けることが、すごく上手なんです」


 水原は小さく頷いた。


「そう、なんだよね。だから……」


 その時、再びドリンクを告げるチャイムが鳴った。


「あ」


 三人は同時に我に返る。飲み物を取りに行くのを忘れていた。


「あたしが取ってくる!」


 水原が立ち上がる。その背中を見送りながら、俺とリセは考え込む。


 水原の告白は、思いもよらないものだった。そして、それは過去の自分を思い出させる。


 あの頃の自分は、本当に誰かの役に立とうと思ってあんなことをしていたのだろうか。


 それとも、ただ自分の気持ちを紛らわせるためだったのか。


 扉が開き、水原が飲み物を持って戻ってきた。


「はい、お待たせ!」


 三つの飲み物を配りながら、水原は明るく笑う。けれど、その表情の奥に、どこか緊張の色が見えた。


「それで……続きは?」


 リセが静かに促す。水原は一度深く息を吐いてから、


「あたしね、もう一つ言いたいことがあるの」

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