「はぁ。しおりは本当に困った子だよ」
白野は落ち着いた様子で言う。
「もう、こんな茶番は終わりにしない?」
「茶番だ?」
「この男との偽装恋愛」
白野は俺を指差しながら続ける。
「どうせお金で雇われた役者なんだろう? しおりがそこまでしなきゃいけない理由なんてない。僕がいれば十分なのに」
「勝手なことを」
俺が声を荒げかけたその時、水原が静かに言った。
「先輩、本当のこと言ってくれませんか」
「急になに?」
「あたしと別れた後、噂広めましたよね」
白野の表情が一瞬凍る。
「噂? なんのこと? 僕はなにもしてない」
「嘘をつかないで」
水原の声が少し強くなる。
「だって、タイミングが良すぎる。あたしが別れを告げた直後から、また同じような噂が広まり始めた。それに、なぜか証拠の写真まで出回って……」
「偶然だよ」
「本当に?」
今度は俺が口を開く。
「お前、水原の写真を加工して広めただろ。『おじさんとホテルに入るところ』とか『お金を受け取ってる場面』とか、そういうの」
「証拠はあるの?」
白野は余裕の表情を崩さない。
「確かに、証拠はない。でも」
俺はゆっくりとスマホを取り出す。
「今から証拠は作れる」
「何?」
「お前との会話、全部録音してる」
白野の表情が強張る。
「録音だって?」
「ああ。玄関に入る前から、ずっとな」
実際には嘘だ。でもこの賭けに出るしかない。
「白野先輩」
水原が立ち上がり、まっすぐ白野を見つめる。
「あたし、先輩のことは嫌いじゃなかった。でも、恋愛感情はなかった。それを伝えただけなのに、どうしてこんなことを?」
白野は俯いたまま、小刻みに震えている。
「わかってないな、しおり」
低い声で呟く。
「君は、僕のものなんだ。産まれた時から、ずっと。幼稚園の頃から、僕たちは一緒だったじゃないか。なのに、君は……」
白野の声が震える。
「僕を裏切った。他の男と付き合うなんて……許せない。だから、また昔みたいな噂を広めれば、君は僕に頼るしかなくなると思って」
「昔みたいな噂って……まさか」
水原の顔から血の気が引く。
「中学の時の噂も、先輩が?」
白野は黙ったまま、でもその態度が全てを物語っていた。
「そんな……どうして」
「君を守るためだよ」
「守る?」
「そう。あの店長との写真を撮ったのは僕だ。でも、それは君が危険な目に遭わないようにするため。だから噂を広めた。そうすれば、もう誰も君に近づかなくなる。君は僕だけを頼るようになる」
「狂ってる」
俺が思わず呟く。
「狂ってるのはそっちだ。水原に歪んだ執着を押し付けるな」
白野は口を歪める。
「僕の執着が歪んでる? 君に何がわかる。しおりのことを一番理解しているのは僕だ。幼い頃から一緒にいて、彼女の全てを知っている。それなのに、君のような部外者が……!」
「違う!」
水原の声が響く。
「先輩はあたしのことを理解してない。ただ、自分の思い通りにしたいだけ。あたしの気持ちなんて、少しも考えてくれない」
「しおり……」
「あたしが寂しかったのは本当。でも、先輩はその寂しさに付け込んで、私を縛り付けようとした。そんなの、愛情じゃない」
白野は言葉を失ったように、その場に立ち尽くす。
「録音、消してくれ」
しばらくの沈黙の後、白野が呟いた。
「噂は、もう広めない。だから……」
「先輩」
水原が一歩前に出る。
「謝罪してください。学校で、みんなの前で。噂は全部嘘だって」
「そんなことできるわけない」
「できます。先輩にはその責任がある」
水原の声は強かった。
「あたし、もう逃げない。噂に流されることもない。だって」
水原は俺とリセの方をちらりと見る。
「もう一人じゃないから」
その言葉に、白野の表情が崩れる。
「そうか。君は本当に僕から離れていくんだな」
白野は長いため息をつき、ゆっくりと立ち上がる。
「僕に楯突いたんだ。もう知らないからな」
そう言って、白野は部屋を後にした。
扉が閉まる音が響き、部屋に静寂が戻る。
水原の肩から力が抜け、その場にへたり込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
リセが心配そうに駆け寄る。
「うん。なんとか」
水原は小さく笑う。
その表情には、久しぶりに安堵の色が浮かんでいた。
「川崎くん」
「なんだ?」
「さっきの録音、本当は嘘だよね?」
「ばれてたか?」
「うん。だって、川崎くんがそんな策略めいたこと思いつくわけないもん」
「なんだそれ」
俺が眉をひそめると、水原は柔らかく笑った。
「でも、ありがとう。あの一瞬の焦りのおかげで、白野先輩が本当のことを話してくれた」
「偶然がうまく重なっただけだ」
「そうだね。でも、その偶然を引き寄せてくれたのは、川崎くんとリセちゃんのおかげ」
水原はリセの方も見つめる。
「あたし、リセちゃんのことを誤解してた。ごめんなさい」
「私も、水原先輩のことを誤解していました。本当のことを話してくれて、ありがとうございます」
二人は柔らかな笑顔を交わす。
その光景を見ていると、妙な安心感が胸に広がった。
「それで」
俺は話題を変えようと、水原に向き直る。
「これからどうする?」
「うーん」
水原は考え込むように指先で頬を撫でる。
「一番やらなきゃいけないのは、先輩に謝罪してもらうこと。でも、それだけじゃダメかも」
「どういうこと?」
「だって、あたし自身も変わらなきゃ。今までみたいに、噂を気にして縮こまってちゃダメ。もっと、自分の気持ちに正直にならなきゃ」
その言葉に、俺とリセは息を呑む。
「それに」
水原は照れくさそうに俺を見上げる。
「川崎くんとの契約も、ちゃんと整理しないと」
「あ、ああ」
「お金で雇うんじゃなくて、ちゃんと……」
水原の言葉が途切れる。
頬が少し赤くなっているのが見えた。
「ちゃんと?」
「え、えっと。その、改めて……お願いしたいなって」
「はぁ?」
「だ、だから! 今度は、お金じゃなくて。本当の気持ちで……」
その時、リセが強い調子で咳払いをした。
「あ、ご、ごめん。リセちゃんの前で、こんな話」
水原は慌てて言葉を切る。
「いいえ。私も、ちゃんと話さないといけないことがありますから」
リセの目が真剣な光を宿す。
「私も、自分の気持ちに正直になります」
三人の間に、妙な緊張感が流れる。
俺は何も言えず、ただその場の空気に飲まれていた。
「あの、お腹空いてない?」
水原が唐突に声を上げる。
「お昼まだでしょ? あたし、作れるよ」
「え? いや、そんな」
「いいの! せっかく来てくれたんだし。ね?」
水原は人懐っこい笑顔を見せる。
その表情は、今までで一番自然に見えた。
「私も手伝います」
リセも立ち上がる。
「えー、でも」
「一緒に作りましょ?」
「うん!」
二人は笑顔で顔を見合わせ、キッチンへと向かっていく。
俺はその光景を見ながら、小さくため息をついた。
これから先、どうなっていくのか。
まだ何も決まっていない。
けど、少なくとも今は、この瞬間を大切にしたいと思った。