目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第20話 経緯

「ごめん、ヒロ。私のせいで……」


「違う」


 手の中の生徒手帳を強く握りしめる。


「これは、俺の責任だ」


 窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。


 重苦しい空気の中、俺はふと手の中の生徒手帳に目を落とした。


「これ……」


 水原の住所が目に入る。


 青葉台のマンション。高級住宅地として知られる場所だ。


「ヒロ?」


「このまま、終わらせるわけにはいかない」


 リセはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「私も行く」


「いや、一人で──」


「ダメ」


 リセがきっぱりと言い切る。


「もう、ヒロに一人で抱え込ませない」


 その目には強い意志が宿っていた。


 俺は小さくため息をつく。


「……分かった」


 学校から歩いて20分。高級住宅街の真ん中で、俺とリセは足を止めた。


「ここ……なの?」


 リセが小さく息を呑む。


「みたいだな」


 水原の生徒手帳が記す住所はここを示している。


 豪華なエントランス。制服姿の俺たちは、明らかに場違いな存在に見える。


 あの時、彼女は月に百万円という法外な金額を提示した。それが可能なのも、こういう環境にいたからなのかもしれない。


 チャイムを押す。返事はない。


「留守?」


 リセが心配そうに俺を見上げる。


 もう一度チャイムを押すと、ようやく中から物音が聞こえた。


「……誰?」


 水原の声だ。普段の明るさは消え失せ、疲れたような声色が響く。


「俺だ」


 一瞬の沈黙。


「帰って」


「話がある」


「なにも話すことない。もう……なにもないから」


 その声には諦めと悲しみが混じっていた。


「5分でいい。それだけ話を──」


 長い沈黙の後、水原が小さなため息をつく。


「……入って」


 扉が開く。


 水原は俺たちを見ようともせず、リビングへと向かう。


 テーブルに座った水原は、ずっと俯いたままだ。


「ご両親は?」


 リセが周りを見回しながら尋ねる。


「いない。いつもいない」


 そっけない返事。


 重苦しい空気が流れる。


「なんで、ここまで来たの?」


 水原が静かに尋ねる。


 その声には疲れが滲んでいた。


「あたしのこと、もう十分バカにしたでしょ」


「バカにしてなんかいない」


「じゃあなに?」


 水原の声が少し強くなる。


「どうして、リセちゃんまで連れてきたの?」


 その言葉に、リセが小さく息を呑む。


「あたし、川崎くんにだから打ち明けたの。川崎くんなら分かってくれるって信じてたから」


 水原の声が震える。


「なのに、どうしてリセちゃんにまで話そうとするの? あたしのこと、守ってくれないの……?」


 水原の目には、もう涙が溢れそうになっていた。


「あたし、これでも結構頑張ってたんだよ」


 水原は俯いたまま、震える声で続ける。


「川崎くんにだけは分かってほしかったの。あたしがどれだけ……」


「水原……」


 水原は膝の上で拳を強く握りしめていた。


「もういい。川崎くんが味方してくれるなら、それでよかったの。なのに……」


 水原の目から涙が零れ落ちる。


「川崎くんまであたしを裏切るなんて……」


 その瞬間、俺は決心した。


「水原。聞いてくれ」


 その声に、水原は驚いたように顔を上げる。


「俺はお前のことを理解したいと思ってる」


 水原は黙ったまま、俺の顔を見つめる。


「お前がどれだけ辛い思いをしていたのか、俺には想像もつかない。でも、それでもお前を守りたいと思っている」


 水原は目を伏せたまま、小さく首を振る。


「嘘。川崎くんはあたしを裏切った。もう信用できない」


 その言葉に胸が痛む。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。


「確かに俺は水原との秘密をリセに話そうとした。それは間違いだったと思ってるだ」


 水原は俯いたまま動かない。しかし、俺の言葉は届いているはずだ。


「俺はお前のことを理解したい。そして、お前を守りたいと思っている。それが本当の気持ちなんだ」


 水原はゆっくりと顔を上げる。その目には涙が浮かんでいるが、その表情には希望の光が少しだけ宿っていた。


「川崎くん……」


 その声は弱々しいが、確かに俺に向けて発せられた。


「俺はお前のことを信じてる。だから、お前も俺を信じてくれないか?」


「川崎くん……本当に、そう思ってるの?」


 水原の声は震えていた。目尻に浮かんだ涙が、頬を伝って落ちる。


「ああ」


 リビングの空気が、わずかに変化した。


「私、水原先輩のことを誤解してました。先輩のことを知ろうともせずに、ただ嫌な先入観だけで見てた。ヒロを取られたくなかったから。だから、私も謝らないといけないですね。ごめんなさい」


 リセがゆっくりと口を開く。


 水原は黙ったまま、視線を落とす。


「白野先輩が言ってた。先輩のお父さんから、なにか伝えたいことがあるって」


 俺は慎重に言葉を選びながら切り出した。


「それって、どういうことなんだ?」


 水原は一瞬、表情を強張らせた。


 しかし、今度は昔のように逃げ出すことはなかった。


「……父さんの会社が、危険なの」


「危険って?」


「詳しくは分からない。でも、最近父さんの様子がおかしくて。夜中に誰かと電話してたり、書類を急いで燃やしてたり」


 水原の声が少し震える。


「それに、見知らぬ怖い人たちが家に来るようになって。お金が必要だとか、示談にしろとか、そんな話をしてるのが聞こえてきて……」


「示談?」


「うん。車で轢いちゃったみたいなの」


 俺とリセは思わず息を呑む。


「ヤクザみたいな人を……?」


 リセが恐る恐る尋ねる。


 水原は一瞬ためらい、それから小さく口を開く。


「ううん。でも、あながち間違ってないかも。白野先輩のお父さんって、父さんの会社の副社長だったの。でも半年前に急に辞めて。父さんは『あいつが勝手に辞めただけだ』って言ってたけど……」


「本当は違うんだな?」


「うん。白野先輩から聞いたの。白野さんが父さんの会社の不正に気付いて、それを告発しようとしたから……父さんが車で、わざと……」


 言葉が途切れる。


 だが、その意味するところは十分に伝わってきた。


「でも、死ななかった?」


「うん。でも大怪我して、今でもリハビリ中みたいで……。父さんは示談金で済ませようとしたみたい。でも、白野さんは受け取らなかった。そのかわり、息子の晴人先輩と、あたしを……」


「許婚にしろって?」


 水原は苦しそうに頷く。


「父さんは必死だった。このことが公になったら、会社も家族も全部終わりだって。だから、白野さんの家との縁組で、なんとか穏便に済ませようとしたの」


「それで、白野とお試し交際することになったのか」


「うん。でも、白野先輩のやり方は違った。あたしを自分の物にしようとして、束縛してきて。それに耐えられなくなって、別れを告げたら……」


「噂を広められた」


 俺の言葉に、水原は静かに頷く。


「白野さんは、父さんの会社の不正の証拠も握ってるみたいで。それを警察に出すって脅してきたの。だから父さんは、あたしにもう一度、白野先輩と付き合えって……」


 水原の声が途切れる。


 堪えていた涙が、また零れ落ちる。


「でも無理だよ。あの人の歪んだ愛情はあたしには重すぎて……」


「だから俺に彼氏役を頼んだのか」


「うん。白野先輩を遠ざけるためだけじゃなくて。あたし自身が、誰かに守ってもらいたかった」


 その言葉に、胸が締め付けられる。


 と、その時、ガチャリと玄関が開く音がした。


「っ」


 水原が肩を上下させる。


「しおり? 甘いもの買ってきたよ。一緒に食べよ」


 白野の声が響く。


「何で白野が……」


「ウチの合鍵持ってるの……」


 突然の事態に当惑したのも束の間、白野はゆっくりとリビングに入ってくる。


「……どうして君がいるのかな」


「それはこっちのセリフだな」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?