「ごめん、ヒロ。私のせいで……」
「違う」
手の中の生徒手帳を強く握りしめる。
「これは、俺の責任だ」
窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
重苦しい空気の中、俺はふと手の中の生徒手帳に目を落とした。
「これ……」
水原の住所が目に入る。
青葉台のマンション。高級住宅地として知られる場所だ。
「ヒロ?」
「このまま、終わらせるわけにはいかない」
リセはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「私も行く」
「いや、一人で──」
「ダメ」
リセがきっぱりと言い切る。
「もう、ヒロに一人で抱え込ませない」
その目には強い意志が宿っていた。
俺は小さくため息をつく。
「……分かった」
学校から歩いて20分。高級住宅街の真ん中で、俺とリセは足を止めた。
「ここ……なの?」
リセが小さく息を呑む。
「みたいだな」
水原の生徒手帳が記す住所はここを示している。
豪華なエントランス。制服姿の俺たちは、明らかに場違いな存在に見える。
あの時、彼女は月に百万円という法外な金額を提示した。それが可能なのも、こういう環境にいたからなのかもしれない。
チャイムを押す。返事はない。
「留守?」
リセが心配そうに俺を見上げる。
もう一度チャイムを押すと、ようやく中から物音が聞こえた。
「……誰?」
水原の声だ。普段の明るさは消え失せ、疲れたような声色が響く。
「俺だ」
一瞬の沈黙。
「帰って」
「話がある」
「なにも話すことない。もう……なにもないから」
その声には諦めと悲しみが混じっていた。
「5分でいい。それだけ話を──」
長い沈黙の後、水原が小さなため息をつく。
「……入って」
扉が開く。
水原は俺たちを見ようともせず、リビングへと向かう。
テーブルに座った水原は、ずっと俯いたままだ。
「ご両親は?」
リセが周りを見回しながら尋ねる。
「いない。いつもいない」
そっけない返事。
重苦しい空気が流れる。
「なんで、ここまで来たの?」
水原が静かに尋ねる。
その声には疲れが滲んでいた。
「あたしのこと、もう十分バカにしたでしょ」
「バカにしてなんかいない」
「じゃあなに?」
水原の声が少し強くなる。
「どうして、リセちゃんまで連れてきたの?」
その言葉に、リセが小さく息を呑む。
「あたし、川崎くんにだから打ち明けたの。川崎くんなら分かってくれるって信じてたから」
水原の声が震える。
「なのに、どうしてリセちゃんにまで話そうとするの? あたしのこと、守ってくれないの……?」
水原の目には、もう涙が溢れそうになっていた。
「あたし、これでも結構頑張ってたんだよ」
水原は俯いたまま、震える声で続ける。
「川崎くんにだけは分かってほしかったの。あたしがどれだけ……」
「水原……」
水原は膝の上で拳を強く握りしめていた。
「もういい。川崎くんが味方してくれるなら、それでよかったの。なのに……」
水原の目から涙が零れ落ちる。
「川崎くんまであたしを裏切るなんて……」
その瞬間、俺は決心した。
「水原。聞いてくれ」
その声に、水原は驚いたように顔を上げる。
「俺はお前のことを理解したいと思ってる」
水原は黙ったまま、俺の顔を見つめる。
「お前がどれだけ辛い思いをしていたのか、俺には想像もつかない。でも、それでもお前を守りたいと思っている」
水原は目を伏せたまま、小さく首を振る。
「嘘。川崎くんはあたしを裏切った。もう信用できない」
その言葉に胸が痛む。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。
「確かに俺は水原との秘密をリセに話そうとした。それは間違いだったと思ってるだ」
水原は俯いたまま動かない。しかし、俺の言葉は届いているはずだ。
「俺はお前のことを理解したい。そして、お前を守りたいと思っている。それが本当の気持ちなんだ」
水原はゆっくりと顔を上げる。その目には涙が浮かんでいるが、その表情には希望の光が少しだけ宿っていた。
「川崎くん……」
その声は弱々しいが、確かに俺に向けて発せられた。
「俺はお前のことを信じてる。だから、お前も俺を信じてくれないか?」
「川崎くん……本当に、そう思ってるの?」
水原の声は震えていた。目尻に浮かんだ涙が、頬を伝って落ちる。
「ああ」
リビングの空気が、わずかに変化した。
「私、水原先輩のことを誤解してました。先輩のことを知ろうともせずに、ただ嫌な先入観だけで見てた。ヒロを取られたくなかったから。だから、私も謝らないといけないですね。ごめんなさい」
リセがゆっくりと口を開く。
水原は黙ったまま、視線を落とす。
「白野先輩が言ってた。先輩のお父さんから、なにか伝えたいことがあるって」
俺は慎重に言葉を選びながら切り出した。
「それって、どういうことなんだ?」
水原は一瞬、表情を強張らせた。
しかし、今度は昔のように逃げ出すことはなかった。
「……父さんの会社が、危険なの」
「危険って?」
「詳しくは分からない。でも、最近父さんの様子がおかしくて。夜中に誰かと電話してたり、書類を急いで燃やしてたり」
水原の声が少し震える。
「それに、見知らぬ怖い人たちが家に来るようになって。お金が必要だとか、示談にしろとか、そんな話をしてるのが聞こえてきて……」
「示談?」
「うん。車で轢いちゃったみたいなの」
俺とリセは思わず息を呑む。
「ヤクザみたいな人を……?」
リセが恐る恐る尋ねる。
水原は一瞬ためらい、それから小さく口を開く。
「ううん。でも、あながち間違ってないかも。白野先輩のお父さんって、父さんの会社の副社長だったの。でも半年前に急に辞めて。父さんは『あいつが勝手に辞めただけだ』って言ってたけど……」
「本当は違うんだな?」
「うん。白野先輩から聞いたの。白野さんが父さんの会社の不正に気付いて、それを告発しようとしたから……父さんが車で、わざと……」
言葉が途切れる。
だが、その意味するところは十分に伝わってきた。
「でも、死ななかった?」
「うん。でも大怪我して、今でもリハビリ中みたいで……。父さんは示談金で済ませようとしたみたい。でも、白野さんは受け取らなかった。そのかわり、息子の晴人先輩と、あたしを……」
「許婚にしろって?」
水原は苦しそうに頷く。
「父さんは必死だった。このことが公になったら、会社も家族も全部終わりだって。だから、白野さんの家との縁組で、なんとか穏便に済ませようとしたの」
「それで、白野とお試し交際することになったのか」
「うん。でも、白野先輩のやり方は違った。あたしを自分の物にしようとして、束縛してきて。それに耐えられなくなって、別れを告げたら……」
「噂を広められた」
俺の言葉に、水原は静かに頷く。
「白野さんは、父さんの会社の不正の証拠も握ってるみたいで。それを警察に出すって脅してきたの。だから父さんは、あたしにもう一度、白野先輩と付き合えって……」
水原の声が途切れる。
堪えていた涙が、また零れ落ちる。
「でも無理だよ。あの人の歪んだ愛情はあたしには重すぎて……」
「だから俺に彼氏役を頼んだのか」
「うん。白野先輩を遠ざけるためだけじゃなくて。あたし自身が、誰かに守ってもらいたかった」
その言葉に、胸が締め付けられる。
と、その時、ガチャリと玄関が開く音がした。
「っ」
水原が肩を上下させる。
「しおり? 甘いもの買ってきたよ。一緒に食べよ」
白野の声が響く。
「何で白野が……」
「ウチの合鍵持ってるの……」
突然の事態に当惑したのも束の間、白野はゆっくりとリビングに入ってくる。
「……どうして君がいるのかな」
「それはこっちのセリフだな」