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第16話 キス

 その日の放課後。


 俺は教室の窓から外を眺めていた。昼休みの出来事が、まだ頭の中でぐるぐると回っている。


「ヒロ」


 後ろから声がした。振り返ると、リセが立っていた。


「どうした?」


「今日、一緒に帰らない?」


 リセは少し遠慮がちに言う。その表情には、朝の出来事の名残りなのか、どこか緊張感が残っていた。


「ああ、悪いな。今日は水原と──」


「やっぱりそうなんだ」


 リセは俯いて、制服のスカートを軽く握りしめた。


「リセ?」


「ううん、なんでもない。また今度ね」


 リセが踵を返そうとした時、教室の入り口から水原が顔を覗かせた。


「川崎くーん、もう準備できた?」


「ああ、今行く」


 水原は俺の返事を聞くと、リセの存在に気づいて軽く会釈をした。


「あ、リセちゃんもいたんだ。ごめんね、今日は川崎くんと約束あるの」


 リセは小さく頷いただけで、それ以上何も言わなかった。


「じゃ、行こっか」


 水原に促され、俺は教室を出る。背後でリセの視線を感じたが、振り返ることはできなかった。


「ねぇ、川崎くん」


 学校を出てすぐ、水原が声をかけてきた。


「なんだよ」


「リセちゃんのこと気になってる?」


「……なんでそう思う?」


「だって、さっきから後ろ振り返りたそうにしてるもん」


 俺は思わず足を止めた。水原も同じように立ち止まり、俺の顔をじっと見つめてくる。


「川崎くんってさ、リセちゃんのこと好きなの?」


「は?」


「だって、さっきからリセちゃんのこと気にしてるじゃん。朝だってあんなに必死に追いかけて説明してたし」


 水原の言葉に、俺は言葉に詰まった。


「ただの幼馴染だ。それ以上でもそれ以下でもない」


「本当にそうなの?」


 水原の問いかけに、妙な違和感を覚える。


「お前に言われたくないんだけど」


 俺の言葉に、水原は少し目を細めて笑った。


「そうだね。あたしたちだって偽物の恋人同士だもんね」


 その言葉に、なんとも言えない感情が胸の中でざわついた。


「てか、どこ行くんだよ」


「今日はね、白野先輩が来るかもしれない場所に行くの」


「は?」


「彼氏役のお仕事だよ? あたしたちが付き合ってるって白野先輩に見せつけないと意味ないでしょ」


 俺は思わず額に手を当てた。


「お前な……」


「大丈夫だよ。川崎くんは演技上手そうだし」


「誰が上手いって」


 軽口を叩き合いながら、俺たちは駅前の商店街へと向かった。


 人通りの多い繁華街に入ると、水原は自然と俺の腕に手を絡ませてきた。


「ちょ……」


「彼氏彼女らしく見せなきゃダメでしょ?」


 そう言いながら、水原は辺りを警戒するように見回している。


「白野先輩、よくここで待ち伏せしてるの」


「ほんとストーカーじみてんな」


「でしょ? だから困ってるんだってば」


 水原は俺にもたれかかるような仕草をしながら、甘えた声を出す。その演技がやけに自然で、思わず背筋が硬くなる。


「あ」


 水原が突然声を上げた。視線の先には、噂の白野の姿があった。


 彼は俺たちに気づいていないようで、スマホを見ながら立っている。


「見つかったら自然に振る舞って。デートしてるカップルってことで」


「へいへい……」


 空返事をした瞬間。


「しおり!」


 白野が俺たちに気づき、大きな声を上げる。水原はそんな白野に対して明るく手を振り返した。


「あ、白野先輩。こんにちは」


「また、この男と一緒か……」


 白野は俺を値踏みするような目つきで見る。


「はい。だって川崎くんは、あたしの彼氏ですから」


 水原は更に俺の腕にしがみつきながら、挑発的に言い放つ。


「……本当に付き合ってるの?」


「なんの権利があってそんなこと聞くんですか?」


 俺は水原を庇うように前に出て、白野を睨みつけた。


「俺たちが付き合ってるのは事実だ。いい加減、水原に構うのはやめてくれ」


 白野は一瞬、動揺したように目を見開いた。しかしすぐに冷たい視線を取り戻す。


「……本当に、そうなのか?」


「なにが言いたい?」


「二人の関係。作り物じゃないの?」


 その言葉に、俺と水原は一瞬、息を呑んだ。しかし、水原はすぐに笑顔を取り戻す。


「なんですかそれ。作り物?」


「僕には、そう見える。この男との関係、演技じゃないの?」


 俺は内心で焦りを感じながらも、できるだけ平静を装う。


「へえ、俺たちの関係が演技に見えるってのか」


「ああ。まるで、金で雇われた役者みたいにね」


 水原の手が、わずかに震えるのを感じた。


「……本当にそう思うのか?」


 俺は一歩、白野に近づく。


「なら、こういうのはどうだ」


 俺は水原の肩を抱き寄せ、そのまま唇を重ねた。


「……!」


 水原の体が一瞬硬直する。だが、すぐにその意図を理解したのか、自然と目を閉じた。


「────」


 白野は絶句したように、その場に立ち尽くしている。


 キスは数秒で終わった。離れた時、水原の顔は真っ赤になっていた。


「これでも演技に見えるか?」


 白野は歯を食いしばり、拳を握りしめる。


「……お前、覚えておけよ」


 捨て台詞を残し、白野は踵を返して立ち去った。その背中が見えなくなってから、俺は水原の肩から手を離す。


「……ごめん。ちょっとやりすぎた」


「う、ううん。あたしこそ、ごめん。川崎くんにこんなことさせちゃって……」


 水原は顔を真っ赤にしたまま、俯いている。その仕草に、妙な罪悪感を覚えた。


「とりあえず、帰るか」


「うん……」


 俺たちは無言で駅に向かって歩き出す。


 人混みの中、水原は相変わらず俺の腕に手を絡ませたままだった。だが、その手には先ほどまでの自然な演技っぽさはなく、どこか緊張が漂っている。


「あの、川崎くん」


 駅に着く直前、水原が小さな声で呼びかけてきた。


「なんだ?」


「あれって……その、キスって……」


「あー……」


 俺は思わず頭を掻く。


「演技、だよね?」


 水原の問いかけに、一瞬言葉が詰まる。


「ああ、まぁ……そうだな」


「そっか……」


 水原の声が、どこか物憂げに響いた。


「とにかく、白野の奴は当分現れないだろ。あんなことされて、しばらくは諦めるはずだ」


「うん。ありがとう、川崎くん」


 俺たちは駅のホームで別れた。電車に乗り込む水原の背中を見送りながら、妙な感情が胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。

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