翌朝、目が覚めると、隣から何やら物音がした。
「あ、おはよー」
「これは?」
「見ての通り朝ご飯」
起き上がると、エプロン姿の水原がキッチンに立っていた。
テーブルの上には簡素だが美味しそうな朝食がズラリと並んでいる。
「どう? あたし、これでも料理得意なんだよ」
「すげえ……」
素直に感心していると、水原が少し照れくさそうに笑った。
「泊まらせてもらったから特別にね。……まぁ、これからも川崎くんが一緒にいてくれるなら、色々作ってあげてもいいけど」
「あのな……」
水原は向かいに座って、両手を広げる。
「ほら冷めちゃう前に食べて食べて」
「あ、ああ、いただきます」
「はい。いただきまーす」
これが彼女との奇妙な生活の、ほんの始まりに過ぎないことを、この時の俺はまだ知らなかった。
登校時間が近づき、俺は靴にカカトを入れる。
バッグを持ち手を握りながら、チラリと左側に視線をやった。
「俺、先に行けって言ったよな?」
「だって、一緒に行った方が楽しいじゃん」
同じ家から同時に出てくるところを見られたらどう思われるかとか、コイツは考えないのだろうか。まぁ、この辺りを通学路にしている学生は珍しいから、大丈夫だとは思うが。
「早くしないと遅刻するよ?」
「……ったく」
俺は吐息を漏らし、彼女の後に続く形でドアを開けた。すると、少し遠慮がちな声と共に、見覚えのある影が近づいてきた。
「お、おはようヒロ」
「リセ? なんでここに」
俺は思わず声を上げた。水原も驚いた様子で俺の横顔を見ている。
「寄り道してたらヒロの家の近く通ったから、それで……」
リセが途端に表情を凍らせて口を閉ざした。
水原の存在に気づいたからだ。
「あ、いやこれはなんていうか……」
言い訳をしようと口を開くが、リセの目は鋭くなり、俺と水原を交互に見つめている。
「どうして水原先輩が、ヒロの家から出てくるの?」
場の空気が一気に引き締まる。
しかし水原はにこやかにリセに向かって声を上げた。
「あたしが川崎くんの家から出てきたらダメ?」
「…………」
水原の明るい声が響くが、リセの表情はどんどん曇っていく。
「リセ?」
名前を呼ぶと、リセはわずかに顔を上げた。しかし、その表情はどこかぎこちない。
「邪魔してごめん。私、先に行くね」
「ま、待てよ。邪魔とか、そんな──」
俺が言い終える前に、リセは踵を返して早足で歩き出す。その背中が遠ざかるのを見て、俺は無意識に足を動かした。
「待って、川崎くん」
水原が俺の腕を掴んで引き止めてくる。
「今は、追いかけない方がいいんじゃないかな」
その言葉に、一瞬足が止まる。
けど、胸の中で湧き上がる焦りが、それを押し流した。
「変に誤解されたまま見過ごせない。離してくれ」
「あ、川崎くん!」
背後から水原の声が追いかけてくるが、振り返ることはしなかった。
五分ほど走り回り、公園のベンチでうつむくリセを見つけた俺は、胸がざわつくのを感じながら駆け寄った。
「リセ!」
「ヒロ?」
俺は足を止め、少し息を整えてから。
「誤解させるようなことになってごめん」
リセは視線を逸らし、少しだけ首を横に振った。
「謝らなくていいよ。ヒロが水原先輩と一緒にいる理由なんて──」
「いや、よくない。リセは多分、勘違いしてる」
俺は彼女の言葉を遮り、できるだけ誠実に伝えようとする。
「昨日、水原を一晩家に泊めたんだ。家に帰りたくないって言うから放っておくわけにいかなくてそれで……でも、それ以上のことは何もない。本当に、なにもしてない」
リセはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……本当に?」
「ああ、俺が嘘ついてるように見える?」
リセは少しだけ目を細め、俺の顔をじっと見つめた。その表情にはまだ疑いが混じっていたが、同時にわずかな安堵の色も見えた。
「……分かった。ヒロを信じる」
「はぁ、よかった。ありがとう」
「でも、ヒロと水原先輩は付き合ってるんでしょ? 別に、なにかあってもいい関係。それに私に弁明する必要はないと思う……」
リセの声が再び重くなり、俺は息を呑む。
「それは……なんていうか、色々ややこしくて上手く説明できないんだけど、とにかくリセにだけは勘違いされたくないんだよ」
俺がそう言うと、リセは俯き、両手をぎゅっと握りしめた。
「それ、どういう意味?」
「どういうって……リセには一番、俺のことを分かってほしいっていうか」
リセは驚いたように俺を見つめていた。その瞳の中に、戸惑いと少しの期待が交じっていて、頬がわずかに赤らんでいる。
「なんで、急にそんなこと……?」
「急じゃねえよ。リセには俺のことちゃんと分かってもらいたいってずっと思ってる。リセとギクシャクするのは嫌なんだよ」
リセはぎゅっと自分のスカートを握りしめた。そして、小さな声で呟く。
「……私のことが大事ってこと?」
「大事に決まってるだろ。……幼馴染だし」
リセの顔に微妙な表情が浮かんだ。
ほんの少し、嬉しそうで、でもどこか複雑な表情。
「ふーん。まあ、ヒロがそう思ってくれるなら私も頑張る。水原先輩と、上手くやれるように」
「え?」
予想外の言葉に、俺は驚いてリセを見た。
「だって、水原先輩はヒロの大事な人でしょ?」
リセの言葉に、胸が締め付けられるような感覚が広がる。彼女は微笑もうとしているけど、その表情にはどこか無理がある。
「いや、それは──」
言葉が喉に詰まる。このまま正直に話してしまいたい衝動が込み上げるけど、過去の水原とのやり取りが頭をよぎる。
「……それは?」
リセが首をかしげ、問いかけてくる。
その視線から逃げられず、俺は歯を食いしばった。
「いや……なんでもない。ただ……」
これ以上言葉を続けようとした瞬間、不意に背後から声が響いた。
「あ、やっと見つけた」
振り返ると、そこには水原が立っていた。
「そろそろ行かないと、遅刻しちゃうよ?」
「え、ああ、そうだな」
水原はずかずかと近づいてきて、俺の腕を掴む。そしてそのままぐいっと引っ張った。
「ほら行こ。リセちゃんも、早くしないと本当に遅刻だよ?」
振り返りながら明るく言う水原に、リセは小さく頷いてついてくる。
結局、俺たちは三人で並んで学校に向かった。
妙な空気が漂っていたのは間違いないけど、今はどうすることもできない。
遅刻するよりマシか。
そう自分に言い聞かせながら、俺は歩みを進めた。