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第12話 彼氏になってよ


 アパートに着くと、俺は鍵を開けて水原を中に招き入れた。


「狭いし散らかってるけど、我慢しろよ」


「うん……」


 水原は小さく答え、部屋の隅に腰を下ろした。その表情はどこか疲れ切っていて、俺は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して渡した。


「これ」


「あ、ありがと」


 彼女は静かに水を飲み、しばらく黙り込んだ。俺も無理に話しかけたりはせず、ポチポチとスマホをいじる。


「川崎くん」


「ん?」


「……聞かないの?」


「なにを?」


「さっき、あいつらが言ってたこと。パパ活とか……」


 水原が伏せていた顔をわずかに上げ、俺の様子を伺うようにする。その目には不安が浮かんでいた。俺は軽くため息をつき、テーブルにスマホを置く。


「聞いて欲しいのか?」


 水原は少し困ったような顔をして、目を伏せた。


「……わかんない。でも、何も言わないでいるのも……嫌かも」


 静かな部屋に、水原の不安が染み込んでいく。


「……だったら聞くけど」


 水原はしばらく口をもごつかせていたが、やがて意を決したように切り出した。


「まず最初に言っときたいんだけど、あたし、パパ活なんかしてない。でも、そういう噂が学校で広がってるんだよね……」


 水原の声は震えていた。


「事実じゃないのに、どうしてそんな噂が立つんだよ」


 俺が尋ねると、水原は眉をひそめ、俯いたまま続きを話し始めた。


「あたし、元彼の対応に困ってるって言ったでしょ。でも正確に言うと白野先輩は、元彼っていうか許婚? みたいな感じで」

「許婚?」


 時代錯誤も甚だしいワードが飛び出し、俺は反射的に聞き返した。


「うん。子どもの頃は全然気にしてなかったけど、成長するにつれて色々と面倒なことになってさ」


 水原は苦笑いを浮かべたが、その目には明らかに疲れが滲んでいた。


「白野先輩とは許婚だからあたしが高一の時から、お試しみたいな感じで付き合ってたんだ。でも束縛強いし、価値観合わないし、恋愛対象になれなくて……別れましょうって言ったの。けど、そしたらすごい怒って。そのあとくらいかな? いきなり学校中で変な噂が広がり始めたの。あたしがパパ活してるとか、男遊びが激しいとか……。だからきっと白野先輩が広めたんだと思う。問い詰めてもしらばっくれてたけど、影では何するかわかんない人だから」


「……最低だな」

 思わず言葉が口をついて出た。水原の話を聞くうちに、腹の底から怒りが湧いてくるのを感じた。


「でも、どうしようもないんだよね。噂を払拭できる証拠もないし、先生に言っても信じてもらえない。むしろ、あたしが問題児扱いされてるくらい……」


 水原の声は次第に小さくなり、最後にはほとんど囁き声になっていた。


「あたし、何も悪いことしてないのに、誰も信じてくれない。学校の友達も、先生も、みんな噂を信じて……」


 彼女は拳をぎゅっと握りしめ、目を潤ませながら言葉を吐き出した。


「だから、今日だってあんな風に絡まれて……」


 その言葉とともに、ついに水原の頬に一筋の涙が流れた。


 俺は水原の拳にそっと手を添えた。彼女が驚いたように顔を上げる。


「ねえ、川崎くん……」


「なんだ?」


 水原は少し言いづらそうに俯きながら続けた。


「……あたしの味方になって」


「別に端から敵対してねえよ」


「そうじゃなくて……もっとこう、誰にも邪魔されない味方、っていうか……」


「は?」


 水原は一瞬ためらった後、小さな声で言った。


「……だから、えっと……あたしの彼氏になって、よ」


「どうして俺なんだ? 俺よりも彼氏役の適任はいくらでもいると思うんだが」


 俺が呆れたように返すと、水原は俯きながら続けた。


「川崎くんって変わらないよね」


「何が?」


「ううん、なんでもない。こっちの話」


 水原はすぐに笑みを浮かべてごまかしたが、その目にはどこか懐かしさが漂っているようだった。


「なんだよ。気になるだろ」


「気にしないで。本当に大したことじゃないから」


 そう言いながらも、水原はどこか遠くを見るような目をしていた。けれど、それ以上話す気はなさそうだ。俺も無理に追及するほど野暮じゃない。


「ま、ならいいけど」


 俺が肩をすくめると、水原は軽く微笑んで頷いた。その仕草には、何か言いたげな気配が残っていたが、それを口にすることはなかった。


「でもね、あたしが頼れるのは川崎くんだけなの。それに、川崎くんにも悪い話じゃないから」


「っていうと?」


「この前は一日三万円だったから……一ヶ月だったら、うん、キリよく百万円」


「は?」


「あたしの彼氏になってくれたら、報酬として月に百万円あげる」


 その酔狂な提案に、俺は言葉を失った。


「……何言ってんだよ。大体そんな大金、どっから持ってくるんだよ」


「それは大丈夫。支払い能力はあるから」


「いやそういう問題じゃねえ。大体、俺が彼氏をやれば噂の件が何とかなると思ってるのか?」


「うん。……それに、もし何かされそうになっても、川崎くんなら守ってくれるって思うから。さっきみたいに」


 水原の言葉には、切実な思いが滲んでいた。


「それに川崎くん、色々と訳ありでしょ? 高校生で一人暮らしって珍しいし。あたしも川崎くんの力になれるなら嬉しいなって思ってるの。ほら、持ちつ持たれつっていうか」


 水原は少しおどけたように笑ってみせたが、その瞳は真剣そのものだった。


「……だからって百万はやりすぎだろ」


「そんなことないよ。そのくらいの価値はあると思ってる」


 俺は言葉に詰まった。水原の頼みはあまりにも現実離れしていて、正直、真面目に考えるべきなのかも迷う。


「あたしには、川崎くんの力が必要なの。本気で助けてくれる人の力が」


「そう言われてもな……」


 水原は俺の困惑を見透かすように小さく笑った。そして、テーブルに両肘をついて顔を少し近づけてくる。


「……少し考えさせてくれ。答えはすぐには出せねえよ」


「わかった、待ってる」


 俺がそう答えると、水原は満足そうに微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、俺は心のどこかで、この話から逃れることはできないんだろうなと思った。


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