アパートに着くと、俺は鍵を開けて水原を中に招き入れた。
「狭いし散らかってるけど、我慢しろよ」
「うん……」
水原は小さく答え、部屋の隅に腰を下ろした。その表情はどこか疲れ切っていて、俺は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して渡した。
「これ」
「あ、ありがと」
彼女は静かに水を飲み、しばらく黙り込んだ。俺も無理に話しかけたりはせず、ポチポチとスマホをいじる。
「川崎くん」
「ん?」
「……聞かないの?」
「なにを?」
「さっき、あいつらが言ってたこと。パパ活とか……」
水原が伏せていた顔をわずかに上げ、俺の様子を伺うようにする。その目には不安が浮かんでいた。俺は軽くため息をつき、テーブルにスマホを置く。
「聞いて欲しいのか?」
水原は少し困ったような顔をして、目を伏せた。
「……わかんない。でも、何も言わないでいるのも……嫌かも」
静かな部屋に、水原の不安が染み込んでいく。
「……だったら聞くけど」
水原はしばらく口をもごつかせていたが、やがて意を決したように切り出した。
「まず最初に言っときたいんだけど、あたし、パパ活なんかしてない。でも、そういう噂が学校で広がってるんだよね……」
水原の声は震えていた。
「事実じゃないのに、どうしてそんな噂が立つんだよ」
俺が尋ねると、水原は眉をひそめ、俯いたまま続きを話し始めた。
「あたし、元彼の対応に困ってるって言ったでしょ。でも正確に言うと白野先輩は、元彼っていうか許婚? みたいな感じで」
「許婚?」
時代錯誤も甚だしいワードが飛び出し、俺は反射的に聞き返した。
「うん。子どもの頃は全然気にしてなかったけど、成長するにつれて色々と面倒なことになってさ」
水原は苦笑いを浮かべたが、その目には明らかに疲れが滲んでいた。
「白野先輩とは許婚だからあたしが高一の時から、お試しみたいな感じで付き合ってたんだ。でも束縛強いし、価値観合わないし、恋愛対象になれなくて……別れましょうって言ったの。けど、そしたらすごい怒って。そのあとくらいかな? いきなり学校中で変な噂が広がり始めたの。あたしがパパ活してるとか、男遊びが激しいとか……。だからきっと白野先輩が広めたんだと思う。問い詰めてもしらばっくれてたけど、影では何するかわかんない人だから」
「……最低だな」
思わず言葉が口をついて出た。水原の話を聞くうちに、腹の底から怒りが湧いてくるのを感じた。
「でも、どうしようもないんだよね。噂を払拭できる証拠もないし、先生に言っても信じてもらえない。むしろ、あたしが問題児扱いされてるくらい……」
水原の声は次第に小さくなり、最後にはほとんど囁き声になっていた。
「あたし、何も悪いことしてないのに、誰も信じてくれない。学校の友達も、先生も、みんな噂を信じて……」
彼女は拳をぎゅっと握りしめ、目を潤ませながら言葉を吐き出した。
「だから、今日だってあんな風に絡まれて……」
その言葉とともに、ついに水原の頬に一筋の涙が流れた。
俺は水原の拳にそっと手を添えた。彼女が驚いたように顔を上げる。
「ねえ、川崎くん……」
「なんだ?」
水原は少し言いづらそうに俯きながら続けた。
「……あたしの味方になって」
「別に端から敵対してねえよ」
「そうじゃなくて……もっとこう、誰にも邪魔されない味方、っていうか……」
「は?」
水原は一瞬ためらった後、小さな声で言った。
「……だから、えっと……あたしの彼氏になって、よ」
「どうして俺なんだ? 俺よりも彼氏役の適任はいくらでもいると思うんだが」
俺が呆れたように返すと、水原は俯きながら続けた。
「川崎くんって変わらないよね」
「何が?」
「ううん、なんでもない。こっちの話」
水原はすぐに笑みを浮かべてごまかしたが、その目にはどこか懐かしさが漂っているようだった。
「なんだよ。気になるだろ」
「気にしないで。本当に大したことじゃないから」
そう言いながらも、水原はどこか遠くを見るような目をしていた。けれど、それ以上話す気はなさそうだ。俺も無理に追及するほど野暮じゃない。
「ま、ならいいけど」
俺が肩をすくめると、水原は軽く微笑んで頷いた。その仕草には、何か言いたげな気配が残っていたが、それを口にすることはなかった。
「でもね、あたしが頼れるのは川崎くんだけなの。それに、川崎くんにも悪い話じゃないから」
「っていうと?」
「この前は一日三万円だったから……一ヶ月だったら、うん、キリよく百万円」
「は?」
「あたしの彼氏になってくれたら、報酬として月に百万円あげる」
その酔狂な提案に、俺は言葉を失った。
「……何言ってんだよ。大体そんな大金、どっから持ってくるんだよ」
「それは大丈夫。支払い能力はあるから」
「いやそういう問題じゃねえ。大体、俺が彼氏をやれば噂の件が何とかなると思ってるのか?」
「うん。……それに、もし何かされそうになっても、川崎くんなら守ってくれるって思うから。さっきみたいに」
水原の言葉には、切実な思いが滲んでいた。
「それに川崎くん、色々と訳ありでしょ? 高校生で一人暮らしって珍しいし。あたしも川崎くんの力になれるなら嬉しいなって思ってるの。ほら、持ちつ持たれつっていうか」
水原は少しおどけたように笑ってみせたが、その瞳は真剣そのものだった。
「……だからって百万はやりすぎだろ」
「そんなことないよ。そのくらいの価値はあると思ってる」
俺は言葉に詰まった。水原の頼みはあまりにも現実離れしていて、正直、真面目に考えるべきなのかも迷う。
「あたしには、川崎くんの力が必要なの。本気で助けてくれる人の力が」
「そう言われてもな……」
水原は俺の困惑を見透かすように小さく笑った。そして、テーブルに両肘をついて顔を少し近づけてくる。
「……少し考えさせてくれ。答えはすぐには出せねえよ」
「わかった、待ってる」
俺がそう答えると、水原は満足そうに微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、俺は心のどこかで、この話から逃れることはできないんだろうなと思った。