──放課後
俺は裏門前で水原を待っていた。
裏門を使う生徒はほとんどいないから、周囲は閑散としている。
俺は三万円をポケットにしまったまま、スマホをいじって時間を潰す。と、後ろから足音が近づいてきた。
「お待たせ、ダーリン♡」
猫撫で声とともに、水原が軽やかな足取りでこちらに歩いてきた。制服の上に真っ赤なコート。白いマフラーを巻いている。寒さにも負けず、どこか楽しげだ。
「遅かったな」
「む。そこは今来たとこだよ、でしょ?」
水原はあからさまに頬を膨らませ、ジト目で睨んでくる。
俺はポケットから三万を取り出し、水原に差し出す。
「それよりこれ」
「ん?」
「こんな金受け取れない」
「でもこれは君への報酬だし、受け取ってもらわないと困るよ」
「まず俺は取引を引き受けてない」
「んー、そう言われても今から他に人探してる暇ないんだよね。だから諦めて」
「いや諦めろって言われても」
「それじゃ行こっか」
「お、おい……」
水原は活気良く腕を前に突き出すと、俺の腕を引っ張った。その勢いで俺は少しよろめく。
「ちょ、ちょっと待てって」
「やだ」
「はぁ……ったく、どこに行く気だ?」
「それは着いてからのお楽しみ♪」
水原の言葉は軽やかだが、その背後に妙な確信が感じられた。俺は内心で不安を抱えつつも、腕を引かれるまま歩き続ける。
学校を出てから15分ほど経った頃、商店街の一角に差し掛かった。通りを見渡せば、休日でもないのにやけに賑やかだった。カラフルな屋台が並び、行き交う人々の笑い声や子どもたちのはしゃぎ声が響いている。
「なんだここ……」
「今日はここの冬祭りなんだよ。あたし、毎年楽しみにしてるんだ」
水原は鼻歌を口ずさみながら子どもみたいに目を輝かせていた。その無邪気な様子に少しだけ警戒心が薄れたが、すぐに我に返る。
「で、この場所に金で雇った彼氏と行きたかったと?」
「そうそう」
「そんな理由で納得すると思うか?」
「う……まぁ、そうだよねぇ」
俺が目尻を尖らせて視線を送ると、水原は苦い顔をして頬を指先で掻いた。
水原はキョロキョロと辺りを見回すと「やっぱ居た……」と呆れたようにこぼした。
「実はさ、元彼の対応に困ってんだよね、あたし」
「元彼?」
「ほら、あそこにいる人わかる?」
水原が指差した先に目をやると、そこには黒いジャケットを羽織った背の高い男が立っていた。短髪で整った顔立ち、鋭い目つきに無造作な立ち振る舞い。
彼は通行人に背を向け、スマホをいじっている。どこか余裕を漂わせているその様子から、近寄り難い雰囲気を感じる。
「あれがあたしの元カレ。
水原の声に一瞬動揺が混じるのを感じた。
「元カレって別れても色々と気まずいことあるでしょ? 特に、あの人……まだあたしに未練タラタラみたいで」
水原は困ったように笑った。
「未練ね……それなら話し合えばいいだろ?」
「それができたら苦労しないよ。あの人、全然話を聞いてくれないんだから。大学生のくせに余裕がないの余裕が! 別れ話した時、しばらく毎日学校の前で待ってたりしたんだよ?」
「ストーカーじゃねえか」
思わず呟くと、水原は「でしょ?」と頷いた。
「あの人、あたしがこの冬祭りに毎年行ってること知ってるから、ああやって待ち伏せしてんだよ。あたしが一人でいると、また何か言われそうだし……だから君に彼氏のフリをお願いしたってわけ」
俺は改めて水原の頼みの重さを感じながら。
「そんなややこしい状況に俺を巻き込むなよ……」
「君なら大丈夫かなって! 目つき悪いし力もありそうじゃん?」
「なんだその理由……」と呆れる俺を無視して、水原は急に俺の腕に絡みついてきた。
「ほらほら、彼氏っぽく振る舞ってよ? バレたら意味ないんだから」
「俺を盾に使うつもりか?」
「えへへ、最後まで付き合ってね」
水原は笑顔で腕をさらに強く絡ませる。その間にも元彼の白野がこちらに気づいたらしく、じっと俺たちを見つめている。
「……しおり!」
白野が声を上げながらこちらに歩み寄ってきた。
低い声には明らかな苛立ちが含まれている。
「やば、気づかれた。えっと取り敢えずダーリンは横に立っててくれればいいから」
「え、ああ、おお」
嫌な予感を覚えながらも、今から逃げ出すこともできず、俺はゴクリと生唾を呑む。
「ねえ……そいつ誰?」
白野は俺たちの目の前で立ち止まり、冷たい目で俺を睨みつける。
「この人は、あたしの彼氏です」
「彼氏って、いや嘘だよね……?」
その言葉には怒りと困惑が入り混じっている。
と、水原が俺の腕を強く引っ張った。
「今日付き合い始めたばっかりなんです。だから、お願いします白野先輩。もうあたしに構うのやめてください」
「……そ、そんな……なんでだよしおり」
「行こ、ダーリン♡」
「ああ、おう」
水原に強引な引っ張られ、俺たちは白野の前から立ち去った。
「さっきの奴、本当に大丈夫なのか?」
俺は人混みの中、まだ落ち着かない心を抱えながら水原に訊ねる。
「大丈夫、大丈夫。ああ見えて怖いことしない人だから。ただしつこいだけ」
水原は気にする素振りもなく、屋台の明かりに目を奪われながら歩いていく。たこ焼き屋の前で立ち止まり、「これ食べたい!」と指をさす姿は、さっきの張り詰めた空気を忘れさせるほどだった。
「お前、本当に肝が座ってるな……」
「そうかな? まぁ、そういうの慣れてるのかもね」
慣れてる……?
「ほら、たこ焼き買お!」
水原は俺の腕を引っ張り、無邪気に屋台のおじさんに注文を始めた。その横顔はどこか楽しげで、元カレの話なんて微塵も感じさせない。俺が代わりに財布を出そうとすると、彼女がすかさず手を出して制した。
「今日はあたしのおごり。君はただ楽しんでればいいの」
「三万も渡した上に奢りって……随分と金使い荒いな」
「いいのいいの。ダーリンには優しくしないと♡」
冗談めかした言葉に俺は呆れながらもたこ焼きを受け取る。熱々のたこ焼きを口に放り込む彼女を見ていると、自然と緊張がほぐれていった。
しかし、そんな穏やかな空気を壊すように、不意に背後から低い声が聞こえてきた。
「しおり……」
振り向くと、白野が立っていた。人混みの中でも一際目立つその存在感は、寒空の下でも冷たい汗をかかせるほどの迫力がある。
「白野先輩……」
さっきまでの明るい表情を消し、水原が小さく呟く。
「さっきの話、嘘だよね? こんな奴が、しおりの彼氏なわけないでしょ?」
白野は俺を見下ろし、挑発的な視線を送ってきた。その言葉にカチンときた俺は、無意識に口を開いていた。
「こんな奴とは失礼だな」
「……は?」
白野の顔が一瞬、驚きに歪む。水原も目を丸くして俺を見上げた。
「アンタがどう思おうが関係ないが、俺たちは付き合ってる。それが事実だ」
俺自身、どこから湧いてきたのかわからない勢いで言い切った。白野の鋭い視線がさらに強まるが、水原が俺の腕にしがみつきながら口を開いた。
「そうです。もう先輩とあたしは終わったんです。わかってください」
「……そう」
短く呟くと、白野は少しだけ顔を歪め、それ以上は何も言わずに踵を返した。その背中はやや力なく、俺たちに背を向けて消えていく。
「行ったか……?」
俺が呟くと、水原はふっと力を抜いてため息をついた。
「ありがと! 今の、すごく助かった!」
「別に。お前が変なこと頼むから、こうなっただけだろ」
ぶっきらぼうに答えると、水原は柔和な笑みを浮かべて。
「それでも、嬉しかったよ。本当にありがとう!」
俺はなんとも言えない気恥ずかしさを感じながら、もう一つたこ焼きを口に放り込んだ。