深緑色のジャンバーを着たひとが手を振りながら話しかけて来た。
「こんにちは」
「……」
「あの、聞いてる?」
その人はコンビニから出て来るや否や、すぐにぼくが座っている公園のベンチに足を進め、初対面だというのに不思議と自慢げに語り掛けて来た。
ぼくは鬱屈な身体を動かして彼女をみた。
「なんでしょう」
「君さ、ここで毎日コーンスープ飲んでるよね。あそこで買ってきて」
彼女は綺麗に整えられた人差し指で奥にあるコンビニをさす。ぼくは頷いた。
「そうだよね、よかった。人間違いだったらどうしようかと」
「あの、どこかで面識が?」
「ないよ?」と彼女はぼくの横に「よいしょ!」と言いながら座った。
「私は加藤。君は?」
「……伊藤ですけど」
「おや、『藤』仲間だね。奇遇だ、いいや、必然かも?」
訳の分からないことを上機嫌に話す彼女に、ぼくは内心で混乱した。しかしこのまま野放しにすると、彼女のマシンガントークが止まる気がしなかったので、ぼくは力を振り絞って、
「あの。本当に何なんですか?」
と切り込んだ。すると彼女はぴくりと肩を揺らして、うーんと天を見上げた。やっとみた彼女の風貌は清潔感のあるお姉さんといった具合で、黒髪のロングを肩に乗せ、耳にはあまり似合っていない豪華なイヤリングが光っている。紺色の長ズボンにジャンバーの中にはクリーム色のセーターを着ている。彼女は天を見上げ足を組んだ。
「強いていうなら」
彼女はふっと正面を向く。ぼくの方ではなく、目の前にあるブランコを見た。
「好奇心」
「はあ」
ぼくはため息に近いものを宙に飛ばす。
「そんな嫌悪感出さないでよ、ほらこれ、これでどうだい?」
彼女はそう言って二個入りのランチパック(たまご)を手渡してくる。これは? と仕草で問う。
「一緒に食べよう」
「全部はくれないんだ」
「金欠でね」
ぼくはそっと封を裂きサンドイッチを彼女にも手渡した。丁度小腹が空いていた時でもあったし、貰っていいというなら、と。ぼくは自分の分を口に運んで扇方の穴がサンドイッチに作る。
「食べたね。じゃあ雑談をしてくれるってことかな」
彼女の方をみると、既に彼女の手の中にあるはずのサンドイッチが消えていた。彼女は、食べるのが早いのだろう。そんなことより、ぼくは視線をあげると彼女の目線とぼくの目線が交わった。
内心では、取り乱してしまった。それは、ぼくが女性からグイグイ来られた経験が少ないせいだと思われる。
「まあいいですよ。なんです?」
ぼくは平静を装いながら言い放ち、コーンスープを飲む動作ついでに視線を逸らした。
「君って、どうしてこの時間にこの場所でコーンスープを飲んでいるの?」
その台詞を聞いて、彼女が先ほど好奇心で動いていると言っていたことを思い出す。変に肩透かしをくらったような気持ちになった。
「習慣ですよ」とぼくは言う。「この時間に散歩するのが日課なんです」
「こんな深夜に?」
「はい。日中は起きていないので」
「見たところ学生かなって思っていたんだけど、もしかして違う?」
「いえ、ぼくは学生ですよ」
ぼくはコーンスープをもう一度啜る。
「不登校なんです。学校生活に慣れなくて」
「ははん。なるほどね」
ぼくの答えに納得したのか、彼女はそう言いながらブランコの方をみた。その時ふと冬の風が音をたてた。ぼくと彼女は身じろぐ。
「んじゃさ、夜行生活はどうなの?」
「どう?」
「ほら、心地いいとかあるんだよね。私、散歩ってただ歩いているだけだと思ってないんだけど」
変な事を聞くもんだなと感じながらも、少し考えてみる。
「気晴らしが六割、コンビニで食べ物を買うのが三割、外の空気を吸うのが一割……ですかね」
「食べ盛りだもんね。コンビニで豪遊は若くて羨ましいよ」
「あなたはしないの?」
「するっちゃするけど、それで楽しめるのは子供だからだと思う。大人になるとほら、時間に追われてゆっくり出来ないからさ」
ふうん。とぼくは相槌をうつ。
「でもあなたはここにいる。それはどうして?」
「私の事?」
ぼくは頷いた。
「別に警戒してほしくないんだけど、私は日中教師をしてるんだ」
彼女はブランコを見ながら言った。ぼくはぞっとした。
ぼくにとって教師は録音データと似た物だ。それは繰り返し同じようなことをループしていうので、そう思っている。定番でいうなら『友達がいるよ』だ。決まり文句だと毒づいて聞かないようにしているが。
「じゃあ」
ぼくは自らを教師と名乗った彼女を見ないで、ブランコを眺めながら訥々と言う。
「ぼくはこれから説教ですか?」
「なんで?」
彼女はすぐさまそう言った。妙に食い気味だったので多少狼狽える。
「だって教師なんでしょ? この時間にコンビニで買い食いしてる学生がいたら、普通は気難しい顔をしてしまうのではないかと」
「気難しい顔か。逆だよ逆」
逆? と首を傾げる。
「教師失格だけど、私は君みたいな人の方が、ある意味好ましく感じるんだ。如何せん、下手に社会に出た事があるからさ。真面目な子とか見てるほうが、内心気難しい顔をしてると思うよ」
「……ほんとうに失格ですね。非行少年をみて喜ぶ教師とか、中々いないと思いますよ」
そういうと彼女は「非行万歳」と片手を掲げた。ぼくは一瞬だけ周囲の目が怖くなったが、周囲をじっと見て回るとそこには暗闇ばかりで、すぐ気にならなくなる。
「なら本当に、ぼくに声をかけたのは好奇心ですか?」
「もちろん」
「変な人ですね」
「日ごろは真面目なんだよ?」
ぼくは息を落として、コーンスープをまた啜った。そして冬の夜空をみようと頭をあげ、食べ終わったランチパックを包んでいた袋が手元で音を鳴らす。
「伊藤くんはさ」
「はい」
「将来の不安はある?」
「ありますよ」
ぼくは目線を落とす。ブランコの根元あたりをじっと凝視した。
「学もなければ信頼もない。友達もいなければ、対人関係は苦痛に感じる。いうなればぼくは社会不適合者ですから、それなりに不安やらありますよ」
「そうか」
彼女は空返事を飛ばして背もたれに体重をかけた。
「私も同じだ」
「……」
「私も将来が不安でしかたない。定職にはついたが本心で生きることを封じたから、苦心ばかりで疲れる。酒で飛ばせと助言されたこともあるけど、酒は弱くてね」
「確かに、悪酔いしそうですね」
「わかるもんなの?」
いえ、偏見ですよ。とぼくは投げやりに言う。
「まあさ、そんなもんっていうと楽だけど、やっぱり『普通』っていうのは『理想』だよ。折り合いつけて心を殺して、生きるためにせこせこ働いて、なんでバスケとかピアノとかやってたんだろうって思う」
「趣味があるだけいいじゃないですか」
「趣味があると余計だよ。大人になると、趣味の時間がなかなかとれないからね」
「なるほど」と言ってからぼくはしばらく押し黙った。ややあって彼女は頭の中で浮かんだ言葉を上手に厳選しながら、伝わる様な言葉を組み立てる終わる。
「挙句の果てに大人になると、『大人』であることを強要されるんだ」
「……それは、大変ですね」
ぼくは同情しながら言った。
「伊藤君も似たようなものなのかい?」
「まあ」と縦に頷く。「『子供らしさ』を求められるし、『学生らしさ』を強要されます。学校に行けとか」
「そっか」と彼女は息をついた。「誰でも同じだけど、『社会』があるせいで適応しなきゃいけないって感じるんだよ。君の親も別に君を苦しめるために言っている訳じゃないと思うし。ま、君もそれは分かってるんだろう?」
ぼくは頷いた。
「でも、私も同じだよ。『先生』を強要されるし、その裏には『大人』の要求もある。正直疲れるね」
「あなたもぶっちゃけ学生みたいにはしゃぎたいんですか?」
「もちろん。全裸で町内を走り回って、コンビニのパンを滝のように食べてしまいたい」
「露出趣味の暴露はいらなかったですけどね」
「そんなものないよ。ただ、我慢ばかりだから時には解放したいよねってこと。中途半端な適応は本当に辛いものだよ」
「そうですね」
「変な事を訊いてもいいかな?」
「既に変な事を聞かされてるので、どうぞ」
「伊藤くんはどうして学校にいかないの?」
彼女の問いに、ぼくはぎょっとする。
「なんででしょうね」
「……言語化できないもの?」
「案外」
そっか。と彼女は云った。
ぼくが不登校になったのは、言ってしまえば積み重ねだと思う。様々な不満の蓄積と、感じる辛辣な世界に辟易とした。ぼくは勉強が好きではなかったし、ぼくは友達がいなかったし、ぼくは対人関係が得意じゃない。それは、環境のせいじゃない。ぼくの完治することのない、根本的な欠落に原因がある。
じゃあその欠落は何かと考えると、それこそ答えが出なかった。
ただ客観的にぼくは、普通から程遠いとされている。ぼくと他人のギャップは、いつも明確に感じるからだ。どうしてぼくは普通ではないのだろう。どうしてぼくは普通になれないのだろう。そして、この欠落が完治することは、あるのだろうか。
「そっか~~」
彼女は残念そうに両手を伸ばし、唸った。ぼくは気に食わないのか、と思い彼女に視線を投げる。
「なによ」
「いや、腑に落ちてなさそうだなって」
「当たり前でしょ。君のことを聞ければ、私も私の生きづらさを肯定できるのかなって」
「どういうことです?」
「ずっと言ってるじゃない。私、生きづらいって」
そう言いながら、彼女はぼくを見た。今度は意図的に視線を逸らすことはしない。何故なら、彼女の言った言葉について興味が湧いていたからだ。ぼくも彼女の目をみる。
「ねえ、人が自殺するのってどうしてだと思う?」
「それ、非行少年に聞く事ですか」
彼女は黙る。
「はあ。壊れたんじゃないですか。精神が。ぼくも、気持ちだけなら分かる気がしますよ。人としての境界線が曖昧になり、変な浮遊感に支配されて、狂気に囚われる」
「じゃあその『故障』は、どうやって見分けるの?」
「それは……」
「例えばその『故障』が視覚的に分かりやすいものなら、この世界の自殺者は減ると思うね。だってそれって一目瞭然なんだよね。見てわかる異常ならさ、身近な人がその人をすぐ病院に連れていくことができる」
「……そうですけど、でも、そうはなっていないですね」
ぼくは言うと、彼女はうんと頷いた。
「私が言いたいことはね。人間の『故障』は煙がでないんだよ。鼠色で異臭のするそれらしい煙はでない。あるのは、変わらないその人の立ち姿。下手したら、自分でも自分が『故障』してることに気づいていないかもしれない。そうでしょ?」
ぼくは頷いた。
「それってさ、もう無理じゃん。そうなっちゃったら助けようがないし、救われようがない。だからみんなそろって『故障』しないように努力する。そしてそれを、押し付ける」
「……嫌な世界ですね」
「本当にね」
ぼくと彼女は初めて共感し、そして同じブランコの根元を凝視した。まるでそのとき、ぼくらには年齢や役職や性別や関係値が存在しないような、ある種の全能感のようなものが芽生えた。それは会話の中で共感したことで、初めて感じる体感だった。
「ねえ伊藤くん。君は自分が『故障』していると思う?」
「部分的には。でも、はっきりと分かりません。勉強が出来なくて栄養ドリンクを飲んで「がんばる!」って思った二日後には栄養ドリンクを飲むたび嘔吐を繰り返し、ふと他人を殺したいって思ってから、他人を殺したいと思った自分が、惨めで、泣いた事も」
「私も似たようなものだよ。本音を言えず八方美人しながら、ほどほどに同僚の顔色を窺い続ける。場が悪くならないように空気になることもあれば、意図的に発言するときだってある。そんな気遣いを重ねていくと、あるとき胸の中心に穴が開いたような感覚に苛まれた」
ぼくは、その胸の中心に穴が開いたような感覚に既視感があった。
「それが胸で渦を巻いていると、顔が作れなくなった。感情が湧いてこなくなって、生徒の前で引きつった笑い方をするようになった。多分、部分的に『故障』したんだと思う」
「ねえ」と彼女はぼくに投げかける。
「私は壊れてると思う?」
「……そうなんじゃないですか。ぼくも似たような物ですから」
「ふふ」
彼女はほんの少し、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、故障した者どーし」
彼女はぼくの両手を握った。冬の風で冷えかけていた両手が、ほんのり暖まる。
そして目の前に、生気のない顔があった。
「死なないように頑張ろ」
「…………そうですね」
ぼくの顔は、ゆっくりとほころんだ。その言葉を聞いた時、ぼくは彼女の顔が生気のない顔から、飾り気のないリアルな表情であると理解した。
コンビニの横にある公園で、冬の夜空をベンチで眺める非行少年と非行教師がいた。二人は互いの存在を認め合い、そして尊重しあった。
ぼくらは別れると、そこには夜がやってきた。不思議なもので、深夜だったのに、彼女と話している間はまるで昼間のように感じることが多々あった。……いいや、昼間というよりは『誰もいない世界』に二人っきりでいるような感覚だった気もする。あの時間だけは誰にも害されないし、誰にも共感されないと思う。でも確かなことがあった。
ぼくらは『故障』しているが、ブリキの肌ではなく温もりのある肌をもつ。
『故障』していても、ぼくらは、この夜闇を一人で歩き続けることができるのだ。