夕食後、私たちは温泉を楽しんだ。
ここは群馬県の川原湯温泉で、草津温泉の近くに位置し、長い歴史を誇る温泉地だという。しかし、八ッ場ダムの建設により、この地の温泉街は移転を余儀なくされた。
新たな場所に生まれ変わった宿は、モダンなデザインが印象的で、伝統的な温泉地の面影を残しつつ、洗練された雰囲気を醸し出していた。
第二甲府高校の卒業生で、宿の若旦那と友人だという縁から、私たちは特別な配慮を受けていた。おそらくかなり高級な宿にも関わらず、部員全員が泊まれるという破格の料金で提供してもらったそうだ。
六十人という大所帯のため、宴会場は寝室に変わり、それぞれの部屋はかなり詰め込まれていたが、みんな楽しそうに過ごしていた。
だが、私はなかなか眠れなかった。心が落ち着かない。宿の中で静かに過ごすことが辛く、外に出てみることにした。すると、瑞希がこっそりついてきた。
「寝られない。大会前だもんね」
彼女は苦笑いを浮かべて言った。どうやら同じ気持ちらしい。
瑞希とはあの後、すごく距離が縮まった。もともと瑞希自身、私のことをかなりリスペクトしてくれていたようで、本当はもっと仲良くしたかったらしい。
でも、彼女は人間関係が不器用で、三年間かけてようやく本当の友達のように話せるようになった。
そのことが嬉しくて、どんだけ不器用なんだろうと笑ってしまった。
二人で宿を抜け出し、外に出ると、夜の空気は冷たく澄んでいた。
気がつくと、この辺りは既に秋の気配を感じさせるような空気だった。周囲にはダム建設に伴う工事の名残が見え、日中のせわしなさや人の気配、作業音が響いていたこの場所も、夜にはすっかり静まり返り、月明かりだけが淡く辺りを照らしていた。遠くには八ッ場大橋が、闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。
「この静けさ、少し不思議だね」
瑞希がぽつりとつぶやいた。
「昼間の工事の喧騒が嘘みたいだよ」
「本当に、そうだね」
「でも、この町の人たちにとっては、きっと心に複雑なものを抱えているんだろうね」
チェックイン時に若旦那から聞いた町の歴史を思い出しながら、今、見えている景色が胸に響く。
二人はその景色の中をゆっくりと歩きながら、ふと、バスの中で悩んでいた曲の解釈の話を口にした。
「どうしてだろう、第四楽章のナタリーの葬儀曲……。千紗、分かった?」
「うーん。単純に流れとして、第四楽章が葬儀の場面で、天国に娘が行くってことも考えられる。でもそれなら、わざわざ息子のための楽章とは言わないよね。
じゃあ息子の誕生を喜ぶだけなら、あの楽章にわざわざ葬儀曲を入れる意味がないよね。第三楽章でナタリーとの別れを描いたばかりなのに、それが余計に謎を深めるんだよね」
私が悩むと、瑞希は静かに答える。
「そうね……確か……あの曲が完成した数日後に、作曲者の息子さんが生まれたんだよね」
「え? 本当に?」
「詳しくは分からないけど……。おそらくだけど、作曲者自身が亡き娘とこれから生まれてくる息子、両方の想いを込めたんだと思う。この第四楽章に」
瑞希の言葉が、鋭く心に刺さる。片方だけではなく、二人とも。確かに、その方がしっくり来る。瑞希はさらに続けた。
「例えば、今日若旦那が話してくれたことみたいに、ここも同じなんじゃないかな。愛着があって大切にしていた土地が、ダム湖に沈む。これって、どれだけ苦しい話だろう」
「うん。私なら、きっと耐えられない。でも……」
「うん。でも、それでもここの人たちは前に進んでいる。大変なことがあっても、前に進む。でも若旦那が語り継いでいるように、過去も大切にしながら、未来を見据えている。それが、きっと第四楽章のメッセージだと思う」
瑞希の言葉に、突然、心が開かれたような気がした。思考が急速に深まり、何かに触れる瞬間を感じる。
「そうか……。確かに。息子の誕生があるけど、娘のことも忘れない。確かに……。でも、それって、第三楽章の娘への別れと重なってしまうような気もする」
「確かに……。さすが、千紗、強情だね」
「ごめん……。でも、なんだろう。うーん。作曲者自身の視点じゃなくて、娘の視点から考えてみると、また違った見え方になるかもしれない。メッセージか、そうじゃないかみたいな」
「メッセージ?」
「うん。第三楽章は作曲者のイマジネーション。第四楽章は、天国にいる娘へのメッセージだと思う。第三楽章では作曲者が心の中で別れを告げ、忘れないと心の中で決心する。第四楽章では『君のことは忘れない。安心して、私たちは前を向いて生きていく』という娘へのメッセージが込められている気がする……。そうだよ、だから葬儀曲なんじゃないかな。歌として、メッセージを伝えたんじゃないかな」
「確かに……」
妙に納得感を感じた瞬間、心に小さな後悔が湧いた。
今まで、土橋のアドバイスを受けて、大気君と再び出会えたことが、まるで第四楽章の喜びのように感じていた。しかし、それは違った。その喜びは、思い出のようなものであり、自分の中で完結しており、どこか第三楽章に近いものだったのかもしれない。悲しみの中にほんのわずかな喜びが息づく、夢のような時間だった。
でも、その先にある第四楽章。大気君にメッセージとして、別れを告げて、未来への喜びに向かっていく。
いつか来る別れを受け入れ、それでも前に進む。生きている人間だからこそ、前に進める喜び。希望を持てる喜び。その上で、私たちが表現すべき喜びは何か。
その答えに、ようやく触れることができた気がした。
ただ、それを今、私の手で表現できるのだろうか。何より、自分から、大気君に別れのメッセージを伝えることができるだろうか。心の中に、何とも言えない不安が広がった。
その瞬間、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
『ちょっと、千沙と瑞希、どこにいるの?』と、三人で遊ぶ用に作ったグループに、瑠璃からのメッセージが来ていた。
それを瑞希に見せると、苦笑。
気がつくと、私たちは川原湯温泉駅の近くまで来ていた。