二〇一七年八月二十一日。
「おい、みんな! 夏休みはバーベキューしたか? とりあえず今学期も楽しもう!」
唐突で意味不明な担任の挨拶とともに、二学期が始まった。
受験まで残り数ヶ月。
教室には重苦しい空気が漂い、誰もが目の前の現実に向き合い始めているのが感じ取れた。
そんな中、最近、強い視線を感じることが増えた。
クラスではまた信二と隣の席になったし、周囲は私たちの事情を知っているから、気を遣われているのだろう。
けれど、信二は変わらず自然体で接してくれる。
本当に、いい人すぎるくらいだ。彼には心から幸せになってほしいと思う。
「で、さ。お前らどうするの?」
休み時間、松田君と須賀君、ほかの男子たちがゾロゾロと私たちの席へやってきた。
「何が?」
瑠璃が問い返すと、須賀君が大袈裟なジェスチャーで言う。
「花火大会だよ! 今週末の!」
……須賀君って、こんなノリの人だったっけ?
夏休みの間に、何かあったのかもしれない。
「特に行く予定はないかな」
瑠璃が肩をすくめると、須賀君は驚いたように声を上げた。
「ええ! 山見さんがそれは意外だなぁ」
すかさず、信二のほうを向く。
「で、そちらは?」
「俺は野球部の連中と行くよ」
信二の答えに、なぜか松田君が大げさに反応した。
「そーかそーか。お前には大切なベースボールのファミリーがいるもんなぁ! わりい、暇だったら俺たちと回らないかって誘おうと思ってた」
「そうなんか、すまんな!」
信二が軽く笑うと、松田君たちは笑いながら去っていった。
「あ、そういえば今週末、石和の花火大会だったね」
遅ればせながら、そんなイベントがあることを思い出す。
「マジで? 千沙ってそういうとこ適当よね」
「ごめん、ごめん。忘れてた!」
瑠璃が呆れたように笑う。
「私は吹部の子たちと行こうかな。千沙はどうするの?」
ちらっと信二を見てしまう。
信二はその視線に気づき、苦笑しながら言った。
「おい、こっち見るなよ。千沙、せっかくだし大気を誘えば? なかなかいい思い出になると思うぜ?」
瑠璃が私に向き直って、大きく頷く。
その姿を見ながら、心の中で「ありがとう」と何度も繰り返した。
本当に、信二っていい奴だな。
その日の午後、部活では再度、表現やイメージの認識合わせが行われた。
正直、西関東の前にやるべきことではないかもしれない。
でも、私たちが一つ上のステップに進むためには、これが必要だと思った。特に、あの演奏を聴いた後では。だからこそ、妥協せずにやりたかった。
けれど、明らかに三年生を中心に、集中力にムラがあるように感じていた。
それを察したのか、土橋は三年生だけで一度ミーティングをするように指示し、朱雀会館二階の和室で皆で座って話すことになった。
「みんな、正直たるんでいると思う」
瑞希が仕切りながら、その上で指摘をする。
「県大会の後、甲子園もあり、その上で今となっている。もちろん、上に行けたことは悲願であり、演奏自体もよくなってきている。けど、さらに良くしようという想いというか、姿勢が感じにくい」
いつもなら、瑞希の言うことに皆が納得して従ってきた。
しかし今日は、少し違うような気がした。
明らかに空気感が違う。その言葉が重く響く中で、和室の空気がぴんと張り詰めたように感じられた。
「ちょっといい?」
一人の部員が手を挙げながら、発言する。
「もちろん、そういう空気感は感じていたし、瑞希たちが必死にその空気感を変えようとしてくれているのは分かる。けどさ、これ以上何がいるの?」
しんと静まり返った和室に、その言葉が鋭く響いた。
案外その意見に納得している人も多いようで、頷いている部員がちらほら見受けられた。
「私たち、もちろん今まで努力してきたし、頑張ってきた。けどさ。もう良くない? 瑞希とかは音大行くかもしれないけど、ここにいる大半は国公立とか、私立の受験を控えている。正直、練習も大切だけど、それ以上に受験勉強の方を大切にしたい。これからの人生が掛かっているもん」
そのあまりにも正しい正論が、私の胸に刺さった。
言いたいことは分かる、
でもその言葉を突きつけられたら、もう何も言えない。
しかし、瑞希がすかさず反論した。
「なら、何で県大会の後に引退しなかったの? もちろん勉強が大切なことも分かるし、みんなが難しい大学に受験することも知っている。けどさ、今部活動で、そして県の代表として西関東大会に出場するなら、真剣に、そしてできるところまで最高の演奏を目指すのが普通じゃないの? 土橋先生が言っていた通り、記念で出場するのなら、それは他の学校にも失礼だと思う」
瑞希の言葉が鋭く、そして感情的に響く。
正論だと思うけど、強すぎて和室の空気がさらに重くなった。
正論と正論がぶつかり合う、その火花が目に見えるようだった。
すると、違う部員がポツリと呟いた。
「それは、瑞希が誰よりも部活に思い入れがあるからでしょ。みんながみんな、そうじゃないし」
その一言が、瑞希を打ちのめしたかのように見えた。
呟いた部員も、「しまった」という表情をしている。その言葉の意味の重さに、気が付いたのであろう。
「みんながみんな、部活に思い入れがあるわけじゃない」
それは理解しているし、皆も理解しているだろう。
でも、あくまでも暗黙の了解で、触れてはいけず、皆思い入れがあると信じているからこそ、信頼し、努力して、部活動を続けてこられたこともある。
その根本的な部分を否定する、いや、正しくはあるが、でも、言ってはいけない言葉であった。
瑞希はすぐに何かを言い返そうとしたが、結局言葉が出てこなかったのか、黙ったまま和室から出ていってしまった。
その背中を見て、何となく私は彼女を追いかけた。
「瑞希、ちょっと待って」
南校舎の家庭科室の奥に、ちょっとした裏庭がある。
瑞希はそこへ向かって走り、しばらくすると立ち止まった。
「あはは、本当にごめん」
瑞希は顔を見せず、追いかけてきた私に謝罪の言葉を口にした。
「ううん。謝る必要はないと思う」
私はあえて瑞希の表情を見ず、そのまま話を聞くことにした。
「いや……自分でもいけないと思いつつ、感情的になっていた。ただ、正直みんなの言っている通りだと思う。私の押し付けだろうね。今までもずっと」
瑞希はポツポツと語り出す。その声には、わずかな震えが混じっていた。それが私の心に響いた。
「正直、みんながそこまで求めていないことも知っている。だから、県大会の後も自分に言い聞かせてきた。『このままでいい』って。でもさ、やっぱり、あのプロの演奏を聴いてしまうと、もっとみんなで良くできるんじゃないかなって思ってしまって。すごいエゴだよね」
今の瑞希は、いつもの彼女とは違い、どこか子どもっぽく、それでも嫌ではない。むしろ、その素直さに胸が締めつけられるような気がした。
「私さ、元々福岡の高校から推薦もらってた。でも、中学三年の西関東大会での負けがかなりショックで。部長として、どうしても全国に行こうと思って、特に幼馴染が副部長だったから、一緒に頑張ろうって。でも、段々私は周りの意見を無視して、自分のペースで引っ張るようになった。焦っていたんだ。相手が傷つくことが分かっていても、上を目指すために自分を正当化して。
でも、大会が終わると部活という魔法は解けて、全てを失った。同級生からは白い目で見られ、幼馴染とも関係が冷めきっていた。彼女に言われた最後の言葉は、今でも忘れない。『あんた、最低だよ』って。私は、二度とこんなことがあって欲しくないと強く思った。だからこそ、もう高望みできるような場所じゃなく、ちょっと落ち着いて、自分の練習に集中できる学校を選んだ。妥協できて、自分の演奏に集中できる方が楽だから。周りがどうでも、自分だけがそれでいいって、そんな風に考えてこの学校を選んだんだ」
瑞希の言葉が静かに響き、私の胸にじわりと染み渡った。彼女の過去が透けて見え、その痛みが伝わってきた。
「でも入学して驚いたのは、吹部に千沙がいたこと。中学の大会で、とても印象に残ってたから。だから、私の中で心が少し動いた。この子がいるなら、上を目指せるかなって」
その言葉に、私も胸が高鳴った。瑞希が私をそんな風に思ってくれていたなんて、少し照れくさい気持ちもあったけれど、どこか誇らしさを感じた。
「正直私は不器用だし、中学であんなことがあったから、どう千沙と距離を詰めていいのか分からなくて。だから強引にソロコンの伴奏者になってもらった。その練習、楽しかったな……。ここまで真剣に取り組んでも、しっかり意見を言い合えて、向き合ってくれる。それが面白かった。意外に千沙って、強引で意見を譲らないし」
瑞希が語るその時の情熱が、私にも確かに伝わってきた。あの時、私たちが一緒に練習したことが、瑞希にとってこんなにも意味があったのだと、改めて感じた。
「だからこそ、やっぱり情熱が燃え出した。でも、二年生のコンクールの出来事とか、千沙自身が落ち込んだ時期があったり、私自身が力になれなかったり。さらに熱意を持って頑張ろうとすると、失敗が待っていることを知ってしまった」
その言葉に、瑞希の葛藤がにじみ出ている。熱意を持つことが必ずしも成功に繋がらない、その現実に直面した彼女の苦しみが痛いほど伝わってきた。
「けどさ、そうは言っても、やっぱり諦められない。プロの演奏もそうだけど、甲子園で吹いた千沙のソロが印象的で、私の情熱がまた燃え出した」
瑞希のその言葉が、私の心に新たな火を灯した。あの日、甲子園で吹いた私のソロが、彼女にも何かを与えていたんだと思うと、嬉しくて胸が熱くなった。
「みんなの気持ちは分かってる。大学受験があるし、上の大会に行けて達成感を感じるのも分かる。でも、高校三年生って二度とない。このメンバーでできるのも、これで最後なんだ。だからこそ、やっぱり前を向いて頑張りたい」
その決意を聞いたとき、私は何も言えなくなった。瑞希の思いが、私の心に深く刻まれた。どんなに辛くても、どんなに難しくても、最後まで全力で走り抜ける。それが私たちの青春だと、瑞希の言葉が思い出させてくれた。