二〇一七年八月十八日。
「一旦ストップ!」
土橋の指揮棒が空中で静止した。
指揮台から鋭い視線が各パートを見渡す。
お盆明けだというのに、練習の空気は本番直前のような張り詰めたものだった。
「ペットのファースト!」
「はい!」
先生の視線が私を捉えた瞬間、背筋がピンと伸びる。
「……第四楽章、良くなった。この調子でいこう」
「……はい!」
心の中で小さくガッツポーズを決めた。
前を見ると、振り返った瑠璃が微笑みながら親指を立てている。その瞬間、ようやくトンネルから抜けられた気がした。
「千沙先輩、今日の音、本当に最高でしたよ!」
合奏が終わるや否や、雪ちゃんが弾む声で駆け寄ってきた。その無邪気な笑顔につられて、私も頬が緩む。
「ありがとう。でもね、今日は調子が良かっただけかもしれない。この感覚を忘れないように、ちゃんと練習しなきゃ」
それでも、心の底から嬉しく、ようやく達成感を感じられた。
すると突然、後ろから肩を叩かれた。
「ねえねえ」
「瑞希、どうしたの?」
振り返ると、瑞希が相変わらず真剣な表情で立っている。
「土橋先生が職員室に来てってさ」
指揮台の方をちらっと見るが、土橋の姿はすでに消えていた。
「何で職員室……面倒くさいなあ」
だるそうに言いながら歩き出すと、隣を歩く瑞希の表情がふっと和らぐ。
「まあね、でも何か大事な話かもよ?」
朱雀会館を出ると、甲府の熱風がまとわりつく。もうすぐ八月の後半だというのに、暑さは一向に収まる気配がない。
「でもさ、千沙」
「ん?」
「やっぱり音が良くなったね。全然違う」
瑞希が少し照れくさそうに言う。
その一言に、思わず足を止めそうになった。
彼女は普段、めったに人を褒めない。
それはきっと、自分に厳しいから。他人に対してもその基準を持っている。でも、だからこそ、彼女は嘘をつかない。
思わず、口元がほころぶ。
「え? 何?」
「いや、瑞希が人を褒めるって珍しいなって」
「本音だよ?」
瑞希は少しムッとした表情で振り返る。
その顔がなんだかおかしくて、私はまた笑ってしまった。
「和田、橘、すまんな。職員室まで来てもらって」
職員室に入ると、土橋が立ち上がり、隣の会議室を指さした。どうやら、誰にも聞かれたくない話らしい。
瑞希と並んで席に着くと、土橋も向かい側に腰を下ろす。
少し緊張しながら言葉を待つと、意外な話が飛び出してきた。
「急な話だが、明後日、渋谷のホールでプロの吹奏楽団の演奏会がある」
土橋は淡々と続ける。
「そこで、バーンズの三番がフル演奏される」
その瞬間、瑞希と顔を見合わせた。
「たまたま、その楽団に俺の教え子がいてな。気を遣って急遽チケットを二枚くれたんだ。ただ、俺はその日、急な職員会議で行けなくなってしまった。それで、お前ら、ちょっと行ってみないか?」
明後日の日中は、練習と夏期講習の予定だけ。受験勉強も気になるが、それよりも胸が高鳴った。
「正直、甲子園の後から、お前らの演奏は確実に変わった。曲に振り回されるんじゃなく、必死に食らいついている感じがする。ただな、お前たちなら、もっと上に行ける気がする。だから、部を代表して二人で行ってこい。何かを掴んでこい。夏期講習は俺から先生たちに話をつける。交通費も出してやる」
土橋は厳しい。昭和の教師そのものだが、時折こうした心遣いを見せる。だから卒業後も彼を慕う生徒が多いのだ。
瑞希と私は顔を見合わせる間もなく、即答した。
「ぜひ、行きます!」