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二〇一七年八月十六日 その2

「待った?」

 駅前で声をかけられ、振り返ると、千沙先輩が立っていた。

 時計を見る。待ち合わせの十五分前には着いたはずなのに、もう先輩はここにいる。

「全然。今、着いたところです」

 少しぎこちなく笑いながら答える。

 水色のワンピースに麦わら帽子。夏の陽射しの中で、先輩の姿はひときわ目を引いた。清里駅の観光客のざわめきの中で、まるで映画のワンシーンのように鮮やかに映る。

 いや、かわいい。それ以上の言葉はいらない。

「行こっか!」

 千沙先輩が無邪気に笑い、手を引いた。その瞬間、心臓が跳ねる。少し遅れて歩き出す自分がもどかしい。

 駅を出て、黄色の車体が特徴的なピクニックバスに乗り込む。窓の外に広がる高原の風景。

 行き先は清泉寮。

 千沙先輩が選んでくれた場所で、俺にとっては初めて訪れる場所だった。

「二人だからこそ、改めて来たかったの」

 そう微笑む先輩の声に、今日という時間が特別なものに思えた。

 バスを降りると、目の前に広がる牧草地と澄み渡る青空。

 高原の風が心地よくて、まるでどこか海外の田舎町に来たような気分になる。

「うぉー、すげえな……!」

 清泉寮のテラスから見える壮大な景色に、思わず声が漏れる。

 遠くに見える富士山は、学校から見慣れたそれとはまるで違う。標高の高さを感じさせる澄んだ空気、どこまでも続く視界の広がり、心が踊る。

「なんか、あれだね」

「何がですか?」

「大気君って、子どもみたい」

 千沙先輩がクスクスと笑う。その笑顔が柔らかくて、胸の奥がじんと熱くなる。

 ただ、彼女が楽しそうにしている。それだけで、俺の心は満たされていた。

 名物のソフトクリームを食べ、ポール・ラッシュ記念館を見学したあと、次の目的地・萌木の村へと向かう。

 昼食には、評判のカレーライスを頬張り、それから気の向くままに村の中を散策した。

 夏だというのに、新緑の匂いが濃く漂っている。

 風がそよぐたび、木々の葉が細かな波を立て、光を跳ね返す。その輝きを目で追うたび、胸の奥からじんわりと何かが溶け出すような感覚が広がった。

「なんだか、マイナスイオン感じる」

 隣を歩く千沙先輩がぽつりと言う。

「確かに。夏なのに、なんか涼しいですね……」

 他愛ない会話を交わしながら森の中を進んでいると、不意に目の前にメリーゴーランドが現れた。

 少し古びてはいるが、カラフルな装飾がどこか懐かしい。木漏れ日を浴びて柔らかく輝き、静かな森の中で不思議な存在感を放っている。

「なんでこんなところに……?」

 思わずつぶやくと、千沙先輩はにっこりと笑った。

「乗りますよ?」

 まさかとは思ったが、どうやら拒否権はないらしい。

 係員からチケットを買い、二人でメリーゴーランドに足を踏み入れる。

「他の人、誰もいないんですね」

「うん、恥ずかしいからでしょ」

「えっ!」

 千沙先輩が端の白馬にまたがる。

 俺も隣の馬に乗り、ぎこちなく腰を下ろした瞬間、「ウィーン」という低い機械音が響いた。

 ゆっくりと、メリーゴーランドが動き出す。

「森の中のメリーゴーランド、なんかエモいですね」

 そう言うと、千沙先輩は嬉しそうに微笑んだ。

「ね? なんか、夢の世界みたいな感じするよね」

 回転するたびに、緑の匂いと木漏れ日が交互に視界を満たしていく。

 足元の地面は動いているのに、心は静かに落ち着いていた。

「こういうの、乗ったのっていつ以来だろう」

「小学生の時とかじゃない? 部活があると、遊園地なんか全然行けないしね」

 彼女の声が、メリーゴーランドの柔らかな音に混ざり、優しく響く。

 ふと横を見ると、千沙先輩は目を閉じ、そよぐ風を楽しむように顔を上げていた。

 表情にはどこか無邪気な幸福感が漂い、胸がきゅっと締めつけられる。

「でも、俺は今楽しいです」

「うん、私も」

 千沙先輩がそっと目を開け、微笑む。

 その笑顔がなんとも言えず、この時間がずっと続けばいいのにと、心のどこかで願ってしまった。



 気づけば夕方、陽が傾き始め、空が茜色に染まる。その光が高原全体を包み込み、朝とはまた違った美しさを生み出していた。

「どうする? そろそろ帰る?」

「はい、そうですね」

 千沙先輩と並んでバスに乗り込み、駅へ向かう。

 途中、どこからか線香の香りが漂ってきた。ふと窓の外を見ると、家族で送り火をしているのが見える。

 そうか、今日はお盆の最終日。あちらの世界へと、死者が帰っていく日。

 今まではただの風習として捉えていたけれど、今の自分には、胸の奥に響くものがあった。

 やがて、小海線の電車に乗るころには、すっかり夜の気配が濃くなっていた。

 窓の外には、ぽつりぽつりと星が瞬き始めている。

「本当はさ、こんなふうに過ごす時間を、もっと早く持ちたかったね」

 千沙先輩がぽつりとつぶやいた。その声に、胸がぎゅっと締めつけられる。

 ずっと待たせてしまっていた。その事実が、改めて胸に迫る。

「そうですね……。ですが、」

 言葉を選びながら、俺はそっと千沙先輩の肩に手を置く。

 そして、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。

「俺は、ここにいます。もう安心してください」

 その言葉に、千沙先輩の目がわずかに潤む。

 そして、泣きそうな顔のまま、小さく「うん」と頷いた。

 俺の言葉が、きっと嘘になることを、千沙先輩も分かっている。

 それでも、その一言が嬉しかったのかもしれない。

 だからこそ、改めて決意する。

 残された時間がどれだけあるのかは分からない。けれど、この瞬間からできる限りのことをしよう。

 ふと視線を移した先で、観光客の白人の老夫婦が「ワーオ」と驚いた顔をしているのが目に入り、一気に現実に引き戻される。

 千沙先輩もそれに気づき、頬を赤く染めたかと思うと、ぷっと吹き出した。

「もう、恥ずかしいじゃん!」

「すみません……。でもさ、いい思い出になりますよね?」

 二人で顔を見合わせ、笑い合う。

 その笑顔が、今日一日でいちばん輝いて見えた。

 電車の揺れに身を任せながら、小海線の終着駅、小淵沢駅へと近づいていく。


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