「待った?」
駅前で声をかけられ、振り返ると、千沙先輩が立っていた。
時計を見る。待ち合わせの十五分前には着いたはずなのに、もう先輩はここにいる。
「全然。今、着いたところです」
少しぎこちなく笑いながら答える。
水色のワンピースに麦わら帽子。夏の陽射しの中で、先輩の姿はひときわ目を引いた。清里駅の観光客のざわめきの中で、まるで映画のワンシーンのように鮮やかに映る。
いや、かわいい。それ以上の言葉はいらない。
「行こっか!」
千沙先輩が無邪気に笑い、手を引いた。その瞬間、心臓が跳ねる。少し遅れて歩き出す自分がもどかしい。
駅を出て、黄色の車体が特徴的なピクニックバスに乗り込む。窓の外に広がる高原の風景。
行き先は清泉寮。
千沙先輩が選んでくれた場所で、俺にとっては初めて訪れる場所だった。
「二人だからこそ、改めて来たかったの」
そう微笑む先輩の声に、今日という時間が特別なものに思えた。
バスを降りると、目の前に広がる牧草地と澄み渡る青空。
高原の風が心地よくて、まるでどこか海外の田舎町に来たような気分になる。
「うぉー、すげえな……!」
清泉寮のテラスから見える壮大な景色に、思わず声が漏れる。
遠くに見える富士山は、学校から見慣れたそれとはまるで違う。標高の高さを感じさせる澄んだ空気、どこまでも続く視界の広がり、心が踊る。
「なんか、あれだね」
「何がですか?」
「大気君って、子どもみたい」
千沙先輩がクスクスと笑う。その笑顔が柔らかくて、胸の奥がじんと熱くなる。
ただ、彼女が楽しそうにしている。それだけで、俺の心は満たされていた。
名物のソフトクリームを食べ、ポール・ラッシュ記念館を見学したあと、次の目的地・萌木の村へと向かう。
昼食には、評判のカレーライスを頬張り、それから気の向くままに村の中を散策した。
夏だというのに、新緑の匂いが濃く漂っている。
風がそよぐたび、木々の葉が細かな波を立て、光を跳ね返す。その輝きを目で追うたび、胸の奥からじんわりと何かが溶け出すような感覚が広がった。
「なんだか、マイナスイオン感じる」
隣を歩く千沙先輩がぽつりと言う。
「確かに。夏なのに、なんか涼しいですね……」
他愛ない会話を交わしながら森の中を進んでいると、不意に目の前にメリーゴーランドが現れた。
少し古びてはいるが、カラフルな装飾がどこか懐かしい。木漏れ日を浴びて柔らかく輝き、静かな森の中で不思議な存在感を放っている。
「なんでこんなところに……?」
思わずつぶやくと、千沙先輩はにっこりと笑った。
「乗りますよ?」
まさかとは思ったが、どうやら拒否権はないらしい。
係員からチケットを買い、二人でメリーゴーランドに足を踏み入れる。
「他の人、誰もいないんですね」
「うん、恥ずかしいからでしょ」
「えっ!」
千沙先輩が端の白馬にまたがる。
俺も隣の馬に乗り、ぎこちなく腰を下ろした瞬間、「ウィーン」という低い機械音が響いた。
ゆっくりと、メリーゴーランドが動き出す。
「森の中のメリーゴーランド、なんかエモいですね」
そう言うと、千沙先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「ね? なんか、夢の世界みたいな感じするよね」
回転するたびに、緑の匂いと木漏れ日が交互に視界を満たしていく。
足元の地面は動いているのに、心は静かに落ち着いていた。
「こういうの、乗ったのっていつ以来だろう」
「小学生の時とかじゃない? 部活があると、遊園地なんか全然行けないしね」
彼女の声が、メリーゴーランドの柔らかな音に混ざり、優しく響く。
ふと横を見ると、千沙先輩は目を閉じ、そよぐ風を楽しむように顔を上げていた。
表情にはどこか無邪気な幸福感が漂い、胸がきゅっと締めつけられる。
「でも、俺は今楽しいです」
「うん、私も」
千沙先輩がそっと目を開け、微笑む。
その笑顔がなんとも言えず、この時間がずっと続けばいいのにと、心のどこかで願ってしまった。
気づけば夕方、陽が傾き始め、空が茜色に染まる。その光が高原全体を包み込み、朝とはまた違った美しさを生み出していた。
「どうする? そろそろ帰る?」
「はい、そうですね」
千沙先輩と並んでバスに乗り込み、駅へ向かう。
途中、どこからか線香の香りが漂ってきた。ふと窓の外を見ると、家族で送り火をしているのが見える。
そうか、今日はお盆の最終日。あちらの世界へと、死者が帰っていく日。
今まではただの風習として捉えていたけれど、今の自分には、胸の奥に響くものがあった。
やがて、小海線の電車に乗るころには、すっかり夜の気配が濃くなっていた。
窓の外には、ぽつりぽつりと星が瞬き始めている。
「本当はさ、こんなふうに過ごす時間を、もっと早く持ちたかったね」
千沙先輩がぽつりとつぶやいた。その声に、胸がぎゅっと締めつけられる。
ずっと待たせてしまっていた。その事実が、改めて胸に迫る。
「そうですね……。ですが、」
言葉を選びながら、俺はそっと千沙先輩の肩に手を置く。
そして、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「俺は、ここにいます。もう安心してください」
その言葉に、千沙先輩の目がわずかに潤む。
そして、泣きそうな顔のまま、小さく「うん」と頷いた。
俺の言葉が、きっと嘘になることを、千沙先輩も分かっている。
それでも、その一言が嬉しかったのかもしれない。
だからこそ、改めて決意する。
残された時間がどれだけあるのかは分からない。けれど、この瞬間からできる限りのことをしよう。
ふと視線を移した先で、観光客の白人の老夫婦が「ワーオ」と驚いた顔をしているのが目に入り、一気に現実に引き戻される。
千沙先輩もそれに気づき、頬を赤く染めたかと思うと、ぷっと吹き出した。
「もう、恥ずかしいじゃん!」
「すみません……。でもさ、いい思い出になりますよね?」
二人で顔を見合わせ、笑い合う。
その笑顔が、今日一日でいちばん輝いて見えた。
電車の揺れに身を任せながら、小海線の終着駅、小淵沢駅へと近づいていく。