訳が分からない。
こんなにも急いで、どうして走っているのだろう?
まるで何かに引き寄せられているような感覚。無理にでも進まなければならないような、強迫的な気がする。
最初は、ただの疲れからだと思った。けれど、違う。
心の奥底から湧き上がる、抑えきれない衝動が体を動かしているのだ。
耳に入るのは、必死な係員の声。しかし、それすらも遠く、かすんで聞こえる。
足は止まらない。無理やり体を前に押し出し、出口を目指して走り続ける。
出口が見えた瞬間、心臓が一気に跳ねた。そこに、千沙先輩がいるはずだ。
出口から外に出ると、しばらく行った先で、客席の出口近くから現れた先輩と目が合った。
お互いの視線が交わった瞬間、世界が止まったかのように感じた。
目の前の千沙先輩は、まるで夢の中の存在のように美しくて、その全てが現実だと信じられなかった。
「千沙先輩……!」
言葉なんていらなかった。
俺は足を速め、千沙先輩に向かって走り出した。
全身が熱くなり、心臓が鼓動を速める。
どんなに息が切れても、体が重くても、ただ一つだけ、千沙先輩に向かって走り続けた。
そして立ち止まることなく、体がそのまま先輩を引き寄せる。
何も考えずに、ただ強く抱きしめた。
彼女の温もりが、俺の全身に染み渡り、心の中で何かが溢れるように感じた。
「先輩……」
「私も……」
千沙先輩の声が、まるで夢の中のように優しく響いた。
その言葉一つが、俺をさらに引き寄せる。
二人だけの世界が広がっていく。その瞬間、時間がゆっくり流れるような感覚になった。
今まで感じたことのない感覚、けれど確かな安心感。
「.....ありがとうございます」
何度も言おうと思ったけれど、口から出てきたのは、その一言だけだった。
「.....いい音色でした」
俺のその言葉に、千沙先輩がゆっくりと顔を上げ、優しい笑顔を浮かべた。
その笑顔に、俺の胸がじんわりと熱くなる。
「そうでしょ。誰かさんが喜びを運んでくれたから」
千沙先輩の目が、優しさと愛情で満ちているのがわかる。
「でも、負けちゃいました」
「本当にね。でも、かっこよかった」
その一言が、胸に響いて、心から嬉しかった。
「……だからさ……ご褒美しないとね」
すると先輩は、耳元で囁くような声で一言。
「待たせてごめんね、大気君。私、ずっとあなたを想っていたよ」
手を放すことができなかった。離れることが怖かった。
ようやく、ようやくであった。
先輩も、俺を離さないように、しっかりと腕を回してくれる。
「このまま、ずっと……」
心から愛おしいと思える相手と、こんなにも近くで感じ合えることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。