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二〇一七年八月十日 その4

 訳が分からない。

 こんなにも急いで、どうして走っているのだろう?

 まるで何かに引き寄せられているような感覚。無理にでも進まなければならないような、強迫的な気がする。

 最初は、ただの疲れからだと思った。けれど、違う。

 心の奥底から湧き上がる、抑えきれない衝動が体を動かしているのだ。

 耳に入るのは、必死な係員の声。しかし、それすらも遠く、かすんで聞こえる。

 足は止まらない。無理やり体を前に押し出し、出口を目指して走り続ける。

 出口が見えた瞬間、心臓が一気に跳ねた。そこに、千沙先輩がいるはずだ。

 出口から外に出ると、しばらく行った先で、客席の出口近くから現れた先輩と目が合った。

 お互いの視線が交わった瞬間、世界が止まったかのように感じた。

 目の前の千沙先輩は、まるで夢の中の存在のように美しくて、その全てが現実だと信じられなかった。

「千沙先輩……!」

 言葉なんていらなかった。

 俺は足を速め、千沙先輩に向かって走り出した。

 全身が熱くなり、心臓が鼓動を速める。

 どんなに息が切れても、体が重くても、ただ一つだけ、千沙先輩に向かって走り続けた。

 そして立ち止まることなく、体がそのまま先輩を引き寄せる。

 何も考えずに、ただ強く抱きしめた。

 彼女の温もりが、俺の全身に染み渡り、心の中で何かが溢れるように感じた。

「先輩……」

「私も……」

 千沙先輩の声が、まるで夢の中のように優しく響いた。

 その言葉一つが、俺をさらに引き寄せる。

 二人だけの世界が広がっていく。その瞬間、時間がゆっくり流れるような感覚になった。

 今まで感じたことのない感覚、けれど確かな安心感。

「.....ありがとうございます」

 何度も言おうと思ったけれど、口から出てきたのは、その一言だけだった。

「.....いい音色でした」

 俺のその言葉に、千沙先輩がゆっくりと顔を上げ、優しい笑顔を浮かべた。

 その笑顔に、俺の胸がじんわりと熱くなる。

「そうでしょ。誰かさんが喜びを運んでくれたから」

 千沙先輩の目が、優しさと愛情で満ちているのがわかる。

「でも、負けちゃいました」

「本当にね。でも、かっこよかった」

 その一言が、胸に響いて、心から嬉しかった。

「……だからさ……ご褒美しないとね」

 すると先輩は、耳元で囁くような声で一言。

「待たせてごめんね、大気君。私、ずっとあなたを想っていたよ」

 手を放すことができなかった。離れることが怖かった。

 ようやく、ようやくであった。

 先輩も、俺を離さないように、しっかりと腕を回してくれる。

 「このまま、ずっと……」

 心から愛おしいと思える相手と、こんなにも近くで感じ合えることが、こんなにも幸せだとは思わなかった。


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