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二〇一七年八月十日 その3

「次もチャンステーマで!」

 マネージャーの声が、雷鳴のように響く。瑞希がすぐに指揮を執ると、観客席の応援が一段と熱を帯びた。

 今日初めて訪れた好機。この瞬間を逃せば、次はないかもしれない。

 観客席からの声が重なり合い、ひとつの大きな波となって押し寄せる。

「ボール!」

 その一言が、張り詰めた空気を切り裂いた。球場全体が一瞬、息を呑む。

 次の一球を待つ刹那、ふと目を向けると、マネージャーと瑞希が小さく言葉を交わしていた。

 焦燥が伝わってくる。ただの応援ではない。全員が、この試合に心を懸けている証だ。

 マネージャーの手元に視線をやると、カンペには次の曲の指示が記されている。

 観客席の熱はさらに膨れ上がり、声援がひとつのうねりとなる。選手たちはその熱を背負い、次の瞬間にすべてを懸けていた。



(やべえ、もう時間がない)

 記憶が霞み、意識がふらつく。頭の奥がじんじんと痺れ、視界がわずかに揺れた。

 無意識のうちに、バットでヘルメットを軽く叩く。

 でも、あれ? 俺、前にもこんな仕草をしたことがあったか?

 違和感が胸を突く。何かが変だ。

 じわじわと焦燥が押し寄せる。息が浅くなり、喉が渇く。

(やばい、やばい、焦るな)

 どうにかして、この打席を乗り越えられるのか?

 ピッチャーがモーションに入った瞬間、全身の血が凍りついた。

(やばい、タイムのタイミングを逃した)

 冷たい汗が背筋を駆け抜ける。

 慌てて構え直そうとするが、体が硬直し、どうすればいいのか分からなくなる。バットの重みが、急に別のもののように感じられた。

(やばい、やばい、やばい!)

 冷静さが音を立てて崩れていく。だが、混乱する頭とは裏腹に、耳だけが異常なほど研ぎ澄まされていた。

「パパパ! ~パパ……」

 先輩の音だ。

 胸の奥で何かが弾ける。

 雑音が消え、世界が一気に澄み渡った。無意識のうちに体が動く。目の前のカーブに喰らいついた。

「ファール!」

 三塁スタンドを振り向く。

 『必殺仕事人』のテーマが響いていた。

 これは、大気の応援歌。

 トランペットの音色が記憶を鮮やかに呼び起こす。ああ、そうだ。毎朝、耳にしていた音。千沙先輩が奏でていた、あの音。

 目を閉じ、深く息を吸い込む。心のざわめきが静かに収束していく。

 俺が今、やるべきことはただひとつ。目の前のピッチャーを打ち崩すこと。

 ピッチャーが首を振る。一度、二度。わずかに迷いが見えた。だが、最後に頷いたその時、確信する。

(こいつ、自分のエゴを通さなかったな)

 覚悟を決め、投じられた球を追う。視線で捉え、頭で計算し、無心でバットを振り抜く。

「うぉぉぉぉぉお!!!」

 打った瞬間、全身が歓喜に震えた。

 胸の奥から、魂を引き裂くような叫びが迸る。今日一番の叫び。俺は夢中で、一塁へと駆け出した。



「安村さん。今日の試合はいかがでしたか?」

「スコアとしては、四対一。大阪TI学園が勝利を収めましたが、これがただの結果だけでは終わらない、素晴らしい試合でしたね」

「序盤から終始緊迫した展開でしたが、やはりカルテットの活躍が目を引きました。特に、ダメ出しのツーラン。あれはもう、言葉が出ないほどの見事な一発でした。そうすると、今日のMVPはカルテットの一員、千国君ということになりますか?」

「もちろん、千国君の活躍も素晴らしいですが、今日は間違いなく第二甲府の工藤君ですね」

「工藤君ですか?」

「はい。大阪TI相手に、あのように粘り強く投げ続けた工藤君の姿勢は、正直、言葉に尽くせないほど感動的でした。守備の堅実さや三浦キャプテンのリードも光りましたが、それ以上に工藤君のピッチング。あの一球一球には、心からの拍手を送りたい」

「本当に、私も鳥肌が立ちました。そして試合が終わった今でも、こうして拍手が続いていますね。試合は終わっているのに、この温かい拍手は、まさに工藤君をはじめ、選手全員の頑張りに対する賛辞です」

「ええ、勝った大阪TIも、負けた第二甲府も、どちらも素晴らしいチームでした。両チームともに、試合後にそれぞれの観客席に向かって挨拶をしています。その姿が、また観客を感動させているのでしょう。今、両方の観客席からの拍手が、どんどん大きくなっていっていますね」



「うぉ!!! 感動した!!!」

 松田君の声かと思った。しかし、振り返ると、そこにいたのはまさかの担任だった。

 まるで少年のように拳を突き上げ、目を輝かせている。あの先生が、こんなにも熱くなっているなんて。信じられないほど、素晴らしい試合だった。

「ほら、下に行こう!」

 瑠璃に手を引かれ、選手たちのもとへと近づいていく。

 瑞希の隣を通る瞬間、ふと声をかけた。

「瑞希も一緒に行こう」

 彼女は笑いながら、私の隣を歩き出し、一緒に階段を降りる。

 少し気になって、尋ねてみた。

「なんでさっき、あの曲にしたの?」

「あ……。いや、野球部のマネージャーから頼まれてね」

「そっか。びっくりしたよ」

「もともと、いつかここぞというタイミングで流したいって言われてたし。千沙なら、いきなりでもいけるかなって」

「ははは、きついよ、さすがに。でも……ありがとう」

「けど、あれね」

「何が?」

「千沙、あの音は喜びにあふれていたよ」

 瑞希はそう言って、先に階段を降りて行った。

 あれ? 私、喜んでいたんだろうか。

 そんなことを考えながら、瑠璃たちと一緒に野球部のみんなに向かって手を振る。

「お前ら好きだぞ!!!」

 一瞬、松田君の声かと思った。でも、振り向くと、号泣していたのはクラスメイトの須賀君だった。

 あれ? こんなキャラだったっけ。

 ふと目をやると、信二とも目が合う。

 お互い、不思議な気持ちのまま、穏やかに手を振った。

 まるで、昔の友人に戻ったかのように、ただ自然に。

 心の奥に、あたたかい安心感が広がっていく。

 でも、次に目が合ったのは工藤君。いや、大気君だ。

 その瞬間、大気君が見せたのは、今まで一度も見たことのない、心からの笑顔だった。

 それは、工藤光のそれではなく、紛れもなく、彼自身の輿水大気の笑顔だった。

 すべてが、一瞬で心の奥に刻まれた。

(記憶が失われていくなんて、嘘だ)

 強く、強く、そう思った。

 どれだけ時が経とうと、この瞬間の感情も、大気君の笑顔も、そして私たちの繋がりも、決して消えることはない。

 確信したその次の瞬間、気づけば、私は球場の外へ向かって走り出していた。

 心の奥底から、何かが叫んでいた。

 どこかへ、何かを追いかけて。走らずには、いられなかった。



「おい、光のやつ、ベンチ裏に走っていったな」

 はじめがそう声を上げた瞬間、周囲の空気がさっと変わった。

 今日は最後まで投げ抜いたし、疲労も限界に近いはずだ。それでも、信二は軽く肩をすくめ、まるで何でもないことのように、しかしどこか照れくさそうに言った。

「……うんこがヤバいらしい。荷物の片づけ、頼むってさ」

 一瞬の沈黙の後、吹き出すような笑い声が広がった。信二は口元をゆるめながらも、どこか誤魔化すような視線を落とした。そして一言。

「ああ、お二人さん、お幸せに」


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