試合は佳境に入っていた。
大気の打順は一つ上がっていた。元々三塁を守っていたカット打法の上野先輩を二番にし、打率の高いメンバーで上位打線を固めた。
少しでも点が取れたらという狙いだ。しかし、そのチャンスに回ってくるのが自分だという現実。正直、おもしれえと、笑ってしまった。
打席に立ったその一瞬、ふっと、全ての音が途切れたように感じた。
ピッチャーの目にも、無駄な感情など一切ない。冷徹で、まるで未来を見透かしているような眼差し。何かを語りかけてくるその瞳に、俺は思わず息を呑んだ。
(こいつは、プロに行くのか)
そう思いながらも、無意識に監督の方を見た。
指示を求めての視線。監督は、何も言わずにただ静かに頷いた。
「好きに打て」
その言葉が、耳元で響く。
相変わらず放任。けど、自分達で考えさせることを求めている。
「社会人になったらな、勉強と違ってやったことない、前例がない、訳わからない、そんな物ばかりだ。だからこそ、そういう物に出会った時に、どう対処するか。問題解決へのプロセスもそうだが、どういう態度で、どうやって周りの人を巻き込んでいくか。それを学べ」
よく言っていたその言葉。意味は正直良く分からなかったけど、この経験を通して、何か掴んだような気がした。
俺は少し笑みを浮かべ、監督に頷く。
でも監督は、本当はどう思っているのだろうか。あの日、たまたま練習が休みになったから、俺はいつもより早く帰れた。でもそれが、結果的に「死に繋がった」。
その後、ニュースで監督が自分自身に責任を感じていることを知った。
おそらく、バツイチで一人暮らしをしている監督にとって、自分の行動が招いた結果を一人で背負い込んでいるのだろう。正直、少し心配にもなる。
「プレイ!」
その声が、まるで自分の心を引き戻すかのように響く。
でもさ、どう考えても、俺を殺したあのチンピラが悪い。あいつがいなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
怒りが込み上げてくるが、その感情をすぐに振り払って、バットを構える自分に集中する。
「ボール」
外角低めに外れた。
でも、なんだろうな。今、甲子園に立っている自分が不思議で仕方ない。あの出来事がなければ、あの未熟な俺はここに立つこともなかっただろう。
「ファール」
ストレートに詰まる。
一年の夏、少し天狗になっていたかもしれない。エース番号を取れたし、練習もしっかりしていたし、結果も出て、嬉しかった。特に指がボールに良く馴染む感覚が、本当に気持ちよかった。
でも、全てを失って初めてわかったんだ。どれだけ俺が恵まれていたか。
「ボール」
驚くほど、全てを失った。
マウンドに立つことができるだけでなく、野球ができること自体、どれだけ恵まれていることかを痛感した。
特に、今の家族には感謝している。
今の家は裕福とは言えない。今の母親はシングルマザーとして、俺を支えてくれた。用具の購入費から洗濯、食事まで、すべて面倒を見てくれた。そして、祖父母も温かく見守ってくれて、そのありがたみを今、ようやく理解した。
特に他の家の人から、無償の愛情を注がれるからこそ、今まで受けてきたことの価値に気づくことができた。
「ファール」
だけど、だからこそだ。俺はもう、いなくならなきゃいけない。この身体を、しっかりと工藤光に返さなければならない。
本来注がれるべき愛情は、俺ではなく、工藤光にこそ向けられるべきだ。
悲しいが、死者にはもう居場所なんて無いんだ。世の中は、自分がいなくても、勝手に進んでいく。
「ファール」
けど、それでも。この試合だけはわがままをさせてくれ。あの世から舞い戻ってくるくらい、未練があり、そして成し遂げたかったことがある。だからこそ、この試合が終わったら、俺はもういなくなってもいい。そう思っている。
心残りの中の一つである、本当の親について。きっと、この第二甲府高校のプレイを見ているんじゃないか。特に、親父も野球が好きだったし。
今まで本当の親にも何もできなかったけど、これが親孝行になるんだろうか。あまりにも一方的であり、送り主の分かりにくい親孝行。でも、きっと本当の親だからこそ、気づいてくれるはずだ。いや、本当の親だからこそ、気づいてくれると信じている。
「ファール」
そして光。身体を使ってしまって、本当にごめんな。せっかくイケメンだったのに、あんまりその強みを活かせてなかったかも。華のセブンティーンが台無しだな。
けど、人生は楽しいって思わないか?
段々とお前の記憶が見えるようになり、何があったのかが分かったよ。正直、俺はあんな経験をしたことがなかったから、同じ高校生でも、こういう人生を送っている奴がいると知って、絶句した。本当に辛かっただろう……。他人から言われると嫌かもしれないけれど、当事者の目線で見える俺だからこそ、少しは心を開いてほしい。
でもさ、本当に人生って、何があるか分からないよな。
光にとっての絶望は、いじめられて、自殺。
俺にとっての絶望は、事故死して、孤独。
どちらが辛いかは言えないけれど、お互いにそこからまた前を向いていける気がするんだ。まあ、俺を見ていて、苦しそうだと思うかもしれないけどな。
でもさ、こうやっていつか、最高の瞬間に巡り合える。自分にとって適切な居場所に、そして、素敵な人たちに。だからこそ、きついときほど周りを頼りつつ、それでも希望があると信じて、前を向いていこう。
死ななければ、こうやってまた挽回のチャンスは回ってくる。最後に逆転できたら、それでいいんだ。
「ファール」
そして信二、お前ともう一度野球ができて、俺、悔いはないよ。
正直最初、お前が金丸さんの誘いを断った時、驚いたよ。金丸さんはお前を信頼していたし、何よりお前が甲斐学院に行けば、俺も一緒に行くと思っていたからだ。
けどすぐに、「お前も一緒に金丸さんぶっ潰すだろ?」って言ってきて、思わず笑ってしまった。
ああ、でも本当に、いい夢を見られたし、充実した二年間だったな。
いつも一緒で、話し合い、喧嘩して、冗談を言い合った。正直、一つひとつは覚えていないけれど、身体の中からしっかり詰まった何かを感じる。
そして何より、お前、いい奴だな。大人だよ、本当に。大切な人の前では、自分の心を押し殺して、相手を優先してしまう。だからこそ、心配になるけどね。
大学生になると、変な女もいるんじゃないか。そんな奴には、好きにならないと思うけど、気をつけろよ。そして、幸せになれよ。
「ファール」
最後に……千沙先輩。
あんまり話せなかったですね。一方的に打ち明かしてごめんなさい。でも、先輩なら分かってくれるだろうし、もう俺は記憶がなくなっていくだけです。そんな俺に構わず、幸せになってください。これは、本当に素直にそう思っています。
正直、信二と付き合うとは思っていなかったし、それで卑屈になっていた時もありました。けど、そのことは本当に反省しています。勝手に期待して、でも思うようにならずに怒るなんて、最低でした。
でも、千沙先輩には未来もあるし、幸せになる権利があります。何せ、俺と違い、あなたはまだ生きています。これからも生きていかないといけません。それは、死んだ俺からの、勝手に期待していいことだと思っています。
正直、あの時の告白の返事を聞けなかったのは心残りです。
別に付き合うという関係が、俺たちにとって、もう何か特別な意味を持つわけではないとも分かっています。それでも、もう一度、あなたに「好き」と直接伝えたかった。
「ボール!」
ストレートが高めに外れる。
「うぉぉぉぉぉお~!」
球場全体からどよめきが起きる。
もう少しだ。見えてきたな。相手もムキになってきている。ストレートばっかりだ。
それにしても……ストレートと分かっていても、ついていくだけで精一杯だ。速い。この人、前の俺と同じ、いや、それ以上か?
すげえな。これは正面から戦ってもきついかもしれない。なら、もっとカットして粘らなきゃ。それで……フォアボールも狙いつついくか。そうだ! あの時の少年野球の試合みたいに。
ん? あれ?
俺って、カット打法をするタイプだったっけ?