二〇一七年八月十日。
「おい、試合前だぞ、寝ぼけんな!」
信二に叩かれた。やべえ、感傷に浸ってた。だせえ。
「うっせえわ」
そう言いながらも、つい笑ってしまう。
信二はそれを見て、満足そうに頷くと、ベンチ前の仲間たちに向かって叫んだ。
「さあ、行こう!」
この試合、あとどれだけ俺が俺でいられるか。
九回か、五回か、一回か。それとも、今すぐか。
まあ、分からん。けど、どうでもいい。
さあ、甲子園。俺を見ていろ。
「さあ、五回まで終了しましたが、解説の安村さん。この試合の状況をどうご覧になりますか?」
「はい、当初の予想通りと言いますが、やはり大阪TI学園は強いですね。これまでにヒットは七本、打線がしっかりとボールを身体に引き寄せて、強烈な一撃を放っています」
「そうですね。TIカルテットと呼ばれる主力選手たちは、高校日本代表にも選ばれるほどの実力者。ここまで見事なヒットを打っていますが、それでも点数は二点止まり。思うように得点が伸びていません」
「その通りです。ここまで二点のみというのは、少し物足りないですね。優位に立っているはずのチームが、ちょっと焦りを見せているようです。まあ、こうなるとやはり、第二甲府高校のバッテリーに敬意を払わなければなりません」
「まさにその通りですね。第二甲府高校のピッチャーは工藤光、二年生です。そして、キャッチャーは三年でキャプテンの三浦信二。先輩後輩バッテリーという形です。特に工藤君、今年の五月に転校してきたばかりで、元々のエースの東君が故障で欠場していたため、急遽チームの大黒柱に任命されました。しかし、彼の投球はまさに圧巻です」
「そうですね。回を重ねるごとに、工藤君の投球がまるで芸術作品のように洗練されていく様子が見て取れます。この後も楽しみですね」
「……すごい」
甲子園という巨大な舞台に圧倒されながらも、それ以上に目の前で繰り広げられる死闘に、心が引き込まれていった。
信二も、工藤君、いや、大気君も、全身全霊で戦っている。その姿は、ただの試合を超えた何かを感じさせる。
二人は今、素直に向き合い、自己矛盾を抱えずに、ただ自分を全力で楽しんでいる。それが、こんなにも魅力的に映るのだ。そして、その二人が織りなすデュエットは、どんどん球場全体を巻き込んでいく。
私も、こんな風に全力で向き合っていた時があっただろうか。
額を伝う汗の冷たさを感じつつ、自分の内面に引きこもった恥ずかしさが、じわじわと込み上げてくる。
「はい、次攻撃!」
瑞希の声が響き渡り、部員たちが次々と楽器を手に取って準備を始める。
気づけば、もう七回の裏。
大阪TI学園に二点を取られ、こちらはヒットゼロという厳しい状況。
世代ナンバーワンエースを攻略するのは、やっぱり並大抵のことじゃない。
「はい、サウスポー!」
野球部のマネージャーが、フリップに次の演奏曲を表示させ、瑞希に指示を出す。
観客席からのざわめきが少しずつ静まり、アナウンスが続く。
「三番、ファースト、戸堂君!」
その瞬間、演奏が始まる。
瑠璃も隣の雪ちゃんも、斜め前の熊谷君も、みんな必死に楽器を鳴らしている。
私はその音に身を委ねながら、それよりも何よりも、この広大な甲子園で演奏できることが、本当に嬉しくてたまらなかった。
今まで総合芸術文化祭や大きなホールで演奏したことはあったけれど、ここはまったく違う。
広大な球場、その中で大勢の観客がいる。圧倒的なその景色、迫力が、こんなにも異なるものだとは思ってもいなかった。
「あの二人が、私たちにこんな景色を見せてくれた」
それが、ただただ嬉しくて仕方なかった。
「うぉー!!!!」
松田君の雄叫びと共に、マネージャーが「ヒット!」のフリップを掲げる。戸堂君がついに粘り強くセンター前にヒットを放った。次は信二だ。
「おい、信二。そろそろ決めてくれや」
ネクストバッターズサークルに向かう前、大気がけだるそうに言ってきた。
その口調には余裕を見せたがっているのが分かる。内心では笑いたくなるが、そんなことを口に出すわけにはいかない。俺は黙って打席に立った。
けど、この試合、しんどい。相手がどれだけ強いかを肌で感じている。
大阪TI学園。間違いなく、全国トップクラスのバッターたちが揃っている。去年、あの金丸さん率いる甲斐学院を倒した打線。
だが今日、これだけ打たれながらも、どうにかこうにか点を取られずに来たのが不思議なくらいだ。
去年の大気なら、もうとっくに崩れていたかもしれない。でも、今は違う。
大気。お前は、変わった。いや、成長した。ここまで精度を上げてきたなんて、正直驚きだ。今の大気の球速は、速いわけではない。それでも、しっかりと制球し、相手を一球ごとに追い込んでいく。お前の進化が見えるからこそ、俺も絶対に応えたい。
(それでも、気合だけでこのピッチャーは打てないんだろうな)
思わずそんな考えが頭をよぎる。
やはり、ドラフト有力候補の相手エースは、やばかった。だが、何よりも今日は、それ以上に大気が別格だ。
(大気、頼むぞ)
その言葉を心の中で何度も繰り返していた。
これが、この夏の最後かもしれない。おそらく、それは工藤光ではなく、大気にとってもだ。二年生のくせに、精神的には完全に三年生。いや、人生最後かもしれないからこそ、それ以上の気迫を感じる。
「キーン!」
戸堂の打球がしっかりと外野に飛んでいく。
これでようやく、ノーアウト一塁。チャンスが広がった。
「よし、行け!」
大気の声が響く。
監督を見ると、指示は「お前に任す」だった。
わかっている。こいつのカーブ、鋭くて、簡単には打たせてくれない。何せ左投げ特有の独特の軌道。皆手こずっていた。
けどな、俺が何年間も見てきた、大気のかつてのカーブに比べたら、大したことはねえはず。
「ゴンッ!」
(いきなりフォークかよ)
バットがかすった瞬間、ボールが詰まった感触と共に、三塁側のベースラインにボールが流れていった。かなり際どい。
すぐに「出るな」と思いながら、無意識に一塁へ全力で走り出す。
足音が響き、グラウンドに響く歓声。振り返る暇もない、ただひたすらに足を運び続ける。
その瞬間、後ろから「シュッ」と音を立てて送球が飛んできた。
「アウト!」
その声が響き渡る。
ガクンと肩の力が抜け、ベンチに向かって歩き始める。
仮にベースラインに残ったら、ノーアウト一塁、二塁。次のバッターが打ったら、最悪同点。
俺の打球はファウルの可能性もあったが、それならさっさとアウトにし、次を抑えればいい。相手のキャッチャーの考えだろう。
ちらっと相手のキャッチャーを見ると、ものすごい形相でこちらを睨んでいた。
なるほど、大した自信だ。
俺の相棒のピッチャーなら、次の打者も抑えるってことね。
けどもういい。ランナーを進めるという、俺の役割は終えた。