二〇一七年八月十日。
「はーい、全員いる?」
甲子園への応援のため、早朝、静かな高校に集まった。
夜明け前の肌寒さが、どこか懐かしく感じる。この時間に来るのは修学旅行以来かもしれない。
バスに乗り込むと、早速、席の奪い合いが始まった。
いつもなら、私もすぐにお気に入りの席を確保するために動き出すところだけど、その日は、正直そんなことがどうでもよくなっていた。周りの賑やかさも、何だか遠くから聞こえてくるように感じる。
瑠璃たちは別のバスだったし、瑞希と人数確認の仕事もあるし、結局バス前方の、顧問の土橋の隣しか空いていなかった。
バスはゆっくりと動き出し、エンジン音と共に甲子園に向かって進んでいった。
最初の一時間ほど、バスの中は賑やかだった。部員たちは甲子園への興奮で声を上げ、笑い合っていた。しかし、早朝の影響もあり、だんだんと静かになり、眠る部員も増え、バスの中は穏やかな空気に包まれた。
私は、そんな中で、ペットボトルコーヒーを飲みながら、ひたすら書類に目を通している土橋が気になった。
そして突然、書類を見ながら、土橋が口を開いた。
「俺は、正直、お前に謝らないといけないと思っている」
その一言に、私は驚き、言葉を失った。
「えっと、本当にいきなりですね」
すると土橋は書類から目を上げた。
「そうだな、こういう機会がないと、なかなか言えないからな」
しばらくの沈黙。バスがトンネルに入った瞬間、車内が暗くなり、土橋の表情が見えにくくなった。その沈黙が、逆に言葉の重みを増していく。
「今年の自由曲、正直、迷った。実は、お前たちが入学した頃から、この代でこういう曲ができるんじゃないかと、色々候補を考えていた。その中で、去年や今年の自由曲、あえて難易度の高い曲を選んできた。それは、お前たちなら、曲に振り回されることなく、自分たちのものにできるって信じていたから。そして、何より、いい経験になるとも思っていた」
トンネルの中で、土橋の声が響く。
私はその言葉に少し胸が痛んだ。土橋は私たちのために何度も考えて、曲を選んできたのだろう。でも、その選択が私にとっては、苦しいものだった。
「だからこそ、今年はバーンズで行こうと思っていた。正直、このメンバーなら、これ以上にベストな曲はないと思っていた。でも、あの事故の影響で、お前にとって、それは大きな苦痛になるかもしれないとも理解していた。そこまで考えたからこそ、定期演奏会のプログラムからも外し、コンクールの候補曲からも外していた」
土橋の言葉に、私は何も言えなかった。
確かに、その曲は私にとって、意味が重すぎた。私はあの事故の日を、今も忘れられない。それが曲の背景と少し似ているため、私はどうしても、正面から曲に向き合うことができていなかった。
「しかしな、お前の復活してからの音が痛々しく思えた。綺麗な音ではあるが、まるで感情が無い。だからこそ、俺的にはこの曲の力も借りて、お前がより前を向いて歩いていけるんじゃないか。そう思うようになったんだ。今後、もし苦難があったとしても、お前自身がその経験を糧にして、踏ん張っていけるんじゃないだろうか。いや、俺のわがままを、お前に押し付けるために、勝手に期待していたとも言える。だからこそ、本当に申し訳ないと思っている」
土橋が頭を下げる。
普段、あまり本音を見せない土橋が、こんな風に素直に謝るなんて、私は本当に驚いた。
「そうだったんですね……」
「いや、俺もこんなことを、生徒に言うべきじゃないと思っていた。でも、ここ数日のお前の音を聞いたり、話を聞いたりして、もう居ても立ってもいられなかった」
(もしかしたら、瑠璃や瑞希たちが言ってくれたんだろうな)
私は静かに納得した。
「そうだったのですね。素直に気遣ってくださるだけでも、本当にありがたいです。でも、事実、あまり吹けていないのも確かですし、難しいです」
「……だろうな。正直、それは見ていて分かる」
「はい、どれだけ第四楽章で、明るい音をイメージして、出せるか。そういう技術が必要だとは分かっています」
「違う。技術ではない」
「え?」
トンネルの出口が見え、バスの中が再び明るくなった。土橋の顔が、ほんのりと光に包まれるように見えた。
「技術じゃない。練習する必要もない。考える必要もない。喜びは、人間が本来持っている感情だ。喜ぼうと考えて、喜ぶんじゃない。人ってのは、本当に嬉しい物に触れると、勝手に喜んでしまうものさ。ただ、それを、素直に出せばいい」
日の光を浴びた土橋の顔は、普段よりも柔らかく、優しく見えた。
「大気、行くか」
「ああ」
試合前の投球練習を終え、ベンチへ向かう。
ここが甲子園か。思ったより狭いな。
そんなことを考える自分が、どこかおかしく思える。
それでも胸は高鳴る。昨日は興奮しすぎて眠れなかったし、今もあくびが出そうだ。
「大気、寝不足か?」
「はじめのいびきがうるさくてさ」
「おい、大丈夫か?」
信二が心配そうに覗き込んでくる。
高校生になって、あいつはちょっと知的なキャッチャーになったみたいだけど、根っからの心配性は変わらない。まるでお母さんみたいだ。
そんな何気ないやりとりが、懐かしくて、心地よかった。