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二〇一七年七月二十四日

 二〇一七年七月二十四日。

 試合前のプレッシャーが体を重くし、心を乱していた。

 昨夜、寝ようとしても心は落ち着かず、頭だけがやけにはっきりとしていた。

 目を閉じるたびに浮かぶのは、試合のこと、そして自分が何者なのかという不安ばかり。

 輿水大気という自分が、この場にいる意味が分からなくなる瞬間があって、その度に眠れなくなる。

 でも、試合は迫っている。考えている暇はない。気持ちを切り替えなければ。

 照りつける日差し。まるで自分の悩みがちっぽけなもののように感じる、真っ青な空。

(バーベキュー日和だな)

 そんなことを考える自分に驚きつつ、やはり精神状態が安定していないと感じる。

 球場に着き、準備を進めるうちに、妙に体が強張っていることに気がついた。落ち着かなくて、すぐにトイレに行きたくなった。

 戻っても、また同じ感覚が襲ってきた。さすがにひどいと思いながらも、どうしても気になって、またトイレに駆け込んだ。

 用を足しても、またすぐに行きたくなり、りんに「便秘か?」とバカにされた。けれど、そんなこと言っていられない。

 気持ちを落ち着けるために、三回目はあえて球場の外の遠くのトイレに向かい、なんとか自分を整えた。

 三回目のトイレから出ると、ようやく気が収まった。

 一息ついて、ようやく試合に集中できるかと思ったが、なぜか出口に千沙先輩が立っていた。

 予想外の出会いに一気に身体が強張る。

 千沙先輩は少し驚いたような顔をして、こちらを見ていた。それでも風に髪が揺れ、暑さにも関わらず、どこか涼しげに見えた。

 俺は慌てていたが、どこかで安堵も感じていた。この緊張感の中で千沙先輩と会話し、少しだけ心が軽くなった気がした。

 その時、後ろからふいに声を掛けられた。

 振り向くと、すぐに分かった。樋口だ。

 中学の時に対戦したことがあり、俺のことをやたらと慕っていた。懐かしさと面倒くささが入り混じる。あれから何年も経ったのに、あいつは全然変わらない。

 その瞬間、ふと気づいた。

 あれ、あの時の事故で助けたのが樋口だったんだ。

 完全に忘れていたけど、髪を伸ばしていたから、あれが樋口だとは気づかなかった。

 でも、よく考えると、あんな変な奴を助けてしまったな。あの時も、もしかしたら憧れの俺を見かけて、橋の上に飛んできたのかもしれない。余計なことをしやがって。

 樋口は相変わらず、やたらと絡んできて、面倒くさい。

 なんとか適当に返事をしながら、早くこの場を終わらせたかった。

 でも、事故の話に触れると、千沙先輩がすごく悲しそうな表情をしているのが分かり、その瞬間、胸が痛くなった。

 その後、トイレから出てきた樋口の先輩のおかげで、なんとかその場は解散となったが、俺はその間ずっと千沙先輩の顔が気になって仕方なかった。



 みんなのところに向かう途中、先輩のことをずっと考えていた。

 あの悲しそうな顔が頭から離れない。

 何か嫌なことを思い出したのだろうか。それとも、ただ、俺のことを思っているのか。

 好きな人が悲しそうな顔をしているのを見るのは、本当に辛い。何より、千沙先輩には笑顔が似合うから、あの表情が余計に胸に刺さった。

「どこ行っていた?」

 集合場所に戻ると、真剣な表情の信二が、少し面白かった。真面目過ぎ。緊張し過ぎだろ。

 でも、樋口と話をしたおかげで、あの日のこと。治療室での、信二との最後の会話を自然と思い出した。

「大気……しっかりしろ。甲子園は? おい! そして……、千紗のことを置いて行くつもりか?? ふざけんな。そんなことするな……。俺が取っちまうぞ!」

「あ、あ、ぁぁあああ」

「だから生きろ! おい!」

「し……ん……じ……」

「ああ、聞こえているぞ!」

「ご……ごめ……。ち……せ……ん……ぱ、のこと……だの……む」

 そこで意識が遠くなった。

 信二は、千沙先輩のことが好きだったらしい。けど、俺と先輩が仲良くなってからは、完璧に先輩と一定の距離感を保っていた。

 信二は本当にいい奴で、だからこそ、もしも俺が死んで千沙先輩が悲しんでいたら、信二がきっとフォローしてくれるだろうって思っていた。信二なら、千沙先輩をしっかり支えてくれるだろうと。

 そして先ほどと今までの様子から、千沙先輩は事故で悲しみを感じたが、しっかり信二がフォローをしてくれたのだろう。

 さらに予想を超えて、二人は付き合い、信二と一緒に幸せになったと分かった。

 あの時の信二の「取っちまうぞ」発言は、冗談かと思っていたが、本気だったようだ。

 でもそれを置いといても、今の状況として、「千紗先輩が悲しくならず、幸せになる」という、俺の願い通り、いや、それ以上の結果になっていたと分かった。

 だからこそ、俺が今できることは何だろう。

 そう、やっぱり、この試合で勝つこと。そして、きっぱりと自分の役割を終えることだ。

 信二と千沙先輩の幸せを見届けて、俺は彼らからフェードアウトする。それだけが、今の自分にできる最良のことだと改めて思った。

 自分でも分かっていた。少しずつ、俺は輿水大気ではなく、工藤光になってきている。振り返れば、輿水大気の記憶は、まるで夢のように遠く感じる。

 だから、これでいいんだと思う。成仏しよう。全てを終わらせる時が来たのだと、心のどこかで感じていた。

 試合中、そんなモヤモヤを抱えていたが、段々と自問自答し、パズルのように自己解決していった。

 そして、試合が終わった。

 ぎりぎりだったけど、最後まで粘り抜いた。

 さすが古橋さん、全打席が恐怖でしかなかった。でも、あの試合は本当に良い試合になった。

 三塁スタンドの盛り上がりが予想以上で、球場全体が一つになったような感覚があった。

 俺は真っ先に千沙先輩を探した。無意識に、あの笑顔がどこかで俺を待っている気がして。

 見つけた瞬間、千沙先輩がとても幸せそうに笑っていた。それを見た瞬間、去年の夏に始まった何かが、静かに終わった気がした。

 甲子園出場も決めたし、もう千沙先輩にとって、俺の役割は終わったと思った。

 でも、案の定、千沙先輩と目が合った。

 彼女が手を振ってくる。胸が締めつけられるようだった。

(やばい、また成仏できなくなる)

 そんなことを瞬間的に考えて、思わずその場から逃げ出した。

 千沙先輩に向き合って、笑顔を受け入れたら、また俺が工藤光として生きる意味を、見失ってしまう。もう、俺は退場すべき人だ。輿水大気じゃない、工藤光だ。

 しかし、信二に捕まった。そしてその時、もういいかなと思ってしまった。神様との約束は破ることにはなるけど。これ以上は無理だと思った。


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