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二〇一七年六月八日

 数日間、ずっと悩み続けた。あの日、廊下で偶然すれ違った二人の笑顔も、今になって鮮明に蘇る。信二と先輩は、本当に楽しそうだった。

「そうか、そうだったんだ……」

 先輩は今、幸せなんだ。それなのに俺は、いつか俺が再び現れたとき、先輩は驚き、喜び、あの頃のように笑ってくれると思い込んでいた。

 でも、現実はそんな甘いものじゃなかった。俺がいない間に、先輩は前を向いて歩き出していた。

 もしかすると、そもそも大きな勘違いをしていたかもしれない。あの事故の日、先輩から告白の返事をもらう予定だった。何となく、その前の一か月間は楽しくて、お互いに部活と両立できてたし、絶対にいい返事をもらえると思っていた。でも、それ自体が間違いだったかもしれない。

「ここには、もう俺の居場所なんてないのかもしれない……」

 その思いが頭を過ぎるたびに胸が締め付けられる。

 俺はただの幽霊みたいな存在だ。

 それでも、心が割れそうなほど痛む。

「俺がいなくても、先輩は平気だったんだな……」

 練習終わりに、俺は自転車を漕ぎながら、溜息を吐いた。



 風呂上がりに居間に降りると、祖母がテレビに釘付けになっていた。最近退職して暇になった祖母は、地元の図書館でビデオを借りて観るのが日課らしい。

 今日の映画は『ルパン三世 カリオストロの城』。

「一緒に見る?」と、祖母がにっこり笑って誘ってきた。

 明日も早いし、正直すぐにでも寝たい気分だったが、寝られる精神状態ではなかった。少しでも気を紛らわせようと、結局、つい最後まで観てしまった。

 小さい頃に一度観たことがあったけれど、大人になってから改めて見ると、印象が全く違った。特に心に残ったのは、ラストシーンだった。

 ルパンに助けられたヒロインが彼に惚れ込んで「泥棒の仲間にして連れて行ってほしい」と懇願する場面。あの本気の顔、ルパンに対する純粋な想いが伝わってきた。

 ルパンもきっと、彼女のことが好きだったんだろうけど、それでも彼は少し悩んだ後に、「君には君の人生がある」と言い残して立ち去る。

 ヒロインの後ろ姿が切なく、心にグッときた。

 映画が終わり、エンドロールが流れる中、祖母がポツリと呟いた。

「ルパンって、かっこいいね」

「なんで?」と俺が尋ねると、祖母は画面を見つめたまま、少し微笑んだ。

「本当に大切な人だと思ったらね、その子の未来を考えてあげるのよ。自分の気持ちじゃなくて、相手にとっての一番の幸せをね」

 その言葉を聞いた瞬間、胸がザワついた。まるで心臓に直接響くような、強烈な感覚だった。

 帰ってきた母に「まだ起きてるの?」と怒られ、慌てて自分の部屋に引っ込んだ。布団に入った途端、祖母の言葉が再び胸を突いた。

「俺は……千沙先輩の幸せを、本当に考えてあげられているのか?」

 その問いがぐるぐると頭の中で回る。

 千沙先輩のことを考えているつもりでも、結局それはただの自分のエゴじゃないか。

 自分が会いたいから、会いたくて仕方ないから、ただそれだけなんじゃないか。

 でも、それだけでは済まない。簡単に諦めきれるほど、先輩への想いは軽くない。

「それでも、俺は……」

 心の中で何かが叫び続ける。

 無理にでも想いを押し込もうとしても、どうしても胸の中からあふれ出る気持ちを抑えきれなかった。だけど、同時に気づく。

 それでも、彼女が幸せなら、それを壊す権利は俺にはないんだ。

 それが俺の本当の答えだった。「大好きな人が幸せ」って、それだけでもう十分じゃないか。けれど、布団の中で、涙が頬を伝った。言葉にはできない何かが、溢れ出てきた。

「俺にできることは......甲子園に行くことだけだ」

 台風の日、先輩が一度だけ言った。

「甲子園だと、もっとすごかったんだろうね......」

 おそらくその時は、ただの軽い願望だったのかもしれない。

 でも今、俺ができる唯一のこと。それは、信二や千沙先輩たちを、甲子園に連れて行くこと。だから、俺は死に物狂いで頑張るしかない。

 泣き疲れて目を閉じた時、心のどこかで微かな覚悟が生まれていた。それが、今の俺の生きる力になる気がした。


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