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二〇一七年六月二日

 二〇一七年六月二日。

 六月に入り、練習試合が増えてきた。

 グラウンドには夏の匂いが漂い始め、チーム全体に少しずつ緊張感が走る。

 今年のエース、東さんはさすがだ。どんな場面でも落ち着いて投げ、きっちりとチームを引っ張っている。その姿に、やっぱり頼もしさを感じる。

 一方で、問題は控えだ。

 矢部は急遽ピッチャーにコンバートされたらしい。俺がいたときは外野手だったけど、球筋自体は悪くない。しかし、試合中に見せる小さな動揺が気になる。だからこそ、信二も監督も俺を戦力としてカウントしているんだろう。

 練習試合では、徐々に実戦登板の機会が増えてきた。しかし、正直、あまりいいピッチングができていない。以前のように自由に投げられないもどかしさがある。

 だからこそ、やることはひとつ。とにかく練習を重ねることだ。

 隙間時間を全部使い切る勢いで、朝は誰よりも早くグラウンドに出て、夜は家に帰ってからもシャドウピッチングを繰り返した。

 その姿を見てからだろうか。りんやはじめたちが少しずつ、話しかけてくれるようになり、昼休みには一緒に弁当を食べるようになった。気づけば、以前のように仲間と笑い合う時間が増えてきた。そして、いつしか、俺が「工藤光」であることさえ、忘れそうになる瞬間があった。

 加えて今日、俺は昼休みに担任のもとへ、課題を提出しに行く羽目になった。練習ばかりして授業中は爆睡。そのせいで課題が溜まりに溜まっていた。この第二高校の課題地獄、本当に嫌いだ。

 北館に向かう足取りも重くなる。でも、そんな憂鬱な気持ちは、次の瞬間、消し飛んだ。

 廊下の向こうから、賑やかな声が聞こえてきた。その中に信二の声が混じっている。だけじゃない。その隣に、千沙先輩がいた。

 心臓がドキッと跳ね上がる。

 転校してから、こんな近くで先輩を見るのは初めてだった。自分でも驚くくらい、視線が釘付けになる。先輩の笑い声、髪を耳にかける仕草、そのすべてが目に焼き付くようで、まるで時が止まったみたいだった。

 これまで、俺はずっと遠くから先輩を見守っていた。朝早くグラウンドに行くとき、ちらりと朱雀会館の方を見て、先輩の姿を探すのが日課になっていた。でも、それ以上のことはできなかった。

 声をかけたくても、転校してきたばかりの俺に、そんな勇気はなかった。そもそも何て自分のことを説明すればいいのか、それすら分からない。

(いつか、何かきっかけがあれば)

 そんな風に思いながら日々を過ごしていたけれど、今日、その「きっかけ」が訪れたのかもしれない。信二に軽く返事を返しつつ、ちらりと千沙先輩に目を向ける。

 彼女の視線が、一瞬だけ、俺と交わったような気がした。

 その一瞬で、俺の心はもうどうしようもなく乱れてしまった。

 手が震えそうなくらい高鳴る鼓動を隠すのに必死で、でも、どうしても目を離せない。

 先輩は微笑みながら信二と話していて、俺のことなんて気にしていないかもしれない。

 でも、そうだとしてもいい。だって、俺の中では、たった一瞬の目線が交わっただけで十分だったんだ。

「認知された、たぶん」

 そんな小さな期待を胸に抱きながら、俺はその場を通り過ぎる。



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