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二〇一六年十二月十五日

 二〇一六年十二月十五日。

(今日は……そうか)

 朝、そんなことを考えながら、いつものように部活の準備をする。

 あの夜、結局一睡もできなかった。でも、次の日の朝練には何とか行った。行かないといけない気がしたから。

 先輩は朱雀会館の前で、いつもと変わらない表情でいた。

「おはよう! 大気君」

「おはようございます……」

 明るく声をかけてくれる先輩の姿は、いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。

 もしかしたら、あの夜のことは、ただの勘違いかもしれない。信二が言うように、先輩のあれも天然の一種なのかもしれない。

 だからこそ、「ごめん。そんなつもりじゃなかった」。そんな言葉が返ってくる気がして、怖くてたまらなかった。相手が本当に大切な人だからこそ、その言葉を聞いた瞬間、自分のすべてが否定されるような気がするだろう。考えれば考えるほど、最悪の想像ばかりが膨らんでいく。

 でも、それでも。ただ、もっと一緒にいたかった。

 人を好きになるって、すごいことだと思った。こんなにも誰かの言葉や行動に心が動かされて、それなのに、決して嫌な気がしない。こんな素敵な気持ちをくれた先輩に出会えたことが、それだけで幸せだと思った。

 だから数日後、人生で初めて告白をした。先輩は驚いたようだったが、どこかで心の中で準備をしていたようであった。

「........大気君........ごめんなさい……」

 その返事はとても冷たく、ただ想像していたよりも、優しさが含まれているようで、温かみがあった。

「……分かりました……それでは」と振り返り、離れようとした瞬間、先輩が俺の袖を引っ張った。

「待って! 違うの……」

 振り返ると、先輩は涙目だった。

「本当に嬉しい........本当に」

 先輩は泣きそうになりながらも、大切に、言葉を一つ一つ紡いでくれる。

「でも、大気君が本当に大切な人だからこそ、もし付き合って、別れて、それで関係を失ってしまうのが、本当に怖い」

 そこまで思ってくれていたことに、胸がじーんとなった。

「私、不器用だからさ、部活と両立できるか分からないし。上手くできなくて、それで大気君の迷惑になるのが怖い……。だからね」

 先輩は意を決したように、目を見つめてくる。

「わがままだって、分かっているけど。まずは、友達からで……返事を待って欲しい」

 そう静かに伝えられた。

 その日は、十一月十五日。ちょうど一か月前だった。

 最初は気まずい気もしたが、すぐにいつもの通り、楽しく会話するようになった。そしてそれは、告白する前より確実に距離感が縮まった。その様子を見て、周りの人たちは驚いていた。

 特に信二は、強くショックを受けていた。おそらく、俺が先に彼女を作ってしまったと思い、悔しかったのだろう。けれど、事情を話すと、「何じゃそれ?」と明るく笑っていた。

 その後、噂はあっという間に広まり、校内でも有名になってしまった。

 恥ずかしいけど、そんなことは気にしない。自分たちのペースで、少しずつ歩んでいけばいい。お互いに部活に打ち込みながら、空いた時間を見つけては、一緒に過ごした。特に、愛宕山のプラネタリウムに行った日は、今でも鮮明に覚えている。星が瞬くあのドームの下で、二人で並んで座ったあの時間は、何よりも特別なものだった。

 そして今日。偶然、二人で遊べるチャンスができた。グラウンド整備が、きっかけで。



 今年、グラウンドの霜がひどく、コンディションは最悪だった。下手をしたら、故障の可能性さえある。そこで信二と相談して、他の部活を巻き込み、校長へグラウンド整備の意見書を提出した。

 そして作業当日。半日で終わると言われていた業者の作業は遅れに遅れた。結果、放課後になっても作業は続き、野球部は練習場所を失った。そんな事情を考慮して、野球部の高橋監督は「今日は、久しぶりに休みにしよう」と言い出した。

 練習が休みになるのは、誠に遺憾だ。ようやくピッチングの調子が上がり、信二と新球種の練習をしようと決めていた。しかし、練習が休みになったことで、先輩とデートする絶好の機会ができた。

 千紗先輩は、アンサンブルコンテストが終わったばかりで、部活も休みだと聞いていた。だからこそ、「アンコンお疲れ様会」という形で、先輩がずっと行きたがっていた、甲府の湯村の方にある小さなカフェに誘った。いつも何だかんだ先輩に提案してもらっていたし、何より、県代表になった労いをしたかった。

 授業中であったが、すぐに返事が来た。あの日以来、先輩は人前では普段通りだが、少し子供っぽくて、不真面目なところもあり、そしてやはり、かわいかった。



 放課後、すぐにでも集合場所に向かいたかったが、掃除当番が長引いた。

 先輩にラインで連絡し、『すみません、遅れます……』。

 するとすぐに返事が来て、『了解! 気を付けてね』。

 それに『頑張ります!』という、愛用のペンギンのスタンプを送り、さあ、残りの掃除を片づけようと思った瞬間、また通知音が鳴った。

 何だろうと思ってスマホを見ると、

『あと、あの日の返事をしたい』

 飛び跳ねるほどに驚きつつも、でもなぜか嬉しかった。

 そして雑巾を絞る手を急がせ、終わった途端に自転車に飛び乗った。先輩を待たせるわけにはいかない。そんな焦りと共に、いや、それ以上に、今すぐに会いたかった。その想いは、この肉体と連動し、ペダルを漕ぐ足に力を与えていく。

 学校を抜け、少し行くと、夕陽に染まる新荒川橋が見えた。何の変哲もない、どこにでもありそうな田舎の橋。しかし、いつもと違い、その橋がより魅力的に感じられた。この時間に橋を渡るのは滅多にない。夕焼けが橋全体をオレンジ色に染め、下校中の中学生たちの影が長く伸びていた。その風景はどこか特別で、温かく、そして少しだけエモく感じた。

「今日はいい日だな……」

 別にそういう感性が豊かなタイプではない。でも、この景色を見て、そう感じない人の方が少ないだろう。いや、でも、恋をしているからこそ、何もかもが魅力的に、美しく、そしてかけがえのないもののように思えてくる。

 だからこそか、心の中で、

(先輩と一緒に見たかったな……)

 と思い、自転車を橋の上で止め、スマホでパシャリ。

(きっと見せたら、喜ぶだろう)

 つい、写真の出来に満足してニヤついてしまう。

 そんな野球部員を見てか、目の前の中学生たちが気味悪そうに離れていく。

 すぐに恥ずかしくなり、スマホをしまう。

(あとで直接見せよう)

 そう思った、その直後だった。

 不気味なサイレンと共に、運命がやってきた。

 段々とサイレンが大きくなり、振り返る。すると、黒いセダン型の車が猛スピードでこちらに向かってくる。

 このアルプス通りにはそぐわないスピード感。そして、何よりも冷たい殺気。試合で感じた金丸さんの殺気とは違い、それは本物の殺気であった。

 車の背後には、同じスピード感のパトカーが一台、赤色灯を点滅させながら追いすがっていた。二台のカーチェイスは、どんどんとこちらに近づき、拡声器の声がはっきりと認識できるようになってくる。

(……ヤバい)

 その言葉が頭をよぎった瞬間、橋に差し掛かった暴走車は、制御を失い、歩道へと向かって突っ込んできた。

 体は動かなかった。しかし、それでも冷静にいられた。なぜなら、俺より前方に突っ込みそうだからだ。しかも、そこには先程、俺を気持ち悪がって中学生たちが離れ、誰もいない。

「結構、俺ってラッキーだよな」

 そんなことを思いながら、一応そのカーチェイスのゴールを見届けようと、突っ込むだろう方向に目を向ける。すると、なぜか、一人の男子中学生がいた。息が上がっていた様子から、直前まで走ってきたらしい。しかも、彼は恐怖で固まっていたのだろう、立ち尽くして動けない。

 その姿を見たとき、野次馬から、当事者へ。俺はそのカーチェイスの舞台に乗り込んだ。

 自転車を放り出し、全力で走り、飛び込む。

 そして勢いよくその子を押しのけた瞬間、彼の驚いた顔が見えた。

 その目には、まだ「未来」があった。

 それに反して、彼の瞳に映る自分の顔には、「未来」がなかった。

 その直後、背後から猛烈な衝撃が襲う。視界が揺れ、身体が宙を舞う。ぶつかった直後は痛かった。しかし、痛みよりも不思議な感覚だった。まるでジェットコースターに乗ったように、いつも感じない力の流れ。

 そういえば、富士急ハイランドでも、似た経験をしたっけ。あの時、一緒に行ったはじめが、ジェットコースターで酔って吐いたっけ。

 あれ、今、夕焼けに染まった空が、世界がひっくり返ったように見えて、なんか……綺麗だな。

 これも、先輩に写真見せたら、「すごくきれい!」って、喜んでくれるかな。

 その後、急激に重力に引っ張られていく感覚。耳鳴りが消え、静寂が訪れる中、硬い水面に叩きつけられる感覚だけが最後に残った。


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