二〇一六年十一月十日。
先輩と、少しずつ仲良くなれている。
朝、大体六時半に学校へ行くと、ちょうど先輩とタイミングが重なる。
「大気君、おはよう!」
「おはようございます!」
たったそれだけの会話なのに、胸が高鳴り、全身に力がみなぎる。
「ズバッ!」
「しゃぁぁぁあ!!」
朝から異様にテンションの高い俺を見て、信二が不敵な笑みを浮かべる。
「いい影響だけならウェルカムだけどね……」
意味不明。何を言ってるんだこいつ。
とはいえ、千沙先輩とは挨拶以上の会話ができていない。
台風の日に熱く語りすぎたせいで、今さら話しかけるのが気恥ずかしい。それ以前に、何を話せばいいのかも分からない。
でも、もっと話したい。
悩んだ末、癪だが教室でりんとはじめに相談する。もちろん「他人の話」ということにして。
だが、すぐに無駄だと判明した。
恋愛音痴のりんは「知らね」と一言。
はじめは「とにかく褒めろ! かわいいってな! 恋愛ユーチューバーが言ってたぜ★」と意気揚々。
……こいつ、改めて思うけど、きめえな。
すると、会話を聞いていたクラスメイトの田中雪が呆れ顔で口を挟む。
「普通に話題を振ってみたら?」
「話題?」
「大気、恋愛は攻めなきゃダメでしょ!」
「そうなの?」
「そうでしょ。特に片思いなら」
「でも、何を話せば……」
雪は大げさにため息をつき、「趣味とか、日常会話っぽいのでいいんじゃない?」と教えてくれた。
三本の矢より、専門家。妙に納得する。
「すげえ……意外に物知りだな、雪って」
「でしょ?」
雪は満足そうに去っていった。
そして翌日から、さっそく実践。
「おはようございます! 今日の運勢、知っていますか?」
「おはようございます! 明日は寒くなるらしいですよ!」
「おはようございます! こんな怖い話がありまして……」
……自分で言うのもなんだが、ネタが微妙か?
趣味の話をしようにも、野球以外はからきしだ。アーティストも知らないし、お笑いも見ない。漫画やアニメも、野球一色だった。
それでも千沙先輩は、
「そうなんだ!」
「確かに寒いね!」
「それでそれで?」
と優しく相槌を打ってくれる。
さすがは性格も良く、学校のマドンナで、吹奏楽部のダブルエースの一人。先輩の丁寧な相槌が、本当に嬉しい。
……でも、それは単なる優しさなのだろう。
俺と先輩は、ただの他部活の先輩後輩。同級生でもないし、運動部と文化部という違いもある。どうしたって、埋められない距離がある。会話を重ねるほど、その現実が胸に重くのしかかった。
だからだろうか。話せば話すほど、モヤモヤが募り、夜の寝つきが悪くなった。大好きな人と話せているからこそ、苦しくなる。
そして、ある朝。人生で初めて寝坊した。
目が覚めた瞬間、「やっちまった」と思ったが、どうにもやる気が出ず、結局、朝練をサボった。
一瞬、先輩の顔が浮かんだ。でも、あのストイックな人にとって、俺がいなくても何の支障もないだろう。
翌朝。サボったおかげか、身体の調子はやけに良い。休むのもたまには悪くないな、なんて思いながら、いつものように登校する。話題を考えながら校門をくぐると、すでに来ていた先輩が、驚いた顔で駆け寄ってきた。
「昨日、何で来なかったの? 病気? まさか……交通事故とか? 大丈夫?」
矢継ぎ早に心配され、思わず笑ってしまう。すると、先輩は少しむくれて、「何よ、人が心配してるのに」と拗ねた顔を見せた。
その瞬間、ふと気づく。
もしかして俺、先輩の中で、ただの「その他大勢」じゃなくなったのかもしれない。
そんな日々が続いた、ある朝のこと。
いつものように登校しながら話のネタを探していると、ふと、新しいパン屋ができていることに気づいた。
早朝だから店はまだ準備中。でも、仕込み中なのか、ふわりとバゲットの香ばしい匂いが漂ってくる。
(これは使える……!)
手応えを感じつつ、さっそく千紗先輩に報告する。
「先輩! あの通りに新しいパン屋ができました! 名前もふかふかしてて、美味しそうなんです!」
先輩は嬉しそうに微笑む。
「おはよう! 今日のニュースはそれなのね(笑)。そうなんだ~。いつか行ってみたいね」
どうやらパン好きらしい。良い情報を提供できた気がして、俺も満足する。
「ぜひぜひ! 瑠璃先輩とかと行ったらどうですか? おすすめですよ!」
そう言った瞬間、先輩の表情が一瞬固まった。
「え?」
小さな間があって、先輩はぽつりと答える。
「……うん、そうだね」
なんだ、この空気。急に気まずくなった気がする。
(え? なんか変なこと言ったか俺?)
嫌な汗がにじむ。心臓がドクドクと跳ね、頭の中で原因を探る。
(もしかして瑠璃先輩と喧嘩してる……? だとしたら、完全に地雷踏んだ……)
すぐに謝ろうと顔を上げた、その時だった。
「ねえねえ」
先輩は無表情のまま、ぽつりと言った。
「大気君、そこに連れて行って」
「……へ?」
「今日の放課後に」
「は?」
「もちろん、練習後でいいから」
予想外すぎる展開に、俺は完全に固まった。
十九時を少し過ぎた頃だったと思う。
先輩はすでに到着していて、スマホもいじらず、真っ暗な空をじっと見上げていた。
「あ!」
「お疲れ様です! すみません、遅れました」
「ううん。時間通りだね。さすが」
先輩の頬が少し赤く染まっている。寒い中、待たせてしまったのだろう。申し訳ないと思いつつ、冬の訪れを実感した。
「さあ、行こうっか!」
先輩につられて店内に入ると、温かな空気が全身を包み込んだ。店内は思ったよりも狭く、それでも客足は絶えない。それだけ、このパン屋の味が評判なのだろう。
「わぁー! おいしそう!」
先輩は目を輝かせながら、子どものように店内を見回す。確かに、どれもレベルが高そうだ。……値段を見て、一瞬ひるんでしまうものもあるが。
「先輩は、どのパンが一番好きですか?」
「今日は練習後だし、しょっぱい系が欲しいね~」
「分かります! 練習後って、めっちゃ塩分欲しくなりますよね」
「本当にそれ。吹部も一緒」
そういえば、吹奏楽部もつい最近、県の高等学校芸術文化祭が終わったばかりだったはず。大会が終わった後も、すぐに疲れるまで練習に打ち込む先輩は、本当にストイックだ。
そんなことを考えていると、先輩がカレーパンの前で足を止めた。どうやら、獲物を見つけたらしい。だが、先輩はなぜか、取ろうとしない。
「……先輩、どうしました?」
「んー、迷うね」
「そうですか? でも、ほら、人気ナンバーワンって書いてありますよ?」
「んー???? だからこそだよ、大気君!」
先輩がこんなに迷っているのは珍しい。しかも、いつもよりテンションが高い。パン屋の雰囲気に飲まれてしまったのだろうか。
「お金とかですか? 俺、出しますよ?」
「違う。違うの。ただ……カロリーが……」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声を上げると、先輩が驚いたようにこちらを振り返った。
「そんなに驚く?」
「いや、まあ……確かにカロリーはありますけど、先輩、気にされてるんですね?」
「んー、まあね、一応」
台風が来ても練習に出てくるくせに、カロリーは気にするのか。そう思った瞬間、ツボに入ってしまい、俺は思わず吹き出した。
「ちょ、大気君」
「いや、なんていうか先輩って、やっぱ面白いなって」
「ばかにしてるでしょ??」
「いーや、してませーん(笑)」
俺がけらけら笑うと、先輩は睨んできた。けど、その悪意のない睨みは、きっと少しは信用してくれている証拠だろうと思う。
「でも先輩、せっかくだし、食べましょうよ!」
「んーでも……」
「先輩スタイルいいですし気にし過ぎ。何なら半分こにしましょうか!」
我ながらいいアイディアだと思ったが、先輩の表情はみるみる固まった。
(あれ、半分こが嫌だったのかな?)
恐る恐る、「やっぱり、半分こなしにします?」と聞くと、「そうね、お互いに一個ずつ買いましょう」と、嬉しそうに提案してきた。どうやら、やはり全部食べたかったらしい。
その後、お互いにもう一つずつ甘いパンも追加で買い、お店の前で「いただきます」。
カレーパンはさすが名物になるほどの美味しさだ。カレーのコクもいいが、そもそもパンの生地が良いからこそ、これが成り立つ。
お互いに顔を見合わせて、「うーん!」と唸る。
そこから腹が減っていた俺たちは、無言ですぐに完食。次のパンへ。先輩はチョココロネ、俺はメロンパンを選んだ。
こちらもなかなかの味で美味しい。特に、糖分が身体にしみる―と思っていると、先輩が話しかけてきた。
「そういえば、大気君」
「何ですか?」
「唐突だけど、大気君ってモテるでしょ?」
「へ?」
急な質問に驚き、ゴホゴホとむせてしまった。
その様子を見て、千沙先輩は嬉しそうにふふふっと笑う。
「で、どうなの?」
体育会系の宿命か。年上には逆らえない。嫌な質問でも、答える必要がある。
「……いや、そうでもないですよ」
「本当に?」
「本当に、です。そこまで女子とも話さないですし」
「そうかな? 雪ちゃんは、よく大気君の話してくれるけど」
「え? 何で先輩が雪のこと知っているんですか?」
「私の直属の後輩よ。雪ちゃん、トランペットパート」
「え? あいつって吹部だったんですか?」
「知らないのは、大気君ぐらいでしょう(笑)」
「まじか……」
確かに、夏の大会後、というかあの恋愛相談会の後から、やたらと絡まれるようになった。
雪はいい奴だし、課題の答えを見せてくれるから助かる。でも、それ以上は特に何もなかった。
「で、どうなの?」
先輩は、まるで不倫調査をするような真剣な表情で詰め寄ってくる。
焦ったが、少しトーンを落とし、「別にもてません。何もないですよ、普通に」と素直に答えた。すると先輩は、「ふ〜ん」と含みのある返答をした。
「反対にですけど……」
恥ずかしかったが、この雰囲気じゃいいだろう。気になっていたことを聞いてみた。
「先輩はモテるでしょ?」
「え? 私?」
「そうですよ、信二も言っていましたし」
「え? 信二が? 何言ってるんだろう、あの人。私なんて、まったくモテないよ。本当に。今まで彼氏だっていたことないし」
「本当ですか? 嘘っぽいですね」
「本当だよ、大気君。いや、本当に!」
「ふーん。そうなんですね」
「何その反応……。信じてないね」
「さっきのお返しです」
「......そういうことね。舐めよって……」
先輩は少し、苦虫を食べたような表情で、こちらを睨んできた。でもあえて、いつもの信二のように、スルーすることにした。けど心の中で、なぜか嬉しく感じていた。
(彼氏いないんだ……)
その事実が、ただただ嬉しかったと気が付いた。
すると先輩は、何かに気が付いた様子で、こちらをじーっと見つめてきた。
「なんですか」
その表情が、先程までと違い、さらに真剣で、ドキッとする。
「ねえ」
そう言って、先輩は少し顔を近づけてきた。
(え、まさか!)
びっくりして、身体が硬直する。そして次の瞬間、一言。
「一口」
「へ?」
「メロンパン! 一口!」
先程の影響か、先輩は少し強い声で俺のメロンパンを要求してきた。そして拒否権なんて、先輩の表情を見れば、ないと分かる。
メロンパンを差し出すと、先輩は「ありがとう~!」と嬉しそうに受け取る。
機嫌が直った様子。これで許されるのなら、安い物だ。そう思っていると、先輩は俺が食べていたところをガブッと一口。
(え?)
てっきり、俺が口をつけていない部分を食べるのかと。
驚いた俺の表情を察してか、先輩は「あ、ごめん、これね」と、先輩のチョココロネを渡してくる。いや、そうじゃない。さすが天然だ。
(たしかにこのチョココロネも気にはなっていたけれど……)
しぶしぶ手に受け取ってみると、さらに困った。
(あれ......このチョココロネって、どこから食べるべき?)
メロンパンならどこからでも食べられるが、チョココロネは食べ口が一つ。そこは先輩の食べかけだ。それを避けて端を食べてもいいが、チョコレートソースには届かない。反対からかぶりつくのも手だが、それだとチョコレートが漏れて、後々先輩が食べにくくなる。
先輩をちらっと見ると、「うん! うん!」とおいしそうに二口目を食べ始めていた。
正直、ツッコミを入れたいところだが、それよりもこっちが優先だ。
悩んだ末、俺は先輩に後ろ姿を見せ、少しだけ、先輩の食べかけのところをかじった。味は、ちょっと甘かったと思う。
(俺一人で何をドキドキしているんだか........)
「先輩、これも美味しいですね。お返しします」とちょっと焦り気味で振り返る。
すると、なぜか、いや、なぜか。先輩は、真っ赤な表情で見つめてきていた。
その何とも言えない眼差し。その瞬間、いくら野球バカで鈍感な俺でも、ようやく何かを察した。