目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

二〇一六年十月三日

 二〇一六年十月三日。

 去年のその日は、とにかく風が強かった。

 けれど、それよりも気になったのは、練習だった。

 俺はカッパを着て、自転車に乗り、いつもの時間に学校を目指していた。

 雨はますますひどくなり、風も強くなってきた。

 学校の近く、新荒川橋手前くらいで、「さすがにやばいか」と思ったその瞬間、ポケットの中でスマホがバイブレーションを発したことに気がつく。

 雨の中、必死に確認すると、『件名:【連絡】休校通知のお知らせ』と表示されていた。

「今さらかよ、ざけんな」と心の中で悪態をつきつつも、仕方なくそのまま帰ることにした。

 すると、目の前に同じように自転車を降り、立ち止まっている人がいた。

 スカートの色からおそらく、うちの高校の生徒だろう。

 でも、その人の困惑した様子を見て、何かあったのか? 何かを落としたのか? と心配になった。

 風が強くて声が届かないかもしれないと思い、気をつけて大声で声をかける。

「あの! すみません!」

 その声に振り返ったのは、千紗先輩だった。

「なんで!?」

 人生で一番びっくりした。

 そのまま何となく、暴風の中、一緒に歩いて学校へ向かうことになった。

 だが、学校に着いてみると、校舎は施錠されたままだった。当たり前だ。今日は休校だが、この時間帯に教師が来ることはまずない。

 仕方なく、俺たちは雨に濡れた体を小さく震わせながら、正面玄関の前に座り、雨宿りをすることになった。

「はぁ……助かった……」

 千紗先輩がトランペットケースを床に置き、濡れた前髪を軽く指でかき上げる。その瞬間、水滴が一粒、また一粒、床に落ちていく音が響いた。

 思わずその光景に目を奪われ、胸が一瞬、痛いほどに跳ね上がった。

「あの……大丈夫ですか、先輩?」

 俺は自分のバクバクする心臓を必死に抑えながら、まるで映画の中の良き紳士のように振る舞おうと必死になった。

『大気よ……。余裕のある男は女の子にもてる』

 いつかはじめが言った、あの言葉を思い出した。

「うん、ありがとう。君は平気?」

 そう言って、先輩は俺の顔をじっと見つめる。

 綺麗なまつ毛が揺れ、大きなぱっちりとした目が、まるで俺の心を見透かしているように感じた。

 その小さな顔が近づくたび、心の中で一歩一歩、距離が縮まっていく気がして、俺の心臓はさらに激しく跳ね上がった。

「お、おれは平気です!」

 俺は思わず、体育の授業のように勢いよく答えてしまった。

 その想像よりも大きな声に、先輩は一瞬驚いた様子を見せた。

 しかし、すぐに俺の制服がずぶ濡れで、水滴が袖口からぽたぽたと垂れていることに気づき、ほんの少し笑みをこぼす。

「嘘つきじゃん……。嘘はダメだよ?」

 その小悪魔のような返事と、いたずらっぽい表情に、俺は思わず困惑してしまった。

「いや、本当ですって。まじで体が強いので大丈夫です。鍛えまくってます!」

 必死に訂正しようとするも、言葉がぎこちなく感じる。

「あはは、別に怒ってないよ(笑)。でもそれ……ちゃんと着替えないと風邪引くよ」

 先輩の声は、まるで温かい日差しのように柔らかく、その一言で体がぽかぽかしてくるようだった。

 よくよく考えたら、先輩を好きになってから、こうやって話すのは初めてだ。

「大丈夫ですって。でも、あ、ちょ、へっくちょん!」

 唐突にくしゃみが出てしまった。しかも、かなりダサイくしゃみ。

 その様子を見た先輩が、まるで「ほらね」って感じの表情を浮かべながら、自分のバッグをゴソゴソと探し始めた。

「いや、別に風邪はひいてないと思うので」

「そういうことじゃないでしょ、ほら使って」

 先輩はバッグから水色のタオルをサッと差し出してきた。

「いや、別に大丈夫ですって」

「違うよ。後輩君がそんなビタビタなままでいられる方が困るのよ、ほら」

 先輩は軽くため息をつくと、立ち上がって無理やり俺の頭を拭こうとしてきた。

「ちょ、先輩!」

「ほら、黙って」

 まるでトリマーのように、先輩は容赦なく俺の頭を拭き始めた。

 俺は抵抗する間もなく、そのままやられるがままだった。が、一瞬ですぐに我に返り、「……すみません、自分でできます……」と小さくそう言って、慌ててタオルを受け取り、自分で拭き始めた。

 その様子に先輩は満足した様子で、「素直でよろしい」と笑った。

 この人、距離感バグっているな。

 たしか信二も、千紗は天然なところがあるって言ってたけど、まさかここまでとは……。これは勘違いする男が増えるはずだ。

 俺はただただドキドキして、顔が赤くなっていることをばれないように、必死でタオルで顔を隠しながら拭き続けた。

「それよりさ……君、たしか……、野球部の一年の……」

 バックから新しいタオルを取り出し、それでトランペットケースを丁寧に拭きながら、先輩がふと顔を上げて、静かに尋ねた。

「……あ、俺、輿水大気です。一年生で、野球部のピッチャーです!」

 また、妙に力の入った声になってしまう。

「そうだよね、有名人の輿水君。一年生エース君でしょう? 信二から話は聞いているよ」

 その言葉に、俺は驚く。

 あいつ、まさか、俺が先輩のことを好きって、言いやがったのか?

 一瞬で心臓が跳ね上がり、口の中が乾いていく。

「信二が困っていたよ。むちゃばかりするって」

 その予想外の答えに、拍子抜けしつつ、でも安心した。

「いや、そうでもないと思いますけど」

「じゃなきゃ、今日来てないでしょう?」

 先輩はクスクスと笑っている。その笑い声がどこか楽しそうで、それを見ていると、なんだか嬉しくなりつつも、もう少しいい話をしろやと、心の中で信二を呪った。

「でも、あの試合惜しかったよね、夏の決勝」

 先輩の意外な一言に、思わず驚いてしまう。

「え、試合……見てたんですか?」

「いや、全校応援だったし、私、演奏してたしね。でも、あれはすごかったな~。今までも何度か野球応援したけど、あんなに盛り上がった試合は初めてかも」

 考えてみれば、あの時、先輩のソロのおかげで、冷静になれて、ヒットを打てた。胸の奥がじんわりと熱くなった。

「ありがとうございます……」

 思わず声が裏返りそうになって、必死でこらえながら、ついつい頭を下げてしまった。

「何で感謝するのよ(笑)。でもなぁ~。甲子園だと、もっとすごかったのかな……」

 その一言で、我に返る。

 あの失投。

「お前のせいじゃない。援護できなかった俺らのせいだ」

 先輩たちは攻めなかったけど、確実に俺の未熟さが原因。正直、舐めていたところもあった。だからこそ、俺は、あの日からずっと責任を感じていた。

 その悩む俺の雰囲気を察してか、千紗先輩はすぐに、「ごめん!ちょっといい加減なこと言っちゃったね……。デリカシーなかった」と、真剣な眼差しで謝罪してくる。

 俺は慌てて、「いや、違います。気にしてないって言ったら、嘘になります。けど、俺の未熟さのせいなので」と訂正した。

 先輩に気にしないでと言ったつもりであったが、でも、俺のネガティブな発言で、余計に雰囲気を暗くしてしまった。

 何か、話を変えないと。

 うーんと考えていると、その様子を見て、先輩が小さく笑った。

「でも、それくらい責任を感じられるって、真剣に向き合った結果だよね。だからこそ、人一倍努力もできるし、本当にすごいなって思うよ。私も見習わなきゃ!」

 先輩はうんうんと頷きながら、フォローしてくれた。その言葉が嬉しくて、心が少し軽くなる。

「でも、先輩も努力してますよね?」

「うーん、ぼちぼちかな。あんまり結果が出てないし……。才能がないから、頑張らないといけないんだけど、でも、その努力が足りてないのかな……」

 先輩は笑って返してくれたけれど、その嘘笑いに、なぜか無性に腹が立った。

「別にそうには見えませんけど……」

「うーん、でもそうかなあ……あはは、ごめんね。反対に褒められちゃったな……ありがとう」

 先輩は少し笑って返したが、その瞬間、何かが胸に引っかかるような気がして、心の中にイラっとした感情が湧き上がった。

「先輩、毎朝早くから来てますよね。確かに、夏休み以降、先輩の音がちょっと苦しそうに聞こえることもありますけど、それでも立ち止まらずに努力し続けているじゃないですか!」

 自分でも驚くくらい、言葉が、いや感情が溢れ出していた。

「俺は音楽のことよく分からないですし、結果も分かりませんが、でも、ここまで物事に真剣に向き合っている姿勢だけでも、それも一つの才能だし、すごいことだと思います。それをどうして卑屈に感じるんですか!  結果が出ないことよりも、その気持ちが百倍カッコ悪いですよ!」

 言った後、胸にモヤモヤと後悔が広がった。

 やっちまった、俺の悪いところ。すぐに感情的になりすぎる。よく信二に注意されるんだ。

 恐る恐る先輩の顔を見返すと、先輩は驚いた表情を浮かべていた。

 嫌われたかな。いや、そうだろう。初対面の人からここまで言われたら、気持ち悪いと思われるに決まってる。

「輿水君って……」

 先輩が何を言うのか、僕は一瞬で身構えた。

「……意外に真面目で、いい子なんだね。もっと近寄りがたくて、怖い人かと思っていた。でも、ありがとうね!」

 その言葉と笑顔を見た瞬間、さっきまでの悩みが吹っ飛んだ。

 でもその瞬間、頭の中で、先輩の言葉がぐるぐる回る。

(え? 近寄りがたいって? え? 怖い人って?)

 その混乱の中、先輩はゆっくり立ち上がると、「じゃあ、私、楽器だけは置いて、帰るから。輿水君、風邪引かないでね!」と言って、移動の準備を始めた。

 先輩が視線を正面玄関に向けると、内側から校内全体を開錠する用務員さんの姿が見えた。

 そのまま先輩はトランペットケースを手に取ると、軽く手を振りながら朱雀会館の方へ歩き出した。

(まだ話したい……)

 俺は焦り始めた。せっかく初めて話せたのに、これで終わりなんて、なんだかもったいない気がして……。自分でも理由がよく分からなかったけれど、何か言わなきゃいけない、今すぐにでも!

 用務員さんが正面玄関を開錠する音が聞こえた瞬間、まるで何かの合図のように、急に立ち上がって、貸してもらったタオルを振りながら、先輩に向かって叫んでいた。

「あの! また明日! 朝、会えたら! また明日です! タオルは明日! タオル!」

 思わず声が大きくなった。

 先輩は一瞬驚いた表情を浮かべたけれど、すぐに思いっきり笑って、「うん! また明日の朝ね!」と、軽く手を振りながら朱雀会館に向かって歩き出した。

 先輩が完全に背を向けると、俺は力が抜けて、全身に疲れが押し寄せてきた。

 試合後よりも、なんだか心底疲れた気がする。気づくと、その表情を見ていたのか、用務員さんがニヤニヤしているのが目に入った。

 あまりの恥ずかしさに、顔が真っ赤になり、慌てて校舎に駆け込んだ。

『おい、大気、知ってるか? 人は恋をするとな、アホになるんだぜ。カップルユーチューバーが言ってたぜ★』

 そんな言葉を、急に思い出した。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?