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二〇一七年三月二十五日

二〇一七年三月二十五日。

 病院の先生から「もう大丈夫だ」と言われた。

 工藤光が大量の風邪薬を飲んで自殺を図ったこと。そして、発見が早かったおかげで身体には何の問題もなかったことを聞かされた。

 母親らしき人、俺にはそうとしか言いようがない人は、安心しているようだった。

 その顔を見て、なぜかほんの少しだけ嬉しいと感じた自分がいた。

 この身体を持つ工藤光の命は、確かに救われたのだろう。だけど、それは「俺」じゃない。

 病院を出て、工藤光が住んでいたというアパートに戻った。

 正直、どうしていいか分からなかった。見慣れない家具、知らない匂い。自分のものではない空間に座っていると、ますます自分が誰か分からなくなる気がした。

 ただ、新しい身体に慣れることが最優先だと思い、問題を先送りにして、気を紛らわせるように身体を動かし始めた。

 まずはランニングを始めた。

 東京の大田区の街並みは、俺の記憶の中の甲府の風景とは全く違う。大きなビルや人混みの中を走ると、どこか現実感が薄れていく気がする。

 区営のジムを見つけては筋トレをしたり、夜はストレッチを欠かさずに行ったりした。

 工藤光の身体は背が高く、元々体格は悪くないけど、筋肉が足りないし、驚くほど身体が固い。このままじゃ野球なんて無理だ。

 だから、少しずつ鍛え直していくしかないと思った。

 同時に、頭の中を整理するために野球の勉強も始めた。本屋や図書館で新しい戦術や理論を学ぶ。それまでは、信二に口酸っぱく言われても、正直どうでもいいと思っていた分野だ。

 でも、いざやってみると、面白い。知らないことがまだまだたくさんある。無知の知。それが、唯一、今の俺に目標を与えてくれるものだった。

 週末には、六郷橋の河川敷で草野球をしているおっさんたちに混ざり、感覚を取り戻そうとした。

 彼らと一緒にプレイしていると、少しだけ「生きている」実感が戻ってくる。投げて、打って、守る。その瞬間だけは、過去も未来も忘れられる気がした。

 だけど、夜になると、どうしようもない不安に押しつぶされそうになる。

 本当の両親や家族は、俺がいなくなってどうしているんだろう。信二たちは、きっと甲子園を目指して、練習を続けているんだろうな。あいつらの顔を思い浮かべると、胸が苦しくなる。

 でも、一番気になるのは千沙先輩だ。

 俺がいなくなって、どうしているんだろう。朝練を、ずっと一人でやり続けているのだろうか。

 だけど、この世界には、俺を知っている人なんて誰もいない。孤独だ。とてつもなく空虚だ。俺は一体、どこにいるんだろう? そして、これからどこへ行けばいいんだろう?



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