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二〇一七年七月二十四日 その4

「おい、整列をしっかりしろ!」

 信二は、興奮を抑えながらも、しっかりとキャプテンとして指示を出す。

 勝利の余韻が漂う中、全員が素早く整列し、試合を終わらせる準備を整えていく。

「双方、礼!」

 サイレンが鳴り響き、試合が終了した。

 その直後、目の前に立つ甲斐学院の古橋と目が合った。

「……おめでとう」

「……ありがとう」

 握手を交わし、そのまま自然と古橋と抱擁する。彼の表情には、どこか寂しさが感じられるが、満足した様子も浮かんでいた。

「優勝しろよ」

「あぁ、頑張るわ」

 一瞬冗談かと思ったが、古橋のトーンは本気だった。

 こうしてまた、人の想いを背負っていくのだ。

 甲子園の試合は、もう自分たちだけのものではない。山梨県勢全員の想いを背負って戦っていく。誇らしさと共に、その重さも感じる。年々引き継がれてきた優勝校の重みを、その時初めて実感した。

 校歌斉唱後、選手たちは三塁スタンドに向かい、仲間たちと共に優勝を分かち合う。

「うぉーーーい!」

 相変わらず、松田の声が響き渡る。

「うぇーーい!」

 須賀も叫ぶ。

 しかし、その野郎連中の後ろから、千沙の姿を見つけた瞬間、胸が熱くなった。

(あの応援歌、ちゃんと届いていたよ)

 手を振りながら彼女に感謝を伝えた。

 それと同時に、改めて自分たちが勝ったことを実感し、喜びが込み上げてくる。

 やった。甲子園に行けるんだ。去年の冬、あの苦しかった日々を思い出すと、あそこで野球をやめなくて本当によかったと思う。

 そして大気、責任を果たしたぞ。

「おい! あそこにキャプテンのご婦人が!」

「なに!! りん、場所を教えろ!」

 りんやはじめがはしゃぎながら、千沙に向かって手を振る。その姿に思わず苦笑いを浮かべる。

 こいつら、本当に、もう。

 ただ、千沙の隣にいた吹奏楽部の後輩が「私には、手を振らないの?」と、りんとはじめに文句を言っている様子が微笑ましいなと思った。

「おい、光も手を振れよ」と、りんが促す。

 その声が届いたのか、千沙は元気よく、光にも手を振ってくれた。

 しかし、光はそれを一瞥しただけで、「いいや」と一言。あっという間にベンチ裏に下がっていった。

 その瞬間、千沙の顔が一変する。今まで見たこともないほど、悲しそうな顔をしていた。いや、見たことはあったが、俺もあえて忘れようとしていた。何せ、それを見たのは、あの病室で……。

 その瞬間、思わず感情が湧き上がる。何かが引っかかっていた。やりきれない気持ちを抱えたまま、監督に「光が心配なので」と一言伝え、俺はベンチ裏に向かって光を追いかけた。



「おい! 光、待てよ」

「何ですか?」

 光の冷たい返事は、すでに彼の機嫌が悪いことを物語っていた。

 その言葉を受けて、信二の胸がほんの少し締め付けられる。

 いつもなら冷静に接することができるのに、今はどうしてもそれができなかった。感情に任せて、叫んでしまう。

「せっかくみんなが応援してくれたんだろう。しっかり挨拶やお礼をしろよ!」

「いや、しましたよ。普通に」

 光はあっさりと答えた。その言葉からは、まるで何も感じていないかのような冷淡さがにじみ出ている。優勝の喜びに包まれているはずのこの瞬間に、彼の態度がまた、妙に腹立たしく感じられた。

 今まで、光が転校生であることから少しぎこちない部分があったのも事実だった。何かを隠しているような気がしていたし、自分の本当の気持ちを話さないことも。すべてわかっていたが、それでも大目に見てきた。

 何せ、光が転校してきた理由が親の仕事ではなく、実際には野球部の先輩にいじめられて自殺未遂をしたことだと監督から聞かされていたからだ。だからこそ、あえて深入りしないようにしていた。

 しかし、今日は、今日だけは、その我慢を超えて、彼の態度がどうしても許せなかった。

「してないだろう。しっかりやれよ」

「しました。アンダーシャツの汗もひどいので、すぐ着替えたいです」

 その一言に、言葉が詰まった。

 普段の冷静さを保とうとしたが、どうしても沸き上がる怒りを抑えることができなかった。

「おい、そんな失礼な態度が許されると思ってるのか?」

「失礼? しっかり挨拶はしましたよ」

 その言葉に、さらに怒りが込み上げる。

「さっき、千沙が手を振ったのに、返さなかっただろう! 挨拶をちゃんとしろ!」

 光は一瞬沈黙した後、冷ややかな声で返してきた。

「それって、今怒っているのは、千沙先輩に返さなかったってことですよね?」

「おま……。何を言っているんだよ?」

 俺は思わず声を荒げるが、光の目はどこか冷ややかで、反抗的だ。その瞬間、光は何かを言おうとしたが、すぐに言葉を飲み込み、しばらく沈黙した。

 沈黙は、数分間続いたと思う。

 しかしその後、光は深いため息をついて、ようやく口を開いた。

「先輩……」

「なんだ?」

 真っ直ぐに俺の目を見た光は、いつもの光とは違って見えた。

「お互い、そろそろ本音で話そうぜ。なあ、信二」


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